久しぶりの記録 2017年10月26日(木)
昨年2016年12月28日のNO39で止まっていた晴歩雨読を再開します。
2017年の1月から3月の三か月間は、急遽たのまれた小学校の担任をしていて、大学の講義のお便りを書きながら、小学校の学級便り「こぎつねさんぽ」を20号まで書きました。晴歩雨読を書く余裕がまったくありませんでした。
4月からは、午前中は幼稚園に通いながら、大学の講義が週に3つもあり、特に京都こぎつね大学の理科を今年から始めたので、晴歩雨読どころではありませんでした。土日まで、資料作りに追われていました。また、7月には父を亡くし、さらに自転車で右膝を痛めて、7月は歩けない状態でした。この4月からの四か月間も、嵐のように毎日が過ぎて行きました。
7月末に葬儀を終え、大学の成績を8月上旬に終えて、さらに8月中は葬儀の後のいろいろな手続きを進めました。9月の四十九日を迎えたころ、やっとすべてのことを終えた感じでした。今年の夏も暑い日が続きました。膝も痛めているので外に出て動き回ることが出来ませんでした。
そこで、家にいる時間が多いので、新しいブログを立ち上げて、これまで書いてきたお便りを整理しながら入れる作業を進めました。膝を痛めて歩けないので、かなり進めることができました。理科だより6年分、学年だより6年分、学級だより1年分、最後の担任2か月間の20号分を現在入れ終わりました。600の表題を持つお便りを記録することができました。コンピュータの中で、あちこちに保存されていたお便りを、全て見つけて整理しました。次は、学習研究誌、研究会の資料、出張、講演の資料などを、整理しながら入れていきたいと思います。これらが進められると、こぎつね小学校での仕事の全記録が入ることになります。これまでに書いてきた文章が、ブログの表題一覧から検索して見ることができます。個人のコンピュータの中のデータでは、自分以外の人には見ることが出来ませんが、ネット上に置くと、いつまでも残ることになります。また、そのブログは、表題だけでなく、文章内の全ての言葉にも検索をかけることができて、とても便利です。自分のデータベースができました。なにより怖いのは、コンピュータが使えなくなった時、全て見ることができなくなります。
こんなことで、今年1月から9月までは、嵐の如く、小学校の担任、大学の講義、幼稚園などに時間を使う生活でした。10月以降、足の調子も少し良くなり始めていて、大学も週に2つになるので、前期よりは少しだけ楽に一週間を過ごせるようになります。晴歩雨読も隙間で書き始めて、自分の生活を楽しく計画的に進められるようにしていきたいと思います。以前、晴歩雨読を書いている時は、地図をよく見ていました。さらに、本を整理しながら、読んだ本について記録ができていたとも思います。
読書も、少しできるようになってきました。「虫の春秋」奥本大三郎、「独学でよかった」佐藤忠男、「持たない暮らし」下重暁子、「部活があぶない」島沢優子、「日焼け読書の旅かばん」椎名誠、「百歳まで歩く」田中尚喜、「本物の教育」林純次・阪本凌也、「死ぬほど読書」丹羽宇一郎、「下流大学が日本を滅ぼす」三浦展、「ノートの神さま」丸井章夫、「村上春樹翻訳全仕事」村上春樹などの本を最近読みました。本を読んで、歩いて、記録して、また本を読む生活がいいなあと思います。なかなか、そのリズムになれないので困ったものです。晴歩雨読の生活を早くしたいと思います。
9月末になって、大学の後期の講義が始まりました。こぎつね女子大学と大阪こぎつね大学の二か所です。前期よりは、かなり楽になります。こぎつね女子大学は、150人の学生を二時間に分けて、続けて同じ講義を進めます。小学校で月組、星組の理科をしていた時と同じだと思えば、二回同じ講義をすることはこれまでもありました。しかし、一時に75名の学生を相手に講義をするのは、とても大変です。気力と体力が必要です。こぎつね女子大学の学生は、思った以上にまじめで、ノートをしっかり書いてくれるので少しは救われます。しかし、人数が多いので、ふりかえりを読むのがとても大変です。全員のふりかえりを読んで、記録していくのには半日かかります。学生に宿題を出すのを昨年は控えていましたが、積極的に出すべきだと思いました。ブログを見ることも宿題にできます。今年の夏に取り組んだ、お便りを入れたブログは、とても役に立ちます。さらに、日々の幼稚園児とのやり取りを入れている自然のブログは、保育を目指す学生には、新鮮でしょう。なかなか、リアルタイムで幼稚園児の記録をしているブログは少ないのではないかと思うので、とても価値があると思います。
これから、ブログには、学習研究誌の文章を入れていこうと考えています。並行して、こぎつね研究所に記録した講座のテキストや、おたずねへの返事も、入れていくことができます。また、この晴歩雨読も39号まで書いているので、順次入れていきます。項目としては、①学習研究、②晴歩雨読、③手紙、④理科講座のテキスト、⑤大学のテキスト、があります。教育雑誌に書いた論文は出版社の権限もあるので、控えるようにします。
最近、幼稚園の子ども達の動きを見ていて考えたことがあります。幼稚園の先生が思っている困った子ども、集団行動から外れていく子どもは、発達障害と言われるようになってきています。それらの子ども達は、個別に話すととても個性があり、能力的にとても賢いと感じる子ども達です。その子達が楽しめる活動が、それぞれのクラスで、どうしてできないのかと、疑問に思うようになってきました。集団になじませること、一斉活動をスムーズに進めること、規律を守る子どもに育てることが、最優先になっていて、学びの質、個人の学びの楽しさ、それぞれの探究の価値が、どうも置き忘れているような気がします。ちょっと変、と言われる子どもが、興味を持って関わっていくような活動ができないのでしょうか。それは、個性的な学びを認め合う取り組みだと思うのですが、実現できていません。
集団活動に入れない子どもが変なのではなく、子どもが入れない集団活動をしている教師の方が問題なのかもしれません。これまでの作業中心の活動、発表を目指した一斉活動がよくないと思います。子どもそれぞれの持ち込みから活動から一日の保育を始めると、子どものための活動になるのに、先生が与えた環境で活動をさせようとするので、個性的な子ども達は、離れていく傾向があります。
先生が主体的に話すことは、子どもの成長のための大切な学びの時間を取り上げているので、できるだけ簡潔に、子ども達の時間を使って申し訳ないというような感覚で短く話すことが大切だと思います。さらに、松下幸之助さんの「君はどう思うか」という、問いの仕方が足りないのではないかと思います。
「先生勝ち」という言葉を先輩から聞いたことがあります。「今日の授業は先生勝ちの授業だね」と先輩から言われると、その学習には、子どもの能力が生かされていないということです。先生の価値観を子どもに押し付けていく活動を、いかにも子どもが自らしたいこととして置き換えていくことが得意な先生は、さらに罪が深い教育をしています。しかし、子ども自身が受け身の学習が好きというので、教師がどんどん与えるのは、これは、いくら子どもが好きと言ってもよくないのです。ここは、学ぶ側の意識の変換をさせるようにします。受け身好きの子どもで、能力の高い子どもは、とても危ないのです。どんどん教育されていき、よくない担任の時につぶれてしまうのを、これまで小学校の教育でも見ています。能力が高いのに、かわいそうな子ども達です。
自ら学ばない小学生に、教師が教えない教育をぶつける時、子ども達は、とても迷いの時を過ごすと思います。混乱を起こすけれど、それを乗り越えさせて、自分で考える習慣を身に付けさせるようすることが大切です。自分で学ぶことは楽しい。そして学びを自ら発信することは、さらに楽しいことを発見させたいと思います。全てを子どもに託するのではありません。子どもにできないのは、お金の管理、時間の管理、整理整頓かもしれません。そこを大人が上手にマネジメントしてあげると、子どもは、伸び伸びと個性的能力を発揮させることができると思います。