東京さんぽ(東京駅~飯田橋)2016年3月20日(日)
3月12日(土)、新大阪発7時37分発の新幹線に乗り、東京駅に10時13分に着きました。今日は、東京である会議までの3時間ほどの時間で、飯田橋まで歩く計画を立てました。東京駅からだと4㎞なので、まっすぐ歩くだけなら1時間もかからないコースです。
新幹線の中でグーグルマップを見ながら、歩くコースについて時間をかけて確認しましたが、東京駅を出るところでまず間違えました。改札の駅員の方に「こちらの出口は皇居側ですか」と聞くと、「反対側です」と言います。改札を出てしまうと、東京駅の向こう側に行くのがとても大回りになるので、出る前に聞いてよかったです。度々来ているのに、まだこんな方向感覚です。
東京駅の丸の内ロータリーは工事が続いています。駅舎は改修されてきれいになっていますが、ここはかなり前から工事中です。何年もかけてやっています。工事中の細い仮歩道を抜けて東京駅から皇居へと向かいました。今日は歩くつもりなので薄着で来ましたが、曇り空で寒く感じます。皇居外周は、いつも多くの人が走っているのを、関西のテレビでも見ているので、どんな道を走っているのか興味があります。村上春樹も走ると本に書いていました。イメージとしては、皇居と道路の間の公園のようになった、ゆったりとした遊歩道かなと思っていましたが、実は、車の通るすぐ横の歩道だということが分かりました。立て看板には、「ここは歩道です。ランニング専用道ではありません。」と書かれています。確かに今日も多くの人が、サングラス、タイツ、カラフルな運動靴というようなスタイルで走っています。ふらふら歩いていると、どんどん追い抜かれていきます。
皇居では、桔梗門を見に行きました。門の前に立つ二人の警備員から声をかけられないように、何気なく中をのぞきこみましたが、奥まで見えないようになっています。天皇陛下が歩いているところは、当たり前ですが見えません。団体ツアーの人たちが、旗を持った案内人から解説を聞いています。その横を通り抜けるとき、一人で歩ける自由はいいなあと思いました。桔梗門から堀に沿って北側回りで飯田橋方面に向かいました。ランニングしている人たちに追い抜かれながらしばらく歩くと、大手門がありました。そこはなぜかどんどん人が入って行くではありませんか。一瞬、「今日は特別に皇居に入れるの?」と思ってしまいましたが、皇居東御苑は常に見学できるようになっているということでした。田舎から出てきた団体客と同じだなあと、心の中で思いました。入場は無料ですが、入場者カードが一人ひとりに渡され、出口で返却するように管理されています。警戒は厳重にされていて、あちこちに警備員が立っています。変な動きをする人や、怪しい恰好をしている人はチェックされているのでしょう。苑内の歩くコースを掲示板で確認しました。東御苑への出入り口は、大手門だけではないようです。そこで、通り抜けて北側の乾門に出ることにしました。今回は、二の丸庭園には行かないで、百人番所の前を通り、江戸城が建てられていたところ(天守台)へ向かいました。坂を上がると、広々とした芝生があり、その向こうに石垣が高く積まれた高台が見えます。広場は、早咲きの桜、そして梅などがあちこちに咲いています。多くの方が、花を楽しんでいます。途中には、「松の廊下」がかつてあった場所であると看板が立てられていて、歴史の舞台がここだったのかと改めて知りました。広い芝生を抜けて、石垣が高く積まれた天守台へと急な坂を上がりました。上の空間は思っていたより狭くて、かつてここにはお城が建っていました。石垣のラインの延長上に、お城の建物があると考えるとかなり広いのかもしれません。今は、天守閣はありませんが、高台からでも見晴らしはとてもいいです。天守台を降りて、乾門から東御苑を出ました。広い通りを渡り、科学技術館、武道館がある北の丸公園の中を歩くことにしました。
武道館には、たくさんの若者が並んでいました。看板には「ゆいかおり」と書いていて、なんのことかさっぱりわかりません。たくさんの人が、グッズを買うために驚くほど長い行列を作っています。横を通るとき見ると、女の子の写真がついたTシャツやポスターを買っているようでした。後で、インターネットで調べると、「ゆいかおり」とは、小倉唯&石原夏織のことで、声優ユニットみたいです。初の日本武道館公演“「RAINBOW CANARY!!」(レインボーカナリー)〜Brightest Stage〜”を3月12日(土)に開催しているとありました。コンサート前に早く来て、グッズを買っていたのでしょうか。
その若者が並んでいる武道館の前を通り抜けると、そこは、靖国神社につながっていました。皇居と靖国神社は、そんな近い位置関係にあるのだと今日歩いて初めて分かりました。歩くことは大切です。靖国神社の参詣道の前半は、青空古道具マーケットをしていました。古着が中心ですが、食器や古い道具、美術品なども並べて売っています。右翼の人たちが隊列を組んで歩く雰囲気ではありません。しかし、境内に至ると、厳かな雰囲気が静かに漂っています。
靖国神社境内から北へ出ると法政大学があり、その前の坂を下ると、あの歌にある神田川になります。靖国神社は段丘の上にあり、飯田橋周辺は神田川が削った谷の中にあるようです。かなり高低差がありました。飯田橋近くには神楽坂がありました。地名は聞いたことがありましたが、予想もしていない時の出会いなので「こんなところに神楽坂ってあるんだ」と、少し驚きました。
神楽坂についてインターネットで調べてみました。
「神楽坂は、坂下が海抜5m、赤城神社のあたりが24mである。700mで19m高くなる。永井荷風はこの坂を何度も上がった。坂上の矢来町三番地には、荷風が師と仰ぐ硯友社の同人広津柳浪が住んでいたということである。荷風文学の出発点がこの神楽坂であることは、あまり知られていない。大正6年に荷風が発表した『書かでもの記』には「わが文士としての生涯は 明治三十一年わが二十歳の秋、『簾(すだれ)の月』と題せし未完の草稿一篇を携え、牛込矢来町なる広瀬柳浪先生の門を叩きし日より始まりしものというべし」と述べ、 さらに「先生が寓居は矢来町何番地なりしや今記憶せざれど神楽坂を上がりて、寺町通りをまっすぐにいく事数町にして、左へ曲がりたる細き横丁の右側、格子戸造りの平屋にしてたしか門構はかなりしかと覚えたり」と書く。」
「夏目漱石も神楽坂を頻繁に利用した。大正4年になる『硝子戸の中』では こんな回顧をしている。「買物らしい買物は、大抵神楽坂まで出る例になっていたので、そうした必要に馴らされていた私に、さしたる苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来の坂を上がって 酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようという、あの五、六町の一筋道などになると、昼でも森が陰森として、大空が曇ったように終始薄暗かった。」『それから』 でも、漱石は主人公の代助を袋町に住ませ、神楽坂や地蔵坂を行き来させている。このあたりの土地鑑も確かである。」(坂学会の記述より引用)
駅から駅までの散歩はいいものです。起点と到着地だけを決めて歩くと、その途中に偶然出合うものがあります。歩きながら、偶然の出会いを探す散歩です。もしかしたら、行きたい所をつなぐように歩く散歩より、楽しいかもしれません。東京は、地下鉄が網の目のように通っているので、どこを歩いていても、地下鉄の駅に出会います。方位磁針だけをもって歩いて、あとで、歩いた道を地図で確認するのもいいものです。