学習のふりかえり 2017年7月18日(火)

 

  こぎつね短期大学の「教職入門」の学習も、最終回となりました。全員が本当によく頑張ってきていると思います。お便り「こぎつねだより」を、振り返ってみようと思います。

 

①No.01  2017年4月11日(火)   自らの学校時代をふり返る

 ②No.02  2017年4月18日(火)   自ら学習を進める子どもたち

 ③No.03  2017年4月25日(火)   朝の会、日記、自由研究

 ④No.04  2017年5月02日(火)   学級経営や環境作り

 ⑤No.05  2017年5月09日(火)   自由研究を考える

 ⑥No.06  2017年5月16日(火)   学校と家庭をつなぐ

 ⑦No.07  2017年5月23日(火)   教材研究や指導法

 ⑧No.08  2017年5月30日(火)   新しい学力観

 ⑨No.09  2017年6月06日(火)   新しい学習の在り方

 ⑩No.10  2017年6月13日(火)   学校と家庭とのつながり

 ⑪No.11  2017年6月20日(火)   学校の問題

 ⑫No.12  2017年6月27日(火)   木下竹次先生の精神

 ⑬No.13  2017年7月04日(火)   おたよりを書くこと

 ⑭No.14  2017年7月11日(火)   先生になるということ

 ⑮No.15  2017年7月18日(火)   学習のふりかえり

 

 私も、前回皆さんに紹介しました、ブログ「きつねTのこぎつねだより」の作成をしながら、これまで自分が書いた文章を読み直し、修正して、ブログで読めるように登録しています。コンピュータのあちこちに入っていたファイルを集めて、お便りをネット上ですぐに読めるようにします。現在、80ほど入れました。大学の講義資料にも使える、私の学びのバックヤードになってきていると感じられます。全てのこれまでのお便りや論文を集めて整理したいのですが、まだ全貌が分かりません。前回も書いたように、おそらく800ほどの凄い量になりそうです。この、教職入門のお便り「こぎつねだより」も、いずれ修正しながら、登録できると思っています。その時には、皆さんのふりかえりも、名前は伏せますが、一緒に学びを作ってきたこぎつねとして、登場するかもしれませんよ。

 

 私はこれまで、教師の仕事も、作曲家や歌手が出しているCDを創るような仕事にならないか考えてきました。それは、何度も聞き直すことができ、何度も見直すことができるような仕事です。その時しかできない仕事を、その時の子どもと共に作品を創るということです。小さな仕事を集めていき、シリーズ性のある表現にしたいことが夢でした。CDを作るような教育はどうあればよいのか、何度も振り返って積み上げていく教育はどうあればよいのか、教育を芸術の域に引き上げることができるのかについて、考え続けてきました。一枚の音楽CD作品を創るような仕事として、教育を芸術として進めることができないかを、考えてきました。

子どもは教師の力だけでなく、多くの環境と個性により成長します。ここに教師の芸術性は求められません。では、その環境を作る仕事は、一つの芸術的な表現によるものだと考えると、その学びの環境を語るお便りは、教師による教育の在り方を表す作品になるのではないかと思いました。一つの教育場面に対して、教師のその時の持てる感性を総動員して子どもと関わり、子どもがどのように響き合い、その結果、子ども達はどのようなリズム、感性、知識を身に付けるのか。子ども達は表現する言葉、文章、動きは、人が成長していくときに示す、素敵な姿です。子ども達が、生き生きと活動する「こぎつねワールド」を創ることができるかが、教師の力量となります。そこに、芸術家としての教師、また、職人としての技や感性が磨かれるのではないかと思います。

 

今回、みなさんと一緒に学んできた教師・学校・学習については、常に進行形の状態で、書き進めてきました。他の大学の資料作りや幼稚園のブログ作りもあるので、時間に追われながらの仕事ですが、昨年の資料は使わないで、書いてきました。

15曲入ったCDを、みなさんに届けることができたでしょうか。大学こぎつねの皆さんも、この15回分の「学習のふりかえり」を並べてみたり、自分が書いた作品(振り返りやレポート)を見直してみたりすることで、半年間の成長を実感できるでしょうか。並べてみることは大切です。自分の学びの構造化となります。自分の作品としてのCD15曲ができたでしょうか。

 

<学習の始め方> 

1.「テーマ」と「めあて」

 「毎時間の学習をどのように始めるのですか」と、若い先生からお尋ねされることがあります。ここでは、学習の始め方について考えてみたいと思います。

 一つの方法として、「今日の学習はどこからでしたか?」と、子ども達にとぼけて聞きながら、前回の学習の思い出しを、上手にされているベテランの先生がいます。でも、毎回、毎回使える方法ではありません。多くの先生は、「えーーと、教科書の○○ページを開いて、では、そこを読んでいこうか。」とか、「では、今日の学習は、○○をしますので、しっかりノート書きながら理解してね。」というような、学習の始め方をされているのではないでしょうか。

 そこで、まず「始め方」以前の、「学習」について考えたいと思います。

 個人が主体的に学ぶ学習には、「テーマ」と「めあて」があると考えます。これは、研究論文では、課題と仮説、課題と課題設定の理由、みたいなことに対応するのではないかと思います。また、身近なところの遠足で考えると、「生駒山登山」がテーマで、「春の植物観察」「体力作り」「グループの助け合いを大切に」などが学習のめあてに当たると考えます。生駒山登山というテーマは、既に決められているので、よほどのことがない限り変わることはありません。大切なのは「学習のめあて」です。子ども自体がめあてを持っていないと、「ただ登らされてしんどかった」だけとなり、させられる体験になってしまいます。めあてを「春の植物を見る」なら、植物図鑑を持って行ったり、押し花を作るために植物採集をしたり、デジタルカメラで撮影したりと、準備が必要です。めあてを持てば、登山のしんどさは、それほど問題にはならないのです。

 めあては、一人ひとり違っていてもよいのです。しかし、私は、話し合って、共通のめあても持つようにするとよいのではないかと考えます。特に、「けいこの学習」では、協同的に学ぶ共通のめあてと、個人のこだわりのめあての二つを持つことが大切です。

 

2.「めあて」の元

 めあては、どこから生まれてくるのかについて考えます。めあては、学習のテーマについて子どもがどれくらい独自学習できているかで、その深さが違ってきます。深く独自学習をしていない子、その場で考えた子どものよくあるめあては、「今日は、サッカーをするので、一生懸命頑張りたいと思います。」「今日は分数をするので、間違わないように勉強したいと思います。」「今日は実験をするので、先生の注意をよく聞いてけがのないように頑張りたいと思います」等等。「今日は○○をするので、頑張って○○の勉強をしたいと思います。」の常套句を言います。これは、テーマを言い直しているだけで、個人の疑問や、調べてみたいことや、深めたいことなどを含んだ「切実なめあて」には行き着いていないのです。

 「めあて」は、独自学習の延長線上にあると考えます。独自学習は、私達のこぎつね小学校では、基本的な学びです。本来、独自学習を継続していくだけで、相互学習は極端に少なくてもよいのではないかとも考えられます。独自学習の連続的発展を学びの基本に置いています。独自学習をしていると、一人では解決できないこと、みんなで考え合いたいことが出てきます。また、みんなに発表したいこと、自慢したいことができてきます。この時、学習のめあてと独自学習からの発信がつながります。これは、遠足でも一緒で、「東大寺の大仏様」を見に行くときも、独自学習をしていると、見るべき所、調べてみたい所が定まっているので、意味のある遠足になっていくのです。

 独自学習は、先行学習ではありません。予習ではなくて、自分の研究や学習を、自分で始めるということです。学習とは、本来、独自学習なのです。学校でも、独自学習をします。家でもします。資料を読んでまとめたり、自分の考えを深めたり、疑問点を整理したり、実験観察をしたりします。自分への集中力と自学力です。

 授業中、ノートを書かない、隣の人と話し続けている人は、独自学習力が育っていない人です。一人になって、集中して独自学習ができない人です。

 独自学習をしていると、

①自分の考えが持てているので、主体的に学習に関わることができる。

②友達の独自学習のよさを理解できる。

③実験や観察では、いろんな失敗をしているので、実験観察の難しさを理解している。

④適切な資料や参考書を自分で探して、使いこなせるように育ってきている。

等、のよさが見られます。

独自学習で取り組んだ内容から「今日の学習のめあて」を発表することができる子どもは、独自学習を連続発展させられるように育ってきている子どもです。

 

3.学びの構造化

 学習の始まり方の話に戻りましょう。では、めあての発表から、どうするのかと言えば、「これから取り組む学習の構造化」をしていきます。独自学習で進められ深められた個人の学びの構造と、より多くの子どもの「めあての構造」は、多様性、階層性においてかなり違いがあります。この広がりや深まりの違いを知ることが、学びの第一歩なのです。学習を始めるチャンスは、毎時間あります。いつ、本気で学習を始めるのかは、その人次第です。

 最近、子ども達に、また見学に来られた先生方によく言うことは、「ノートはその人の頭の中の様子を示していて、授業の黒板は先生の頭の中を示している」ということです。教えたい先生は、教えることばかり書いています。考えさせたい先生は、問題点を整理しながら書きます。子どもと一緒に学習を創りたい先生は、子どもの考えを構造化して書きます。空っぽの人は、真っ白です。学びの構造の見えるノート作り、黒板作りをしていくことが、学習の始め方の大切な視点なのでしょう。

 

 

<力を集める>

1.子どもは知らない

 プール納めの会の時に、4年生の一部の子どもが、座っている後ろのネットに広がっているフウセンカズラの実をちぎって、投げて遊ぶといういたずらをしてしまいました。15人ほどがかかわっていて、名乗り出た人に、反省文を書いてもらいました。

 その時、私がお話をしたことは、「花壇の植物は勝手に成長しているのではなくて、先生や用務員の方の、夏休みの間の水遣り、手入れがあって初めて皆さんが見ることができるのです。先日の日曜日には、PTCCのお父さん方が、暑い中、校庭周辺、花壇の草刈りをしてくださったおかげですよ。そのようにして、守られ、育てられているものを、いたずらに使ってよいものですか。」と話しました。

 「子どもは、いたずらをするもんですよ。」と、子どもの味方のような、格好のよい発言をする人もいます。その人は、毎日植物に水をあげている人ではないのです。草取りをしている人でもないのです。子ども達は、多くの大人の愛情、手間、思いやりを受けながら育てられています。それを、子ども達に、うまく気付かせるように指導することは大切なことです。

 

2.大人の愛情

 理科の夏休みの課題は、フィールドノートを書くことと、4年生にはLED工作、5、6年生には臨海合宿の時に採集した貝の標本作りがあります。どれも、親の愛情をたっぷり受けて、取り組まれています。附属小学校だからということは、当然あります。教育に熱心な方が、遠くから電車に乗せて子どもを通わせる学校であるということからも分かるように、教育に手間、お金、時間をかけたい意思を持っておられる保護者の方々が多くおられます。

 私は、どんな保護者も、子どもの教育に熱心になってほしいと常々思っています。ほっておいても子どもは育ちません。フウセンカズラもヒマワリもヒョウタンもヘチマも、実を結ばないのと同じです。

 保護者の力を排除するようなことを言われる先生もいます。「子どもらしくない。」「親の宿題か、子どもの宿題か分からない。」と、偉そうに言われるのを聞くこともあります。「奈良の学習法は、子どもが自分で取り組むことが基本じゃないの。」とも言われます。しかし、家庭でしているので、多かれ少なかれ親がかかわるのは当たり前と考えるのが普通です。普段の子どもの、実際の力を見たいのなら、学校で、教師が見ている所で、発揮させればよいのです。自由研究を学校で書かせる、工作を学校でさせる、観測や観察を学校でさせるなどです。子どもの実力がそのまま出ます。しかし、当然、親がしっかり関わって育てられている家庭の子どもや、温かく見守られている子どもは、子ども自身で取り組むいろいろな場面で活躍していきます。その子の心には、保護者の愛情が裏打ちされているからです。

 夏休み中、講演会、校内研修などにたくさん関わりました。公立の先生方に、子どものレポートやノートや作品を見せると、「それは附属だから。私達の校区ではありえない。」と、自分の校区の悲惨さを前面に出され、子どもの育ちの事実を認めないことがよくあります。私も公立小学校で16年間教えましたし、勿論、自分自身も公立の小学校、中学校で学んだ子どもでした。公立校区のことを全く分からないで話をしているのではないのです。公立はそんなに悲惨ではありません。保護者の力を、教育に取り入れる教師の側の力がないのです。保護者の信頼がないのです。我が校のような熱心な保護者の多い学校でも、親の信頼がないと悲惨なクラスになります。

 教育は、信頼の上になりたっています。信頼を得ると、子どもも保護者も、学校と一緒に、教育に取り組めます。悲惨と教師が思い込んでいる校区ほど、一度信頼を得ると、思いも寄らない力を発揮します。校区が悲惨と言っている先生は、実は、校区が悲惨なのではなくて、自分が悲惨な状況なのです。確固たる教育的な信念、確実な学習を創る力がないのです。「いかなる手段を使っても子どもに力を付ける」という信念が伝わると、保護者も子どもも頑張れるのです。

 今回、4年生に取り組んでもらっているLED工作は、おそらく熱心な我が校の保護者でも、とても困られたと思われるし、おそらく理科教諭の私に「こんなに難しいもの、子どもの教育に必要あるの?」などと、発せられている声も聞こえてきそうです。しかし、このように一部の親からの声も承知しながら、殆どの学校でおそらく取り上げられていないLED工作を、夏休みの課題にしました。私達は、教育の最先端を常に探りながら、科学教育を発展させています。苦労させてしまいました。ありがとうございました。素晴らしいLED工作ばかりでした。

 

3.力を集めましょう

 保護者のお力をお借りして、教育を進めることは、私はとても意味のあることと思っています。学校の中の学習は、教師と子どもが力を合わせて創ります。家庭は、保護者が思いっきり我が子の教育にかかわって、自分の子どもを育てることは当然なことであると思います。忙しい方も多いと思いますが、関われる人から関わる、そして、関わる課題が見つけられない方には学校が示すことも必要かなとも思います。保護者の力も、思いっきり活用させていただくことが、その子の教育では必要だと思っています。「いかなる方法、いかなる方の力を使っても、子どもに力をつける」という信念でいきます。

 

4.願いは叶う

 かつて、私が担任をしていた頃、いろいろなお出かけ(こぎつねさんぽ)に出かけて、素晴らしい方に子どもを出会わせてきました。4年では比叡山の千日回峰行の阿闍梨様、6年では高野山奥の院の一番偉いお坊様、また、1年から6年を通して奈良の元興寺をはじめ、各お寺のお坊様、神社の宮司様、そして、各地の博物館の学芸員、奈良女子大学、京都女子大学、京都大学、東京大学などの教授からの講義など、到底子どもが直接会えないような方々に出会わせて、子どもを育ててきました。さらに、東京大学には小学生が初めて入って授業を受け、東京の電通も初めて子どもが入りました。白川郷には、小学生が学校単位で泊まるのは初めてでした。「いかなる方法、いかなる手段を使っても、子どもに力をつける教育」と言う信念を持ち続けると、願いは叶います。

 最高の学習環境を準備するのは教師、保護者の役目だと思います。子どもは環境次第、周りの大人次第で、育ち方が違ってきます。目先の忙しさに負けないで、今しか出来ない事を、子どものために尽くしましょう。