学びについて 2017年11月7日(火)
みなさんのふりかえりを読んでいると、教職課程の学生が書いた文章になってきています。本気で先生になるために学び始めたように感じます。そこで、次のような文章を書いてみました。少し、一回生の学生には厳しすぎますが、読んでみてください。真剣に学びに向かおうと心に決めている人も多くなっているので、心の深い所で受け止めてもらえるかなと思います。昨年から大学の講義を5校ほど経験していますが、その中で感じてきたことをまとめました。小学校の現場の先生は、次のように思います。
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どうも、大学も教え込み教育で、大学生を育てているようだ。バイト疲れの学生が居眠りをしながら聞くのにはちょうどよいのかもしれないが、大学で学ぶということの価値について、もっと真剣に考えてほしい。アクティブラーニングという、形だけの学習方法の提案だけではなくて、学ぶとはどういうことかというところからの、自ら学ぶ学習を立ち上げてほしい。学生は、これまでの小・中・高校でも教え込み教育で育ってきているので、「講義を聞く」というのは当たり前として受け取っているかもしれない。しかし、大学は、「『学ぶということ』は教えるものではない」ということから、出発してほしい。自ら本を読み、フィールドワークに出かけ、資料を持ち込み、議論をしあって学んでいく学習にすべきであると思う。大きな研究は必要でないが、小さなフィールドワークをし、小さな資料調べから、学習を立ち上げてほしいものだ。大学生は、学ぶことに忙しくて、寝ている暇も、バイトをしている暇もないというのが当然であるようにしたい。そのためには、大学の先生が責任を持って教育にかかわってほしい。私のような非常勤の先生にまかせているのは、とても無責任だと思う。
自分で調べることが面倒な学生が多いと思うが、学問の面白さは、自分で追究することに意味がある。当然、教授が教えることからはレベルは落ちるけれど、学生の学びのレベルからの活動があって初めて、学びが始まるのである。これまで、学生たちは入試に向けての勉強が多かったけれど、大学では、自分が学びの主体になることから講義は始めるべきなのだろう。
たとえば、文学にしても、15回の講義のうち、半分は、自分で本を読むところから始めるべきだと思う。本も読まないで、大学の先生の作家論や文芸論を聞いても、なんの意味もない。同じように、理科も社会科も、まずは、身の回りの情報を集めるところから始める活動を、大学生の学びとしては当たり前としたい。自分で動き始めたことは、真剣に考えるものだ。初めての事なので、ほとんどの学生は、すごく低レベルからスタートをするが、それを大学のレベルに引き上げるのが、大学の先生の仕事だ。大学の先生は、自分の学びの体系、学びを構築する体験を持った人なので、その過程を大学生に踏ませるようにしていくべきだと思う。教職課程の場合は、子どもを育てる過程を、自分たちの体験を通して、真剣に考えることが、学びを創ることにつながる。
最近の高校生、大学生は、多くの時間スマホを見続けているので、本を読む時間が無いのではないかと思う。電車に乗っている間、また、喫茶店、乗り物を待っている間というのは、かつては本を読んでいる人がもう少し多かったように思う。高校生はほぼ全員、スマホを触っている。これは、今後の学力に大きな影響を与えるようになると思える。年間100冊、一週間に2、3冊本を読んでほしい。これから、日本はどうなっていくのだろうか。一部のエリートと、多くのスマホ消費者を育てる社会的構造に組み込まれていくのだろう。これから社会は、IT化がさらに進み、どんどん人がいらなくなる。工場の生産ライン、電車の改札や券売、銀行のお金の出し入れなど、多くの人が窓口となり働いていた所が、どんどん自動化されてきている。今後、たくさん人が並んでいるスーパーマーケットのレジ、タクシーの運転手、バスの運転手、トラックの運転手などが、次なるターゲットかもしれない。学校の教育も、これからおそらく半分はIT化されるように思う。教育のシステムが進み、自分で検定試験を受けて乗り越えていくようになるのだろう。探究の学習と、基本能力の習得が分けられるのだろう。英語の習得が、今、そのようになってきている。
私の研究教科の理科の学び方も、もっと学び方の見直しが必要であるかもしれない。中学や高校の理科は、高度なことをやりすぎていて、落ちこぼしを作るための学習になっている。結局だれも選択しなくなり、より科学教育の低下をきたしている。科学マニアの先生が作った中学、高校の理科教育を、根本的に見直さないと、日本の理科教育が駄目になる。科学がどんどん進化していて、それを取り込んでいくと、さらに難しくなっていく。最先端を取り込むことによって時代に遅れない教育をしているようで、一部の子どもにしか理解できない教育になってしまった。科学エッセイ、科学教育を分かりやすく紹介するライターが活躍し、素晴らしい文章を通して学べる教育機会を増やさなければならない。
大学の講義をしていて、大学生は、園児や小学生よりも賢いのかもしれないが、学びの可能性は狭められているように思う。幼稚園児、小学生は、全ての社会や自然の現象に向けて、興味の窓が開かれていて、習得していこうとする力が備わっている。そうしなければ、自分が自然や社会の中で生き残れないので、自分が置かれた環境に適合できるように、全ての能力の進展の可能性が図られるようになっているのだろう。幼稚園児、小学生は、何をしても面白いし、周囲の状況に適合していく。しかし、大学生は、自分が望んでいない不本意な選別をされてきているので、これまでに苦手意識がしっかり育てられてきている。通知簿を年間3回、小学校1年生から高校生まで12年間、「あなたはクラスで真ん中ですよ。あなたはクラスで最下位ですよ。」と、言い続けられてくると、自分のことがそれほど出来ないと思っていなくても、学校の中であなたは通知簿1です、△ですと諭されてきている。学校というのは、そんな非人道的なことをしている。テストをして、到達度を知らせる事は大切だが、相対評価でランキングする必要はない。このような不本意なランキングの中で、セレクトされている子ども達に、どのようにやる気を出してもらい、能力を引き出してあげるかについて、教職大学では考える必要がある。
大学生にどんな力を付けるのか。特に、教職につく学生に付けてあげたい力とはどんなことなのだろうか。ここでも、学習指導要領を教え込んで、それをテストして、選別することが大学の仕事ではない。学生の能力を伸ばすこと、学ぶ意欲を高める事、真の学び方を身に付けさせて教職の現場に出てもらう事だと思う。テスト能力を高めるだけの講義では、そんな先生がまた再び、勉強嫌いな子どもを生産するだけになる。どんな学び方が楽しいか、深まるか、どのように自分で学ぶ学習の環境を作るのかを、深く考えさせることが大切である。
学校とは、どんなことをする機関なのだろうか。物事を深く考える、自分の意見を持つことができる人になり、行動しながら学ぶことを身に付け、社会や自然に働きかける意欲を身に付けることである。大学は、知識を教えて選別する機関ではない。そのため、寝ている学生は、そのままではいけない。出席しない学生は、どうするのか。そのような学生は、先生になってもらっては困る。しかし、寝てはいられない講義、出席したくなる講義をどうするかを、大学として真剣に考える必要がある。教師になる力を付けてあげたいという一心で、教職課程を構成し、進めていくようにしたい。
教室は子ども達の一生にかかわる基礎基本が育つ、緊張した現場である。いい加減な教師はいらない。
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<前回の学習のふりかえり> 大学こぎつね
OT 前回のふりかえりを読んで感想を持つでは、自分では気づかなかった点を気付いていてすごいなと感じました。中でも私が一番に印象にのこったのは、「教科書に載っている文字や絵は、正直ただの暗号にしかみえないけれど、友達の書いた文字や絵は、不思議と印象に残ります」と、言うところです。確かに、お友達が書いたものというだけで、自然と興味がわきます。相互学習は大切だと感じました。また、相互学習の在り方では、相互学習において教師がすべて教えるのではなく、子ども達で学んでいくことは大切だけれど、決して教師が生徒をほったらかししてよいと言うわけではないと改めて感じました。生徒それぞれが、自分の意見がすぐに言える子や言えない子もいるだろうし、そこで、教師がほったらかしにしていたら、表面的には子ども達で学んでいるけれども、実際は子ども全体の学びにつながっていないと思いました。
OK 独自学習のメリット、デメリット、相互学習のメリット、デメリットを司会して、教育、学習について自分なりに考えることが、教育者になる自覚を持つ第一歩だと思いました。教育者としての自覚とは、子どもについて知ることから始まると思うからです。独自学習で、自分の気になる事柄について調べて、それを相互学習の場で共有し、意見や疑問を出し合い、そして、学級という大きな場で発表する。この力は、子ども達の学習意欲を高め続け、個性を伸ばすことに繋がると思います。そして、このようなきっかけが、成長して進学したとき、就職したときに、コミュニケーション能力、書く力、聞く力として出てくるのだと思います。小さいころに、いかに「自分の考えを人に伝えてきたか」が、その人の能力を決めるのだと思います。そんな力は、一つの学習法では身に付きません。独自学習、相互学習、そしておたずねで、子どもを成長させる教育をしていきたいし、私も共に学びたいです。
KY 独自学習とか相互学習とか、最初はどういうことか良く解らなかったけど、今日の授業で理解できました。まずは、独自学習では、学習意欲を高めて、自分の知りたいことや気になることを、深く調べる力を付けさせる。調べたことをきれいにまとめる力を付けさせる。次に相互学習では、自分のまとめたことを簡潔に分かりやすく、相手に伝える力を付けさせる。これは、最初は小グループから始めて、どんどんクラス全体とかで発表をしたりさせる。相手の発表や意見を聞く力を付けさせる。そして、疑問や深く知りたいことは「おたずね」する力を身に付けさせる。うまくできるか分からないけれど、もし教師になったら、たくさんの力を身に付けさせたい。
OZ 独自学習と相互学習の関連性、重要性を改めて再認識し、教師が教えないのではなく、あくまで教師は基礎を教え、場と時間を設定、提供し、そのうえで、子ども主体の発表を行わせるべきだと言える。また、まとめさせる力をつけるだけでなく、自分の考え、思考をいかにして伝えるか、そして伝わらなかったことへの見つめなおしなど、問題を自分だけでなく相手が考える問題、意見を取り入れ、切磋琢磨し合えることが重要だと思う。教師としての立場は勿論だが、教師は教師だけの観点であってはならないと私は考える。「教師は共学者である、また、学習の背景をなしていることが大切である」という言葉があるように、私も教師は、保護者の立場にも、子どもの立場にも、たくさんの立場にたって、子どもに伝えなければならないと思う。また、先生が言った中での教えとして、マーカーを引くというのは勿論大学生として大事なことではあるが、教師になったとき、こういった習慣づけが役に立ち、子どもとつながる場にもなるのではないかと改めて思い直した。
NM 相互学習で、疑問や意見を聞きあって、追究の種が生まれると書いていて、本当にその通りだと思いました。私も小学校の時、毎回友達の意見などに質問したりしていて、自分の意見と友達の意見の違いに気付くことができました。独自学習だけだと、自分が学んだことしか知ることができないけれど、そこから更に相互学習をすることにより、他人の意見を聞き、知識を得るだけではなく、自分が学んだことをもっと深く知れるから、とてもよいなと思いました。子ども達が、先生に教え込まれ過ぎるのもよくないけれど、子どもが主体になりすぎ、独自学習の弱い子ども達によって取り止めもない授業になってしまうので、そのバランスはすごく難しいことなんだなと気づくことができました。
MG 相互学習には問題点もあり、子ども8割教師2割の発言割合をしていたとしても、論点のない話し合いだったら意味がないという文に納得しました。今まで見てきたビデオを、そのまま真似をしても、実は大切なところは学んでいない。学習の根本的な所が分かっていない学習になってしまうと思います。教師が教える学習と、子どもがしっかり学べる独自学習の違い等も、とても難しく感じました。自分にも、先生のしたい内容に沿った意見を授業で言って、何の問題もなく進めていこうとしたことがたくさんありました。でも、これでは自分の力で解決できる学習ではなく、ただの、教師のための授業になってしまっていたと思います。やはり、教師に大切なことは、学ぶための環境を整え、深く見つける瞬間を作ることだと、この文を読んで改めて感じました。
YT 知識、基礎基本は大事なことだけれど、それと同じように相互学習、独自学習にも大事なことだと思う。小学校の時は、先生からただ教えられるだけでつまらなかったし、退屈で頭に入っていなかったが、自分から関心があるところや、自分で調べていたところは、今でも記憶に残っている。独自学習や相互学習、また基礎などを教える機会を創るのは教師の仕事であって、まず、教師がそれらをうまく調整できるかを考えることが、最初に先生としてやらなければならないことだと思う。