1年生の日記の育ち 2017年10月24日(火)
1.はじめに
こぎつね小学校では、特別な申し合わせをしているわけではないのですが、どの学級も日記に取り組んでいます。日記は、学習の基礎であり、日記を真剣に書けない子どもには、真の学習法が育たないと考えているからです。自律的な学習を進める子どもは、常に日記で自分を客観的に見つめ、深く学びを捉え直しをしながら生活を進めています。また、教師にとって、「学習と生活をつなぐ力」を育てるには、日記は最高の手立てであると言えます。日記は、学習を生活に広げたり、生活を学習につないだりする、窓のような働きをしています。
ここでは、1年生の日記の育ちの様子を見ていきながら、子どもにとっての日記の価値や、学習と日記とのつながりについて、見ていきたいと思います。
2.日記のプロに学ぶ
まず、プロの作家や研究者の日記に学びたいと思います。
私は、「○○日記」「○○の日記」と書かれた本をたくさん集めています。私の家の本棚と同じように雑多な並べ方ですが、一部を紹介します。「波止場日記」「カロリーナの日記」「独り居の日記」「ぐるぐる日記」「旅日記」「啄木日記」「ぼくの哲学日記」「カフカ全集:日記」「夏目漱石全集:日記」「寺田寅彦全集:日記」「樋口一葉:日記」「寸心日記」「三太郎の日記」「腹立半分日記」「植草甚一日記」「風来居日記」「巻向日記」「下北沢日記」「国文学『特集:日記』」「野性時代『特集:日記がおもしろい』」「日本の名随筆『日記』」等々。日記には、作家や研究者の背景にある実際の生活がそこにはあり、その人から文学や研究が生まれる生活の状況が記されています。物語には、登場人物の人生やできごとが表現され、生き方や考え方が書き込まれているのですが、それは、創られた作品としての価値です。しかし、日記は実際の人が日々の偶然のできごとに出会いながら、その時その時、感じたこと、考えたこと、行動した事実が書かれていて、もしかしたら真の文学がそこにはあるように思います。狭い空間、限られた時間の中で生きている私ですが、同じ一生という時間を生きている他人が、どのような場所で、どのような時間の使い方をして、それぞれの人生をどのように生きているのか、とても興味のあるところです。
文学者の日記は、日記自体が小作品であると考えられます。日々の出来事を、どのような言葉を使って表現していくのか、考察していくのかという、練習場でもあるのです。言葉によるスケッチ、デッサンをしている素晴らしい表現が多くあります。また、哲学者の日記は、日々のできごとを課題にして、深く物事を考える思索ノートのようです。さらに、探検者、自然研究、民俗学研究者の日記は、調査の記録ノートであり、野帳から毎日書き写された大切な記録としての日記です。一日の出会いを克明に記録していくことが、調査そのものの一番大切な活動であるのです。
このようなプロの日記には全く及ばないのですが、私自身も毎日日記をつけています。それは、自分がその日を生きていた、考えていた、その場所にいたという、足跡としての記録です。忙しくなるほど、年を重ねるほど、過去のできごとを忘れていきます。1ヶ月間、懸命に生きていたつもりが、日記をつけていないと、いったい自分は何をしてきたのか、茫然としてしまいます。忙しく活動している時は、深く考えながら行動していたつもりが、出会った人、行き先の地名、過ごした時間、考えたことがすっかり入り交じって、混沌としてしまいます。
忙しい時ほど、私たち教師には、日記が大切です。なぜなら、教育は場当たり的な仕事ではありません。探検家のような克明な記録ノートが必要で、さらに哲学者の日記のような思索のための記録が必要になってくるからです。
3.1年生の日記の育ちを辿る
昨年は1年生を担任しました。その時、「こぎつね物語」という小冊子を23冊出すことができました。おおよそ10日に1冊のペースで、内容は、授業の記録・子どもの日記・教師の日記からなります。毎回、20~50ページほどの週刊誌のようになりました。
次の文章は、その「こぎつね物語」1号に載っている、学校初日の日記です。親が横に付いて書かせているので、最初から立派な文章になっていますが、内容は子どもの体験から出たものです。1年間担任を終えて、今、<初日の日記>を読み直してみると、すでにその子のこだわりや見方が、よく表れていることが分かります。
▼TM きょうは、おとうさんと、いっしょにいこままでいきました。そして、おかあさんを、むかえにいったらおかあさんがいませんでした。そして、バスのうんてんしゅさんがたすけてくれました。
▼HD きょうはじめてしょうがっこうにいってたのしかったけど ちょっとだけきんちょうしちゃった。だけどいっぱいおともだちができてうれしかったです。
▼SM きょうはじめてのしょうがっこうでした。たのしかったしおもしろかったしよかったです。あとYちゃんと がくえんまええきまでいっしょにいけてよかったです。あしたの3年星ぐみといく おさんぽがたのしみです。
▼TS 1回めは2ページして2・3回めは1ページやって いとこのFがきて Mもいて2人もみないとだめでした。どうじにみないといけないので とてもたいへんでした。
▼YG かごにあながあいていたので みずがこぼれたのがおもしろかった。なぜあながあいていたのですか。
▼YY きょう、しょうがっこうでいろんなきょうしつをたんけんしたよ。Aちゃん(6年生)やさしくて、すごくおせわがじょうずだったよ。
▼TU きょう、一ねん月ぐみのみんなとたいいくかんにいって、みんなといっしょに、ボールで、あそびました。そして、たいいくかんで、あそんでいると、きがつきました。たいいくかんはすごくひろいときがつきました。そして、かえるときに、となりに、チューリップが、あかや、ぴんくのいろとりどりのチューリップがならんでいて、すごくきれいでした。きょうは、すごくたのしかったです。
学校初日の日記です。内容に、何を、どのように取り上げるのかで、その子の生活、感性、こだわり、見方が現れます。今読めば、「そういえば、この子は一年間そのようなことにこだわりを持っていたなあ」と思います。短い文章の中に込められた最初のメッセージが、今になって見えてきます。
次に、1年生の<10月ごろの日記>を見てみましょう。
▼SJ 今日ははっぴょうのことをかきます。1ばん目のはっぴょうはMくんです。じしゃくをはっぴょうしてくれました。じしゃくはこなでもうごかせます。2ばん目は、Kさんです。さといもをはっぴょうしてくれました。さといものはは、水をころころとおとします。つぎはNくんです。とびだすきょうりゅうをはっぴょうしていました。トリケラトプスがすきだそうです。つぎは、ぼくです。ぼくは、クマと森と人の本をはっぴょうしました。じょうずにできました。つぎは、Oくんです。ちゃいろい石をもってきました。それは、チャートという石です。ぼくは、休み時間にひろいました。ぼくはふつうの石に見えました。それと、体いくの時間に、のぼりぼうで一ばん上までのぼってブラブラしてほかのぼうにもうつりました。先生がおさるだといっていました。ぼくはクマなのにおかしいなあ。
▼OT 今日は、三時間目に国語がありました。O先生とみのまわりにあるもののかぞえかたのべんきょうをしました。えんぴつなどほそいものは、なん本とならいました。大きいどうぶつは、頭といいます。じしょには、けものをかぞえることばとかいてました。車は、だいといいます。牛どんは、はいといいます。じしょには、うつわにいれたものをかぞえることばとかいてました。小さいものは、こといいます。じしょには、もののかずをかぞえることばとかいてました。みんながいっていなくてしっているものは、本とつぶです。本はさつといいます。じしょで見てみたらしょもつをかぞえるときのことばとかいてました。さとうやしおは、つぶといいます。じしょには小さくてまるいものをかぞえることばとかいてました。ほかにもたくさんかぞえかたがあるとおもうので、みつけて、しらべたいとおもいます。
▼IJ 今日は二時間目の算数の時間に、紙のお金を使って計算をしました。十二円のお金から七円のチョコレートを買うという問題です。私の計算のやり方は、一円玉を十二枚使います。まず、七は一の位で、五と二に分けることができます。十二から二をひいたら十のこります。そこからあと五ひくのでこたえは五円になるというものです。Nくんのやり方は十円玉と一円二枚を出して、おつりに五円玉をもらうというものです。むずかしいやり方だなと思いましたが、Nくんは小ぜにをへらしたかったらしいです。ママもスーパーで同じことをやっているらしいです。
2学期にもなると、学習作文的な日記が、かなり詳しく書けるようになってきました。「ここまでよく覚えているんだなあ」と、感心させられると同時に、よい学習をしなくてはいけないと、身が引き締まります。秋の頃の子どもたちの日記は、次のような内容で書かれていました。
①その日の気になる学習のふりかえりを思い出して書く。
②自由研究発表の要約を書く。
③自由研究発表で質問されたことの調べ直しを書く。
④独自学習として自ら調べる内容を書く。
1年生には、独自学習や相互学習というような言葉を使わないで学習を進めています。1年生の日記の育ちを見ていると、独自学習の原型が育っていく受け皿として、日記があるように感じました。
最後に、<1年生最終の日記>、3月の「こぎつね物語」23号の子どもの日記を見てみましょう。どの子どもの日記も、量、質ともに1年生の日記と思えない内容になってきます。
▼KZ 今日、最後の奈良さんぽに行きました。みんなで生駒山の暗峠をめざしました。まず最初に、ケーブルカーに乗りました。一本目のケーブルカーの名前はブルです。たくさんの人が考えてできた名前です。一本目のケーブルカーは、日本で初めて作られたものです。二本目に乗ったケーブルカーの名前はドレミです。オルガンの形をしています。生駒山上駅で9時20分から歩きました。歩いている途中、生駒斑れい岩がたくさん落ちていました。2個か3個ぐらい拾いました。そこからしばらく歩くとジャングルがありました。ジャングルに入るとまた生駒斑れい岩がたくさん落ちていました。それから何分か歩いていると暗峠に着きました。暗峠は、奈良ぼんちと大阪平野をつないでいる道です。僕は、奈良ぼんちから大阪平野に行く時に、さかい目をまたいで行きました。おなかがすいていたのでお弁当タイムにしました。お弁当タイムにする所が山の上の方にあったので、たくさん階段をのぼりました。上についた時くらくらでした。とてもおなかがすいていたので、おいしかったです。食べおわってから、Sくんと一緒に生駒斑れい岩をさがしました。見つけて先生にハンマーで割ってもらいました。中を見てみると結晶が大きくてキラキラしていてとてもきれかったです。階だんを下りてから少し歩くとおいせまいりと書いているかんばんを見つけました。でも僕はおいせまいりといういみがわからなかったので調べました。おいせまいりは、玉造いなり神社から出発して、いせ神宮をめざして歩くことです。江戸時代にはやったそうです。暗峠はその通り道です。一年最後のさんぽでいい思い出ができてよかったです。
▼TM ケーブルカーを乗りついで、生駒山上まで行き、暗がり峠まで上り下りしながら4km歩きました。2回位休けいをしながら歩いたけど、全然つかれませんでした。朝ご飯をたくさん食べて体力モリモリにしておいたからだと思います。きつね先生は「奈良と大阪をつなぐ道です」とおっしゃっていたので、その事について調べ学習をしました。この道は古くから「暗がり峠奈良大阪街道」として、建設省日本の道100選に選定されていて、標高が455mあります。生駒をこえる峠には、ほかにもたくさんありますが、峠の標高が低いことや、大阪と奈良の最短キョリであることからもひんぱんに利用されているそうです。峠の途中に「弘法の水」という湧水があるときつね先生が言っていた通り、僕の調べた資料の中にも全く同じことが書いていました。カルシウムとマグネシウムを含む硬水という事もバッチリ書いてありました。でも、この水は、そのまま飲むと頭痛や下痢をしてしまうことがあるので、温めて飲むのがベストです。さすがきつね先生ベリーグッドだなあと思いました。僕のいえの近くにも登山出来る入口があるので、また暗がり峠に行ってみたいです。
4.おわりに
今回見てきたように、1年生の子どもたちの日記は、確実に学びの中心、生活の中心になっていきました。1年間の成長は、本当に驚くばかりです。
今回担任した1年生の日記指導のポイントは、次の5点にあると考えます。
①小冊子「こぎつね物語」が10日に一度ごとに出せたこと。それには、教師から見た授業の記録、子どもの日記、教師の日記の三つが合わさっていて、それらを子どもも親も、読むことができたこと。
②日記のノートをどんどん自由にしていったこと。マス目の大きさ、書く量や内容を子どもの選択に任せていくと、上の学年のような質の高い日記になっていったこと。
③1年生では、「独自学習ノート」や「しごとノート」などを持たせなかったので、日記帳が全ての学習の総合ノートになり、私の一番大切なノートになっていったこと。
④さんぽ・活動内容のメモ記録と、辞書・参考書などでの疑問の調べ直し習慣が、全て、日記に集約されていること。
⑤子どもの思い、教師の思い、親の思いが合わさった、日記学習であったこと。
<前回の学習のふりかえり> 大学こぎつね
YT 私が小学校の時は、一年生は新しいことばかりで、学ぶのがたのしいという記憶はあるけど、だんだん進級すると内容が難しくなり、教科書どおりに進行しているから楽しくない、つまらないと、退屈になってしまい勉強の内容が頭に入らずに終わりました。そのため、今、小学校レベルなのに分からない所もあるし、勉強嫌いもあります。しかし、そのままだと、将来先生になって、その生徒に退屈なことと同じことを受けさせることになるということを、ハッと気づきました。諦めていたけど、プレゼンを見て、こういう学習法をやってもいいんだと思った。先生になったら、こういう学習法を生徒たちにしてあげて、生徒たちが授業が楽しみ、楽しい、って思うように先生たちが工夫しなくてはいけない。先生の立場である私が、たくさん勉強したり、体験したりしないと、楽しく学べる方法を見付けることができないという、大事なことを学んだ。勉強の楽しさを知るために、たくさん本を読んだり、いろいろな人と出会ったり、いろいろなことを学ぶ日常にしたい。
MS この授業で始めて名前が当たりました。自由研究を発表するのは、すごく緊張しました。小学生はちゃんと前を見て、話すことができていたけど、慣れていないので、紙を見て話してしまいました。発表慣れしていないとすごくつらかったです。でも、これからもこの授業や他の授業を通して、堂々と話せる人になれればいいなと思いました。自由研究は、あらためて凄いと思いました。本当に普段教えこまれる学習より、だんぜん身になると思いました。
MD 私も、自由研究は小学生ぶりだったので、すごく懐かしく感じたので、何を書いていいかすごく迷った。でも、自由研究は、自分で自分に研究するものなので、正確な問い、答え、考えはない。なので、分析し、分からないことを調べ合うことこそが、この自由研究で見つけることができる、自分にとって最大の独自学習だと思った。こういった独自学習を身に付けて学んでいくことで、「また次はこのことについて調べたい」と、習慣づいていくと思う。一年間で、自律した学習ができるようになると、次から次へと動き始めて、とうとう興味を持たないことまで、知ろうとする意欲も持てるのではないかと思った。
FT 私は大学生になりましたが、いまだにノートを書くのが得意ではありません。よく、「先生が書いているみたいだね」と、ほめ言葉で言われることがありました。当時はとても喜ばしいものでしたが、今思うと、模写していただけでした。あの小学生がとても輝かしく見えました。自ら自分が分かりやすいように、自分の疑問におもったことをあんなに書けることが、とてもすごいと思いました。また、普段から発表することによって、クラス全員がおしみなく声を出し、人前で発表できることがとても良いなと思いました。一年生で、あんなにハキハキと話せるのに、もじもじしていた私がとても恥ずかしいと感じてしまうほどに立派でした。子どもの疑問って、あんなに話を膨らませることが出来るなんて、知りませんでした。今までしていた勉強の仕方に、疑いを持ってしまいました。
HG 一年生の間に、朝の発表など、クラスの前で発表する機会があると、劇で恥ずかしがらずに、はきはきすることが出来ている。自分でもそうだけど、人の自由研究を聞いて、色々興味深かったし、また、今度調べてみようとも思いました。
NH 何度見ても、子ども達はすごいと思いました。実際この「生活」の授業中に、自分で考えて意見を述べるといった形を繰り返していて、今やっと慣れてきたけど、小学校1年生の内から毎朝、毎時間、おこなっていると、言葉では表しきれないほどの、いろいろな力を身に付けられているなと、改めて思いました。劇でも、調べごとを深くまで追究しないと、劇は成り立たない。台詞を考えることで、話をまとめる力も付けられていいと思います。今現在、授業内で先生に当てられ答える時、声が小さく、周り聞こえない学生も何人もいると感じていています。だけど、ビデオの劇をしている子ども達のように、大きな声で歌い、発表するということを定期的にしていて、授業内でも「おたずね」などで、人に聞こえる声量で話すということが身に付いていいなと思いました。
NG プレゼンを見て、今の自分の勉強のありかたについて、考えさせられた。小学生たちの授業風景を見て、恥ずかしくなった。「勉強」というよりも、子ども達の「知りたい」からくる興味が、自然と知識として身に付いているなと感じた。劇を見て、どういう風にしたら、子ども達の意欲を引き出せるのかな?と思った。
SK 自分達で劇を作ることで、どれもがいい思い出になると思うし、楽しさも増すと思いました。今まで、辞書、参考書をしっかり使った事がなくて、でも使ったらすごく理解できると思うから、自分が現場に立ったら利用したいと思う。
きつねT:学習中、無駄な時間を延々と使うことは、子どもの学ぶ機会を奪い、子どもの育つ芽を潰します。時間は、永遠にあるのではなく、学習時間、朝の会、休み時間、登下校、家庭の時間、寝る時間、全ての一瞬一瞬が、取り返すことの出来ない貴重な時間であると思います。教師は、価値の少ない活動に、時間をかけていないでしょうか。学校では、子どものため、一人ひとりの成長のために時間が使われないといけないのです。1時間の学習時間を過ごすとき、活動の質と、適切な指示があって初めて、作業も発言も思考も高まります。無駄な説明、いらない規律指導や注意、下手な発言のさせ方、意味の無い質問は、子どもの学びの意欲を下げて、思考を混乱させ、やる気をなくさせます。脳の配線を破壊させるような指導をしているのです。耳を塞いで、目の焦点をずらして、思考しない子どもに教育がしてしまっては大変です。また、この子はこんな程度だ、仕方のない子だ、と教師が思った瞬間、子どもの育ちは止まります。可能性にかけて、子どもを信じて、活動させながら成長を見守ります。真の話し合いは、収斂していくのではなく、深く迷宮に入っていくものです。みんな一緒に、分かってしまうことは、こわいことです。どうしようもない混乱や、不満足があって人間の話し合いです。混沌とした話し合いになって、「世の中、分からないことが多いなあ」と言いながら終わっていく学習が、深い学習になっていくのではないでしょうか。