総合的な学習における問題解決学習  1999年4月

 

1.はじめに

 これまでに、総合的な学習に関連した文章をいくつかまとめてきました。中でも、「総合的な学習と理科学習の接点」と「混沌から構造化へ」という文章では、総合的な学習は、学級の集団としてのよさを生かし、帰納的な学習を目指してみようということを書きました。一人ひとりの取り組みが合わさって、大きな追究がなされていく学習を目指すということです。そこで今回は、集団の要素を作る個に焦点をあてて、個の問題解決の過程について考えてみたいと思います。それは、これから始められる総合的な学習に関して、問題解決学習の過程が適切に機能するかが大きな鍵になると思われるからです。

 

2.問題解決の問題点

 問題解決学習という考え方は、子ども主体学習の原点に置かれています。これは、教え込みや知識技能の能率的な修得の学習に対峙する考え方であるとも言えます。

 自ら問題を持ち、それを解決していくというのは、実にすばらしい考え方です。また、世の中の進歩、科学の発展、人類の歩みは、そのようにして積み上げられてきた部分の連続なのです。しかし、指導要領が改定されるたびに、「これまでのつめこみ教育を乗り越え、子ども主体の真の学習を目指して・・・」と言われ続けて来ているのも現実です。また、教育雑誌にも、この問題解決という言葉が、新しい学習観、子ども中心の学習として、常に取り上げられ続けています。

 なぜ、いつまでも問題解決がテーマになるのでしょう。それは、これだけ言われ続けても、なかなか実現出来ないのがこの問題解決学習なのです。はたして問題解決学習というのは、今の学校教育にとって本当に可能なのだろうかという思いに、ついには至ってしまいます。

 そこで、なぜ問題解決が難しいのかを、教師に関わる要因と子どもに関わる要因に分けて、考えてみたいと思います。

 

3.教師に関わる問題解決の問題点 

 本屋をのぞいてみると、教育方法を語った本がずらっと並び、ノウハウを伝える研究会は大にぎわいです。また、教育の方法を教えてくれる講習会、協議会は、満員御礼です。

 なぜ教師は事例をほしがるのでしょう。

 一つ目は、自分の目の前の子ども達にとって、よりよい教育を常に追い求めているからです。自分の実践を改良していくために他の実践に学ぶという前向きの理由によるものです。また、他の人の実践に学んで、自らの取り組みを作り上げるときのヒントにするためでもあります。このような先生方は、自らの問題解決を作り上げる児童を育成していく可能性はあります。しかし、自分の力で教師が問題解決しているわけではありません。

 二つ目には、校内の研究授業などで、自分が恥をかかないために、何かいい方法はないかと模索しているからです。子どもは今、何を追究しなければならないのか、ということでなく、教師が子ども達にどのように課題を与えていくのかということを欲しているのです。このような動機では、同じ方法を活用して教育をしても、子どもに問題解決能力は付かなのではないかと思います。

 このようなことから、まず教師自身が、問題解決として自ら追究に取り組むことは非常に難しいと言うことがわかります。もしかしたら、本当に問題解決のできる人は、案外少ないのではないのだろうかとも、思えてきます。

 

4.子どもに関わる問題解決の問題点 

 子ども達は、どうなのでしょうか。これもまた当然、問題解決はとても難しいものです。まず何が難しいというと、

 一つ目は、新たな課題に取り組むとき、自分の持っている疑問点や問題点が、その年齢の子どもにとって解決可能なことなのかどうか、また、解決する手だてが身近なところに本当にあるのかということに対して、子ども自身、見通しを持てないことが挙げられます。経験が少ないところに、生活の広がりも少ないので、疑問、課題は持てても、解決の手だて、方法が見あたらなくて、多くが挫折していきます。

 二つ目は、問題解決の追究というのは、課題への取り組みが、新たな結果を見いだすことを言うのだと思いますが、ほとんどが、本の丸写しや、安易な聞き書き学習になっています。ねらいや仮説がそこにはなく、載っている事、聞いた事を書くだけの活動なのです。また、教科書や参考書や科学書に載っている実験をそのまま活動に移して、結果も写している場合も多いのです。悪く言えば、教師は直接教え込みをしているわけではないのですが、結果として教師以外による教え込み学習になってしまっています。この学び方では、問題解決の過程で子どもが育っているのではありません。書いただけ、発表しただけ、聞いただけと言う発表会形式の学習が案外多くあります。最近は、インターネットで調べるという選択枝も増え、コンピュータに詳しくない先生は、インターネットのホームページで調べてきたというだけで、すごいと言うことになってしまっています。これは、単なる百科事典をカラーコピーしてきたのと、なんら変わらない場合が多いのです。調べ方が、先生が使えないインターネットで調べたというだけのことなのです。

 三つ目は、問題点はやればやるほど増えていくのですが、学校の時間枠では、最初に思いついた課題について取り組みを始めても、途中で変更したり、何度もやり直したりする事ができないということです。子どもにとって最初は切実な課題であっても、それを追究していく途中で変化したり、さらに、失敗や予測と違った結果が出た時に、もう一度追究の過程を検討したり、やり直したりする時間は、案外少ないのです。

 四つ目は、教科学習は、学習指導要領によって学習の内容が規定されているのは仕方のないことですが、そのことによって、子ども達の真の疑問に答える学習活動は、なかなか作れないのです。子どもが持ったいろいろな疑問点をそれぞれに追究していくことは、これまでの学習の中では現実的には不可能だったのです。

 

5.これらの問題点を乗り越える学習法はあるのか

 以上のように、実際の教育現場では、問題解決学習が、教師、時間、課題レベル、解決方法などの観点から、かなり難しいのではないかと考えられます。また、「真の問題解決の学習を目指して」と命名した学習研究会でも、優秀な教師一人が問題解決学習をしていて、子ども達は、調べる部分、活動の部分だけをさせられているという場合も多々あります。大学の卒論でも、そんな場合が多いのでしょう。

 このようなことを書き並べると、問題の解決を目指した学習は、小学校では不可能ではないかとも思えるようになってきます。だからと言って、能率的に教え込む教育に走ることはしたくはありません。我々はここで、子どもにどんな力を付けたいのかということを、今一度、問われなければならないと思います。我々が、子どもに付けたい力とは、自らの生活の中に、自分の欲求からなる疑問を自覚し、その疑問を解決する実行力を付ける、ということです。これでは、これまで延々とよくないと言ってきたことと何ら変わりはありません。

 今回、新たに言いたいのは、疑問を解決することは大切であるが、解決だけを目指すのではなくて、簡単に解決しなくてもいいのではないかと言うことも、その選択枝に入れておきたいということです。

 

6 問題解決のあり方についての検討

 以上のような問題点を考慮しながら、ここで、問題解決のあり方について検討してみることにします。そこで、課題の追究の過程を、五つの段階に分けて考えてみます。

⑴ある共通なテーマに対して疑問をもつ段階

 問題解決学習では、学習の問題を自ら持つことがまずなされなくてはなりません。自ら問題を持つというのは、身の回りの現象、これまで学んだ事象に対して、新たな考えや疑問を持つことです。

 この「疑問」を持つという発想は、どのように分類できるのでしょうか。例えば奈良公園の鹿、大和川の水質問題について考えてましょう。①意味を知りたい(鹿とはどんな生き物なのか)(水質問題とは何か) ②現在の実態について(どれくらい、どのように生活しているのか)(現在の様子はどうなっているのか) ③歴史について(いつからいるのか)(どのような変化があるのか) ④人間の生活との関連について(鹿のよい面と、よくない面)(人間がどのようにして汚しているのか) ⑤他の現象との関連について(芝生と鹿、木々と鹿、ルリセンチコガネと鹿)(大和川の生物、大和川の運搬作用) ⑥文学、芸術の中での取り扱い ⑦他の場所での在り方(奈良以外の鹿)⑧これからの願い 等々 多面的な疑問が出され、そのテーマが持っている複雑性、構造性が見えてきます。

 今回、この疑問を持つと言う学習活動を大切にしたいと考えます。これまでの学習では、あまり重点が置かれていない、解決活動以前の、直感に支えられた発想を鍛える場面です。

 

⑵疑問が研究の課題になる段階

 次に、「疑問」というレベルから、追究の「課題」となる段階があると思います。疑問は、解決されないと疑問のままです。疑問は解決しようとする行動があって初めて課題となります。疑問を課題にするということは、結果までを見通した仮説をもつことでもあるといえます。「疑問」が「課題」に変わること、そこにはもう、実験や調べる方法、そしてその結果に対する予測などが検討されているのです。人が行動に移るときは、無意識的にこのようなことをしているので、学習では、意識の上に予測をのせてから行動させることが大切であると考えます。

 

⑶予測と追究方法の妥当性の検討段階

 次に、それを解決するための調べ方を検討します。本で調べる、人に聞く、自分で実験・観察をするなどが次々に考えられますが、自分にとって可能なことなのかの検討が必要です。これを、自分の経験に照らし合わせて検討できるようになると、初めて、自らの問題解決が可能になってきます。ここでは、時間の見通し、難易度の見通し、予算的な見通し、安全の見通しなどのことがらを検討する必要もあります。我々は、課題が決まるとすぐに課題に向かって解決の行動をしがちですが、予測と追究方法を検討するこのような話し合いの場がとても大切なのです。またここでは、一人では気づかないことが、多くの人の中で検討されることによって、互いに高め合えると思います。複数の人の前に自分の考えを出すこと、そして他の人の取り組みまで含めて、この見通しを検討する力が、問題解決をしていく上で大切なポイントの一つだと思います。

 

⑷問題解決の段階

 問題を解決するということは、行動力が大切です。自分の決めた解決の方法に従って、調査・収集・実験をします。一人一人が、時間内で、発表の仕方を見通して、調べながらまとめていきます。このことについては、いずれ「まとめと表現」として詳しく書きたいと考えます。

 

⑸結果の検討の段階

 子ども達は、予測に合わせて歪曲して結果を導き出すかもしれません。しかし、得られた結果が予測と違うことに意味を持たせる検討をすることが、ここでは大切です。予測と違った答えが出ても、それはそれでとても大きな意味があるのです。なぜ違ったのか、何に原因があったのか、違った時の条件は何であったのかなど、違ったことから分かることも多くあります。そのことにより、また、新たな追究が始まります。多面的で深い考察が、個人で、そして多くの人によってなされなければなりません。

 

7.疑問や失敗を積み上げる総合的な学習に

 問題が解決する事は、勿論よい事であるし、教育が目指す方向としては当然のことです。しかし、小学校では、疑問や、解決できなかった課題や、新たにわき上がってきた疑問が、いっぱい積み上がってしまって、困ってしまう状況になってしまうのもよいのではないかと考えます。

 疑問は、いっぱいあってはじめて、疑問同士が合わさって何か新しい事が見えてくることもあります。また、疑問が多くある状況は、追究活動に広がりを持たせるのではないかとも思えます。子どもの生育、特性、興味、環境は、本当に多様です。疑問がいっぱいあると、その多様性を生かして、それぞれの個性が生きた追究が始まる可能性があるということにもなります。

 失敗を積み上げる学習は、単に解決だけを目指した学習や、分かったことを連続発展していく学習とは、子どもの育ち方において、根本的に違ってくると感じています。小学生の時から、簡単に分かってしまってはいけないのです。失敗をたくさん常に引きずりながらの学習は、もやもやしていてすっきりしないけれども、このもやもやの中に、新しい課題、やってみたい意欲が潜んでいるのではないかと思われます。格好良く、「私たちのグループの調べたことや分かったことを発表します」というような、コピーを読み上げる発表をやめて、「こんなことをやったんですが、ここが分からなかった」「私たちの取り組みでこんな分からないことがいっぱいありました」というようなことが言い合える学習を目指したいものです。何事にも、自らの考えを持って行動すること。そして、その結果としての成功や失敗を、絶対的な評価として捉えないで、失敗を自分の経験として生かしていく力を付けることが大切だと思われます。

 

9.おわりに

 私たちは、これまで言われてきた「問題解決学習」という言葉が、問題は必ず解決されるはずだ、問題を解決しない学習はよくない学習だ、自分が持った課題は解決すべきであると、思いこんでいたのかもしれません。実は、教育でも、問題をすべて解決すること、解決活動が必ず成功することから解放されているんだ、ということに、子どもも教師も早く気づくことが、大切なのではないでしょうか。そのことによって初めて、子どもと向かい合い、地域に根ざした総合的な学習ができるのです。疑問や課題が増殖してしまうような問題解決の過程を大切にしたいものす。