大正時代の木下竹次先生 2007.1.15
我が校の学習法の基礎は、大正時代から昭和初期にかけて22年間おられた奈良女高師の教授、兼同付属高等女学校・付属小学校の主事、木下竹次によって創られています。当時、大正自由主義教育の一つの中心地として全国に名を馳せ、大正9年4188人、10年6532人、11年11000人以上、12年2万人以上もの多くの参観者が来校しています。木下主事は、奈良にこられる前には、京都女子師範の校長、さらに前は鹿児島女子師範の初代校長、富山県師範学校附属小学校主事など勤めておられました。
我が校の独自学習の方法論は、すでに鹿児島時代に進められていたようでした。まず多数の図書を購入し、各教室を兼閲覧室にすることを目指して学習環境を整え、時間割には「自学」という特別の時間を設定していました。全教室を図書室兼用にする発想でしたが、これは思うようには進まなかったようです。しかし、大正4年ごろには、図書室専用教室が3つもあり、自学の時間や放課後、子ども達はそこで学んでいたようです。学生用の参考書を随分学校に買い込んでおられて、また、ノートの使用に関してもしっかりと指導されていたようでした。その頃の生徒の記録には、「自学の時間の学習が、今でもいちばん生きた勉強の時間だったようです。宿題のレポートを書くために図書室にかけ込んだり、予習のために使ったり、主として静かな個人学習でしたが、時にはグループで討論したりもしました。あれだけの図書室の充実がなかったら自学なんて空念仏に終わっていたでしょう。宿題だって自学の助長のための積極的意味を持つものだったといえます。・・・図書室には一種異様に沸き立つような雰囲気が満ち満ちていました。読書力と自学力、主体的な学力はその二つの統一であるとの方針だったのでしょうか。」とあります。木下先生も「この頃の学校には、清新の気と改革の気分とが満ちていた。」と書かれています。
独自学習は、小学校の何年生から始めるべきかは、大正時代の木下が「初学年からこれを課してよろしい。小学校ばかりでなく幼稚園保育にも学齢前の家庭学習にも独自学習を適用することができる。」と述べています。単なる予習ではなくて、教師の直接または間接の指導の下で組織的に計画的にまた経済的に実行して、これを学習の重要部分にしようと考えられていました。独自学習を基礎として相互学習に入り、その相互学習が終わったならば、再び独自学習に移って深刻な補充的学習をする学習法の成立です。
▼これからの予定
3年
発光ダイオード工作の発表をします。
4年
発光ダイオード工作の発表をします。
5年
ふりこ、衝突の実験の計画を立てます。
6年
電磁石の学習
科学G
科学グループの発表準備
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