わがままから社会性へ 平成14年10月23日(水)
ある先生と話をしました。私達の4年生は、今のところ比較的問題点は少ないのですが、我が校の子ども達は、公立小学校の時の子ども達とかなり違う感じを受けます。これはよい意味でも、良くない意味でも違いがあるのです。よい所は、優秀、自立している、自ら学習が進められる児童がかなり多いと言うことです。良くない所は、注意を守らない、注意をする先生をきらい中傷する、自分勝手、よく休む、我慢がない、しんどいことから逃げる、などがあります。また、学級の担任の先生にはつくすけれど、専科の先生には、失礼な態度をとる傾向も強くあります。
これらは、どんな所に原因があって生じているのでしょうか。大きな一つ目の要因は、私達教師の問題意識が弱く、社会的に育てられなくて、身勝手な子どもにしてしまっているのです。二つ目は、親の育て方にも問題があるのかもしれません。しかし、親は基本的には我が子可愛さの身勝手さがあるのは仕方ありません。三つ目は、社会全体が、わがまま、権利主張、先に怒鳴ったら勝ちという方向に向かっているのかもしれません。
私達の学校では、真に「自らの学びを拓いていく子ども」を育てたいと思っています。しかし、この自らの活動力とわがままを取り違えて、なんでも主体的行動をしていると、それでいいと考えてしまう風潮もあるのです。そこには、社会的なモラル、相手を気遣う気持ち、年上を敬う精神を育む指導がないのです。
これらの問題が現れている一つの場面が、給食の食べ方です。「食」は生きる上での基本的なことです。決してすばらしくおいしい給食とは言えませんが、食べ残しの仕方を見ると、わがままな児童、わがままな学級がわかります。食べ物の好き嫌いは、低学年までは親の責任です。そんな子どもに育ててしまった甘さが問われます。しかし、高学年からは、子ども自身の責任です。残さずバランスよく食べることに、自分が努力できるかが、問われてくるのです。このことは、これからの、勉強、人付き合い、人間形成にも関係してきます。過保護でわがままな子どもが、社会的に育っていくかは、4年生からの社会の一員としての教育が大切です。社会的に育てることは、私達教師の仕事です。そこで失敗すると、身勝手な子ども、ひどい学年、ひどい高学年になってしまいます。
■運動会の表現
運動会の表現を、どのように見られたでしょうか。低学年は、虫や魚になりきって自分の体を動かせるといいのですが、高学年では、具体的な物ではなく、精神やあり方などの非具体的な内容を表現していくことに挑戦しています。かなり高度なことに取り組みを進めているのです。私達は、出来るだけマスゲーム的な美しさをさけ、個人の動き、個々の表現がそれぞれあり、それらがうまく調和しあって、ひとつの主張になるように考えています。
来年は、5、6年生合同の表現になります。そろえない中に、一人一人の主張があり、結果として互いにシンクロしている状態を見てもらうことができるでしょうか。そのためには、一人一人をかなりしっかり育てる必要があります。
■登下校
登下校中の行動が、良くありません。学校でも指導しますので、家庭でも注意ください。
今週の予定 下校
21 月 <休み>
22 火 <休み>
23 水 14:50
24 木 視力検査 15:50
25 金 15:50
26 土 <休み>
27 日 <休み>
28 月 15:50