生きるための表現 平成12年9月25日(月)
ビートたけし詩集「僕は馬鹿になった。」を買いました。詩<馬鹿>「僕は馬鹿になった ブランコに乗り、ヒコーキ雲を眺め、くしゃみをする 鼻汁を袖で拭き、反り返り ブランコからあお向けに落ちる また空を見て、くしゃみをする あごについたヨダレをまた袖で拭く 僕は馬鹿になった またくしゃみを待つ」 詩<進歩>「君が僕から去って、もう何日が過ぎたろう 寂しさから、僕はいろいろなものに興味を持つようになった 今までまるで興味のなかった、絵画、小説、音楽、映画、など 前より僕は頭が良くなったような気がする 君のお陰かな でも君が帰って来るなら、また馬鹿になってもいい」 詩<騙されるな>「人は何か一つぐらい誇れるものを持っている 何でもいい、それを見つけなさい 勉強が駄目だったら、運動がある 両方駄目だったら、君には優しさがある 夢をもて、目的をもて、やれば出来る こんな言葉に騙されるな、何もなくていいんだ 人は生まれて、生きて、死ぬ これだけでたいしたもんだ」
自分の弱い部分、根底の部分と正直に向かい合うことから、人生を捉えなおしてみると、自分にも周りの人にも優しくなれるんだと感じさせられます。馬鹿になる、生きているだけで素敵なこと、この言葉は、人と連んで威勢を張るのではなく、自分の生きている姿を個人的に見つめているのです。破局的な生き方と紙一重ですが、人はみな、そのあたりの現実を抱えながら生きているのではないでしょうか。
「私たちは何のために教育をしているのだろう」9月になって、教育について考えるところがありました。新しく始まる「総合的な学習」の指導に、いかにも素晴らしい実践が、教師向けのテレビ番組で放映されています。見ていて、「何か違うんだよ」「本当にそれが大切だと思ってやっているの」と思うものが多くあります。子どもの持っている感性の底辺にまで沈んで、そこから子どもの姿が捉えられていないのです。子どもの根底の部分に触れる学習、それは、子どもに迎合する、子どもに合わせる、子ども主体とかいう言葉で簡単に表現してしまってはいけない、生きるための表現から出発する学習でありたいと考えました。
●基本的な言葉使い
言葉使いが乱れてきています。挨拶も言わない子ども達が、また、増えてきています。敬語、挨拶は、日本文化の大切な部分です。21世紀につなぎたい無形文化です。
<今週の予定> 下校
25 月 育友会・後援会 2:30
26 火 弁当 2:40
27 水 2:40
28 木 2:00
29 金 観劇・2星発表 弁当 3:00
30 土
1 日 <休み>
2 月 2:00