50年前のこと

 

 先週の高学年集会で、きつねTは、50年前の生活について話をしました。1960年代、そのころ私は、小学生でした。

 学校の給食は、ご飯ではなく、毎日パンでした。牛乳は小学校5年生の頃から週に1、2度と出始めました。それまでは、脱脂粉乳を溶かしたミルクでした。美味しいものではありませんでした。給食のおかずには、よくクジラの肉が出てきました。とても固かったように覚えています。冬は石炭ストーブを使っていて、石炭置き場へ石炭を取りに行く係をしました。燃える石に、とても興味を持ちました。暫くして、石油ストーブ、ガスストーブへと変わっていきました。小学校の教室は、木造のものと、鉄筋のものがあって、低学年は木造に入っていました。廊下や教室の床や壁は木で出来ていて、鉄筋の校舎よりも柔らかさを感じました。先生の宿直があり、夏には、宿直室に泊まりにいったこともありました。おおらかな時代でした。

 生活では、テレビが広がり始めた時代で、テレビを早々に買った家に、近所の子ども達が集まってアニメを見ていた記憶があります。勿論白黒のテレビで、チャンネルはつまみを回して変えました。電話も、普及し始めた時代で、隣の家の電話を借りて、かけたことがありました。冷蔵庫は上段に氷を入れて、下に入れた食材を冷やすタイプのものがあったことを覚えています。クーラーはないので、扇風機だけで生活をしていました。夏の暑い日は、たらいに水を入れてもらって、水遊びをしていた記憶が残っています。冬になると、暖房は、練炭や炭を使っていました。トイレは、家も学校もポッとんトイレで、汲み取り形式でした。月に何度か、バキュームカーという車が来ていました。

 大阪市内に住んでいました。家の前には、パン、わらび餅、豆腐、さお竹、金魚、風鈴、鳴く虫などが、それぞれ独特な声や音で知らせながら売りに来ていました。子ども相手の紙芝居もよく来ました。また、傘修理、穴の開いた鍋の修理、下駄・靴の修理、自転車のパンク修理などを仕事とする人も露店を出していました。家の前の道は砂利道でした。夏になると通りごとに地蔵盆をして、綱を張って盆踊りをしました。

 父方の田舎の広島へ行くには、煙をはきながら走る汽車に乗っていきました。まだ、汽車が現役でした。トンネルに入ると窓を閉めました。開けていると客室内が煙だらけです。田舎の家のお風呂は、五右衛門風呂で、薪でわかしていました。浮いている板を上手に沈めて、その上に座るようにして入ります。板を沈めるのが難しく、また、周りの鉄の部分でやけどをしないか、子ども心にとても心配でした。

 大阪の町には、電気で走る市電やトロリーバスが、たくさん走っていました。車はボンネットの大きいトラックやバスが現役でした。家の近くには商店街があり、日々の買い物は、市場に行きました。魚屋、八百屋、乾物屋、玉子屋、肉屋、鰹節屋、惣菜屋、お菓子屋などの食材を売っている店が、たくさんありました。おじさんやおばさんと会話をしながら、買いものをしていました。

 小学校の低学年の頃までは、父がタンカーの船長をしていたので、よく船に乗せてもらって日本各地の港へ行きました。石油と海の匂いがする船や港の風景が記憶にあります。とても大きな音の機関室に入ったこと、操舵室、調理室、船の先端など、探検したことを覚えています。

 私の5年生の時、母が文具と本を売る店を始めました。文具を並べたり、毎週入ってくる週刊誌の整理をしたりしました。少年サンデー、少年マガジン、少年キング、少女フレンドなどの漫画の週刊誌がありました。しばらくしてから、少年ジャンプ、少年チャンピオンが出てきました。筆箱や消しゴムなどには、その頃はやっていたアニメの絵が描かれてありました。学校のすぐ前の店だったので、開店当時は、とてもよく売れていました。

 このような小学校時代を生きてきました。みなさんの50年後、いったいどんな時代になっているのでしょうね。私もあと、50年生きていると、一緒に体験できるのですが。