今日は、四條畷駅近くの深北緑地公園に行き、かつての河内湖の最後の名残だと思われる深野池跡をみました。深野池についてネットで情報を調べてみました。
「物の本によると、新開池は周囲三里(約12km)、深野池は南北二里(約8km)東西一里(約4km)とあります。具体的には新開池の東端が、現在の古箕輪、川田、加納辺りで、西端が私の地元徳庵橋付近、深野池は北端が四条畷、南端が東大阪と大東の境界付近だったと思われます。まあこれだけ広範囲だと川床に比べ、池床は非常に分かり難いかと思いますが、休日を利用して地道に(?)池床跡を探索しています。」(河内彷徨)
「深野池(ふこのいけ、ふこうのいけ)は、中世から江戸時代まで河内国の広範囲(現在の寝屋川市南部・門真市東部・大東市中央部・東大阪市北部・四條畷市西部)にかけて存在した大きな池のことを言う。現在では深北緑地公園内にある人工池にその名を残す。
縄文時代には、大阪湾は現在の大阪平野の奥深くにまで入り込んでいた。だが、淀川水系、大和川水系によって土砂が流れ込んできて次第に縮小してしまい、淡水湖化して河内湖に、さらに縮小して中世には北東側に深野池・南西側に新開池(しんかいいけ)という二つの大きな池となっていた。南側からは大和川分流である吉田川と恩智川、北側からは寝屋川、さらに生駒山系から流れる川が池に注ぎ込んでいた。池水は西の新開池を経由して大和川、さらに淀川に流れ込んでいた。中世には深野池の中にあった島に三箇城があり、戦国時代には三好氏の本城である飯盛山城の支城であった。
元禄2年(1689年)の貝原益軒による紀行文『南游紀行』に当時の深野池の様子が詳しく書かれている要約文を記す。
ふかうの池は深野池と書く。池の広さは南北2里(1里は4km弱)、東西1里、湖に似ている。その中に島があり三ケという村がある。三ケの村には漁家が7-80戸あり田畑もある。この島は南北20町(1町は100m強)、東西5-6町ある。この池には鯉、鮒、鯰、はす、わたか、えび、鰻、つがに等が多い。漁船が多く毎日漁に出て魚を大坂に売る。また、蓮、芡実、葦が多く、皆採り用いて助けとする。ことに菱が多く、これを採って飯や団子や粥にして食べたり、菓子にしたり売ったりする。深野池の周りには約42村があるという。この池の水は大和川に流れる。川下より毎日商船が訪れ、大坂までは2里ある。」 (Weblio辞書国語辞典)
深北緑地公園の深野池跡
♫ 芒種初候 ♫