かつて江戸時代に大和川の付け替えが行われる以前は、西除川は北へと現在の大阪市内へと流れていました。今は、付け替えられた大和川へと合流しています。ネットで調べると、「大和川の付け替え前、西除川は現在の松原市付近から北上し、天道川(今川・駒川)として流れていました。天道川は平野川に合流し、大阪城の北側で大川(旧淀川)に注いでいました。大和川は、江戸時代に水害が頻発したため、淀川に流れ込んでいた川を、現在の大阪市と堺市の市境に向けて付け替えられました。付け替え前の西除川・東除川は、大阪城付近にまで達しており、灌漑区域は現在より広い地域となっていました。」ということです。

 また、狭間川も現在、大和川へと合流しています。大和川付け替え以前の流路は、次のような情報があります。「大和川は、平野を北西に流れていたのが、洪水に苦しむ河内の農民運動もあって、300年余り前に付け替えられて堺の海へと流れを変えました。付け替え工事では、依羅池を通り、狭間川に沿わせるため河道を「く」の字に湾曲させました。」「大和川は、江戸時代に淀川に合流していた川を現在の大阪市と堺市の市境に向けて付け替えられました。付け替え前の大和川は、依羅池(よさみいけ)を通り、狭間川(はざまがわ)という川の流れを利用していました。」と、いうような資料があります。狭間川は、大和川付け替えの時、海へとつながる放水路になったようです。

 ここから考えると、万代池、清明丘中央公園(昔は池だった)、桃ヶ池(股ヶ池)の水源は、もしかしたら西除川だった可能性があります。「大阪市住吉区にある万代池(まんだいいけ、ばんだいいけ)は、雨水以外の水源をもたない公園池です。万代池の周辺は万代池公園として整備されています。万代池は、明治の終りころまで灌漑池として利用されていました。昔は付近に人家がほとんどなく、魔物が住むと恐れられていましたが、聖徳太子が曼陀羅経をあげてしずめたことから「まんだら池」がなまったものと伝えられています。」という資料がありました。万代池は、現在水源を持たないということですが、大和川付け替え以前、灌漑池として利用されていたので水源が必要です。西除川かなと考えました。

 今日歩いた阿倍野七坂のある谷地形が、上町台地を彫り込むかなり大きな谷地形だったので、その谷地形を造った川の水源を考えてみました。西除川からつながるのか、万代池、清明丘中央公園(昔は池だった)を水源とするのか、今後調べていきたいと思います。またもしかしたら、川地形ではなくて、上町台地に沿って走る南北方向の上町断層に付随する東西方向の小断層があって、その断層に沿って、かつての海進の時、海食された地形の可能性もあります。

 

 

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