佐伯啓思「貨幣で思考 衰える文化」
きょうは、ちょっと難しい話です。
半月ほど前、読んで切り取っておいた新聞を、最近、あらためて再読、三読し、いろいろ考えさせられました。佐伯啓思氏の「貨幣で思考 衰える文化」(朝日2017.9.1「異論のススメ」)。なぜその記事が目にとまったかというと、そこに、私が以前から漠然と考えていること、感じていることが、ずばり、書かれていたから。
佐伯氏は、100年前にドイツの文明史家シュペングラーが著した『西洋の没落』を紹介しつつ、歴史的経緯を追って、たとえば次のようなことを記されています。
今日、われわれがグローバリズムや情報技術革命などとよんで、地球を覆いつくす現代文明と考えているものは、さかのぼれば、ヨーロッパが合理的な科学や産業技術、自由や平等の政治制度、競争的な市場経済、金融のメカニズムなどを生み出した「近代社会」の産物であり、それは20世紀にはいって、もっぱらアメリカに移植され、普遍化され、世界へと拡張されたものでした。
「文明」の普遍化において見られる大きな特徴は、貨幣という数値的な価値で評価され、「貨幣をもってする思考」へと抽象化されるということ(その最たるものは金融市場)。今日、私たちは、私たちの行動のほとんどあらゆる結果を、利潤や費用対効果といった数値的成果主義と貨幣の統率のもとにおいています。学校や行政でさえも成果主義に侵食され、数字で示された経済成長を追求するために、政府は技術革新を支援し、経営は徹底した効率主義のもとにあります。
しかし、この「文明」の普遍化というものは、どうでしょうか。佐伯氏は、やがて「文化」の衰退を招くだろう、と指摘します。そしてそれはまた、「文化」がもたらす創造的な精神の衰退にもなるだろうと。なぜならば、文明とは、伝統や人格が意味を失い、すべてを貨幣に換算しなければ意味をもたない文化段階をいうのだから(これにはもっと、十分な説明が要りますが)。
さて、もしそうであるとするならば、私たちは「文明」と「文化」の間に横たわるこの問題を、今後、どのように解決していったらよいのでしょうか。
ここまで記して、先日、テレビで絵本画家ターシャ・チューダーのひ孫の女の子の休日を追った番組を、ふと、思い出しました。米バーモント州のターシャの家で、鶏の世話をしたり、森の中を歩いて小さな虫を見つけたり、両親にターシャの絵本を読んでもらう女の子の生き生きとした姿が、忘れられません (大藤 記)