国会における本会議や予算委員会で、スキャンダルに関する質疑が繰り返される現状は、制度本来の目的から大きく逸脱していると言わざるを得ない。国会は予算を決定し、政策の方向性を定める場であり、スキャンダルを追及するための場ではない。

 

本会議や予算委員会の最大の役割は、限られた財源をどの分野に、どの優先順位で配分するのかを議論し、その結果に対して政治が責任を負うことである。歳出の中身、政策の効果、将来世代への影響を精査し、国民生活に直結する判断を行うことこそが、本来の使命である。

 

しかし現実には、予算審議の場で個別の不祥事やスキャンダルが質疑の中心となり、その様子だけが連日報道されている。その結果、予算の中身や政策論争は国民の視界から消え、国会が「追及の舞台」としてのみ認識されるようになっている。これは、民主主義にとって健全な姿ではない。

 

この状況は、野党側の姿勢にも大きな問題がある。本来、野党の役割とは、政府・与党の政策や予算の中身に対して鋭く切り込み、代替案を示し、意思決定の質を高めることである。しかし、スキャンダル追及に終始する姿勢は、結果として与党の足を引っ張ることしかできない政治の貧困さ、さらには政策立案能力の乏しさを露呈していると言わざるを得ない。

 

スキャンダルは感情的な注目を集めやすく、短期的には「追及している感」を演出できる。しかしそれは、予算の中身に踏み込む知的労力と責任から逃げる行為でもある。数字を読み解き、制度の歪みを指摘し、財源の裏付けを伴った批判を行うことこそが、野党に求められる知的役割であるはずだ。

 

スキャンダルや不祥事が問題でないということではない。問題なのは、扱う場所を誤っていることである。個人の資質や行動、倫理的責任を問うのであれば、それは本会議や予算委員会では

なく、倫理委員会や調査機関で集中的かつ冷静に行うべきである。事実関係の解明、責任の所在の明確化、再発防止策の検討は、専門の場でこそ実効性を持つ。

 

予算を決める場でスキャンダル質疑が横行することは、二つの弊害を生む。第一に、政策と財政に関する本質的議論の時間を奪うこと。第二に、政治の評価軸が政策能力ではなく、炎上の有無にすり替わることである。その結果、政治全体が「中身よりも無難さ」を優先し、国家としての意思決定はさらに弱体化する。

 

本会議や予算委員会は、国家の方向性を決める場である。そこでは、感情的な糾弾ではなく、数字と論理に基づいた議論が行われなければならない。スキャンダル追及を排除せよという主張ではなく、適切な場所に戻し、政治の知的水準を引き上げよという主張である。

 

予算の中身にメスを入れ、政策の是非を問う。それができない野党であれば、存在意義そのものが問われる。国会の機能を回復させるためには、この当たり前の役割分担と責任の再確認が不可欠である。