そんな団体の活動と並行し、お金のために、地元の繁華街のキャバクラでアルバイトを始めました。週2-3回出勤の23時上がり希望という水商売としてはひどい条件の働き方だったので、そこまでは稼げませんでしたが、始めてみて、ずっと劣等感のだらけだった私が"キャバクラで認められてる"という感覚を味わってしまうようになりました。こんなことを自慢しても仕方ありませんが、1年半ほど在籍した中で、同伴なしの出勤は5回もなかったと思います。
AKBみたいですが、選抜メンバーの歌とダンスのショーみたいなものが定期的にあり(その日の入場チケットを1ヶ月ほど前からお客さんに高値で売っていました。。)、みんなで開店前や閉店後に練習しました(閉店後の練習は家庭の事情でほぼ出られませんでしたが…)。また、一緒に働いていた女の子たちもとても気さくで優しくて(銀座とか六本木ではなく地元のお店だったからかもしれません)、本名で呼んでしまうくらい仲良くなり、そのキャバクラが一番居心地の良い自分の居場所のように感じるようになっていました。そして、この期間はアルバイトの影響もあり、過食などはかなり減りました。体重も落ちました。
今でも連絡を取っている子は2人ほどいて近況報告はたまにしますが、会おう会おうと言いつつ実際は辞めてからは会っていません。
楽しい思い出だったので今でも思い出しますが、これはまさに「女を売りにしている」アルバイトであり、母からすれば最も軽蔑すべき職業の一つをしてしまっていたと思います。指名等を多くとれたことにはやはり体型の影響も大きかったと思います。触ったりすることには厳しいお店でしたが、お客さんから下品な目で見られていたということにはなると思います。
しかし、私にとって、コンプレックスだった体型を肯定されたり羨ましがられたりする(どこまで本気だったかわかりませんが)というのは、本当に当時は驚くべきことで、それもまた、このアルバイトにはまってしまった要因だったのだと思います。
もちろん彼だったAさんにもアルバイトのことは隠していました。
家では、必然的に帰りも遅くなり、お化粧が派手になったりしたので、母には「あんたホステスみたいになってるわよ」と言われ否定はしましたがギクリとしました。わかってしまうものですね。母はもう悲しみや怒りを通り越し「なんでもいいから早く卒業してこの家を出て行って」というように言っていました。後述しますがこの時母は本当に辛い思いをしていたようです。癌が見つかりの余命宣告をされた後もらった手紙にそのことが書いてあり、本当に親不孝なことをしたと苦しくなりました。
この経験から、私は"人に認められるための努力"の方向性を間違えてしまったのかもしれません。必死で頑張っても学生団体の人たちには劣等感ばかりだったのに、キャバクラのアルバイトでは少し頑張ればすぐにナンバー入りして認められていると感じることができました。東大の優秀な学生団体の人たちに比べ地元の水商売のお店の方が簡単に認められるのなんて当たり前のことですね。当時の私は劣等感と出口の見えない摂食障害という病気に押しつぶされそうになって逃げ道を探し楽な道を選んでしまったのだと思います。しかし、このアルバイトを生業にするのは私には考えられなかったので、就職活動をし会社員になることになったのですが、会社の社風とも多少相まってこの価値観は就職後も続いてしまいました。
次は、就職活動から短期留学、卒業までを書きたいと思います。