父に怒られているとき、たいてい母は「家の中ではお父さんの言うことが最も正しい。」

と言って、口をへの字にして私の後ろに座っていた。

 

小学3年生か4年生のある日、この日も私は父の二郎の前で正座をさせられていた。

何の話でそうなっていたかは、何故か記憶にない。

ただこの日は、怒られている最中に

「僕は間違ってない。お父さんの言うことがおかしい。」そのようなことを言った。

すると、平手打ちが飛んできた。左のほほを打たれた。正座をしている私は正座が崩れて右手をついた。

その後父が凄みを聞かせて言った。

 

「もう一回言うてみい。」

 

この日私はひるまなかった。

「僕は間違ってない。お父さんの言うことがおかしい。」

再び平手打ちが飛んできた。正座をしていた私の脚が完全に伸び切るくらい体が右に飛ばされていた。

一瞬記憶が飛んだ。打たれてから倒れている自分に気づくまでの記憶がない。

怖かった。

二郎はさらに凄みを聞かせて大声で怒鳴った。

 

「もう一回言うてみいー。」

 

怖かった。同じことを言うと二回目よりもさらにひどく殴られることだろう。

平手でないかもしれない。さっきは記憶が飛んだが、今度は死ぬかもしれないと思った。

でも、今引いたら父の横暴がいつまでも続く。だから三度目も言った

「僕は間違ってない。お父さんの言うことがおかしい。」

鬼のような形相で手を振りかぶったのが見えた。殺されると思った。その瞬間

 

「やめてー」

 

私の後ろに正座していた母が、私の体に覆いかぶさっていた。

しばらくそのまま時間が流れた。どれくらいだったか分からない。長かったのか、短かったのか。

 

いつも「家の中ではお父さんが最も正しい。」と言って私の味方ではなかった母に唯一庇われた記憶である。

これを書きながら思った。

今私が生きているのは、母のおかげだったのかもしれない。  本当に今・・・・・・そう思った。 

母は既に他界しているが。

 

何度も書いているように、小学生の私はこの家族の中で生きていることが苦痛でならなかった。

父親の言うことは絶対、そして常に正しい。それに逆らうものはすべて間違い。

「家の中ではわしが法律じゃー。」と言い切る父、いつも上から勝手な理屈が降ってくる。

親に飯を食わせてもらって生きている以上、親の言うことは絶対だと言われていた。

私は生命体としては生きているが、一人の人間として生きている感じが全くしなかった。

 

小学5年生だったと思う。親の飯を食わせてもらっている以上このような苦しい毎日が続くというのなら、自分が働いて生きていけばいいのではないかと思い付いた。

小学生としては思い切った考えだとは思うが、その方がいいと思うほど私の精神も限界だったのだろう。

 

またいつものように「親に飯を食わせてもらって生きとんやから、親の言うことは聞かないかん。」

と言われた時、口火を切った。

清巳「それなら働きに出る。」

二郎「働きに出る?誰も子供なんか雇ってくれんぞ。」

清巳「お父さんのことも話して、この家のことも話して働きたいと言うたら、分かってくれて雇ってくれる人はおると思う。」

二郎「そんな人間がおるわけがない。」

清巳「世の中には優しい人もおるはずじゃ。」

二郎「清巳、世の中には法律がある。お前の歳の子供を働かしたらいかんことになっとる。仮にお前を不憫と思う人がおったとする。お前を雇ったら法律違反で捕まるんじゃが。それでも雇うような人間はおらんわい。お前が働くというんなら家を出ていけ。雇ってくれる人がおるか試してみい。おらせんわい。そうなったらお前は金もなく飢えて死ぬだけじゃ。そうなってわしに泣きついてきても飯も食わさんし家にも入れん。家を出て死ぬんか、わしの言うことを聞いてここで飯を食わせてもらうんか、どっちか決めいや。」

 

悔しかった。でも挫けた。生きていたかった。

父の言うことが本当なら、私は家を出ても働けない。父に逆らったらそうそう許してもらえないことは小学生の私でも分かっていた。言った自分の面子が第一の人である。仮に許されて家に戻れたとしても、今まで以上の奴隷のような人生が待っていると思った。私が父の気に入らないことを言ったりしたりすると、いつも倍返しが待っていたからだ。そんなところで私は生きていけない。今だっていっぱいいっぱいなのだから。

だから、生きていたかった私は、挫けるしか道は無かった。

小学5年生の私であった。

 

 

母は看護婦だったので、朝から夕方までの日勤だけでなく、夕方16時から24時までの準夜勤務、夜の21時から翌朝までの深夜勤務と3交代制だった。深夜勤務の時は夕食を食べた後仕事に行くので問題ないが、準夜勤務の時は夕食の準備を母は出来ない。

そのようなときは、祖母でない祖母、三木 菱が夕食の用意をしてくれていたが、私が小学3,4年生くらいになってからは、母が準夜勤務の時の夕食の準備は私の仕事になっていた。父の二郎は「男子厨房に入るべからず」と言って、私の食事の用意に手を貸すということは無かった。

 

そうはいっても、私が食事を全面的に作るわけではない。羽釜にご飯を仕掛けておいてくれている。スイッチを入れるだけでご飯が炊ける。おかずはカレーと冷凍エビフライが交互であった。カレーの時は温めて盛り付けるだけだ。エビフライの時は油で揚げて、キャベツを千切りにする。小学生のすることだから実際には千切りにならない。父から百切りじゃないかとよく言われたものである。食後のコーヒー(インスタント)も私の役目だった。

 

そういう家庭だったので、日曜日に母が日勤だと昼食の用意は小学生の私の仕事だった。大体いつも焼きそばかお好み焼きだった。朝のコーヒーも私の仕事にされていた。母が日勤の日曜日は大体父の二郎にたたき起こされる。

ゆっくり寝ていると、

二郎「いつまで寝よるんぞ、休みでも朝になったら起きんかー」

仕方なく起きると

二郎「コーヒー淹れい。」が必ず待っている。

コーヒーを淹れて、寝ながらテレビを見ている父のもとに持っていく。

その後寝室に戻り、二度寝しても怒られない。

これが大体日曜日の日課だ。

 

ある日曜日、この日母はまた日勤。私はこの日なにか疲れていた。

いつものように「いつまで寝よんぞー」 「コーヒー淹れい。」 でコーヒーを淹れて二度寝。

ここまではいつも通り。

昼になってもしんどくて起きられない。12時も過ぎて父二郎がしびれを切らして

二郎「清巳、お前はいつまで寝よんぞ。いい加減にせいよ。お好み焼き作れ。」

私は起きられなかった。「今日はしんどい。」

二郎「いっつも日曜日に早う起きんからそういうことになるんじゃが。」

しばらく寝ていた。数分後にまた二郎が来て「いつまで寝よんぞ、お前は」 不機嫌である。

でも起きられない。寝ているとまた二郎が「いつまで寝よんぞ。」と怒鳴りに来る。

数回来た。もう何回来たかは記憶に定かでない。

何とか起きてお好み焼きを作った。そして二郎の元へ持っていった。13時を過ぎていた。

二郎は不機嫌、イライラしている。そして全く食べる様子がない。

清巳「食べんの?」 と聞くと

二郎「人がしてほしいと思っている時間内にそれをやらんかったら、食べてもらえないということを教えてやる。」

あの時、私はショックで泣きそうだった。