新宿コマ劇場の屋上、現在ゴジラがいるところ
若い人が自殺した。本当にやり切れない。
思い出すはもう大分、数十年前まだ私も若い頃、同い年の親友が自殺した。
私が新宿コマ劇場にてコマ現代劇「事件記者」に出演している時だった。
私も若輩、悩みだらけだった。狭き門をくぐって俳優になったものの生活は出来ず、とうとうノイローゼになって、しばらくは四ツ谷にあった、作家で神経科のお医者さんだった北杜夫先生のところに通った。
先生はいきなり私もノイローゼなんですよ!明るくおっしゃる、それがなぜかわたしには効果があつて明るい向こうが見えてきたみたい。
その時自殺した友人は、いっけん、ごうほうらいらくで如何にも強そうだった。
自殺する2日前に私の所に訪ねてきた。
会ってて、普通に会話もした。
映画が好きで二人の夢はチャンバラ映画のヒーローだった。
アラカンであり阪妻であり千恵蔵であり
いつかは撮影所で活躍するのを夢みていた。
二人で全国的に映画研究会をつくり、読書は「映画の友」「スクリーン」「映画評論」「キネマ旬報」「スクリーンアンドステージ」だった。
「羅生門」が国際的な賞をとった時は日本映画もいよいよ世界になったと喜んだ。
その頃、彼は小さな劇団を作り代々木の神社境内で、ほんとうに僅かな劇団員と僅かなお客さんで公演をしていた。
私の場合は東宝さんかの大劇場でスターの方々との共演、そんなところにも悩みがせいじたのかも知れません。
二人のチャンバラ映画の夢は消えたのかも知れません。
彼が亡くなったのも知らず、高円寺の安アパートを訪ねました。しかしその時は既に反応もなかったのです。
彼は銀座の印刷屋に努めていて、仕事で使う青酸カリを焼酎の一升瓶にぶっこんで死んでいったのです。
はじめの頃彼が住んでいたのは荻窪の3畳ばかりの住まいでお父さんお母さん漫画家志望で紙芝居を描いて生計を立てていたお兄さんと妹さん、そんな住まいでした。
彼のお兄さんとは、雑誌「漫画少年」の投稿者同士でした。
コッペパンとキャベツの千切りにソースをかけて食べるのが唯一の贅沢でした。
亡くなった彼の日記帳には私の事も沢山書いてあって、常に勇気を与えられたとあったそうです。
二人で野原に横になって、チャンバラ映画を語り合う、そんな楽しいひとときもあったのです。
その後、ずうっと、演技をする時は必ず彼の分も頑張ろうと強い決意の思いで芝居してきました。
悩みがあったら、誰でも側にいる人に話しかけて下さい!