関連している記事が東京新聞に出ました。
その頃、小学校のクラスメイトからプロデューサーをやれる人を紹介してくれと木村元保プロダクションの社長が探しているからと紹介されました。
すぐOKとなり、まず三越劇場の「わが歌ブギウギ 笠置シズ子物語」役は吉本興業の社長の出演を兼ねてプロデュースを手伝いました。それから次から次えと舞台出演をこなし、1995年1月に日比谷芸術座の「おしの」に出ながらプロデュースしました。
スタッフは豪華でした。
美術 朝倉摂。 照明 小木 直樹。 音楽 桑原 研郎。もう一人のプロデューサーに新人の飯田 亜弓。
この木村プロダクションの社長はとてもユニーク人でした。
元大映映画のカメラマンとか仰っていましたが作品はちゃんとは選ぶが、金は出すが芝居作りに口は出さない¥400万円までの赤字はOKと物分りの良い人だったです。
あの頃、映画は斜陽で、本当は映画を作りたいんだが、しばらくは舞台をとミュージカル迄手をのばしてました。
木村プロダクションではかなりの名作を製作してました。アメリカのアカデミー賞にノミネートされた「泥の河」とかATG系統で上映された「曽根崎心中」「龍飛岬」「ナナカマドの挽歌」と地味だけれど注目される作品を世にだしてました。
然しお酒が好きで私は飲めないのに約1ヶ月殆ど毎日付き合いました。
いい人で口は出さず、芝居づくりの雰囲気の中にただずんているのが好きな人でした。その代わり飲めない私は食べるだけで難しい芝居の話しをするでもなく、毎日1ヶ月付き合ったのです。
良いところだけみれば武者小路実篤の小説に出てくる「馬鹿一」みたいな人でした。人付き合いも下手で、本当に酒の為早く亡くなられたが、財力はどこからと不思議な人ででした。
芝居「危険なダブルキャスト」は80%ぐらい入ったのか、上手く公演出来ました。
平岩弓枝先生も観に来て下さいまして「コバちゃんがプロデュースしたの」とびっくりされてました。
同時に出演していた「おしの」の出演者の十朱幸代さん林与一さん松村達雄さん中島唱子さん淡路恵子さん。西村晃さんにも同じ舞台に出ているよしみでチケットを買って頂き自分でもプロデューサーとして100枚以上は売りました。
あの頃は自分も次から次えと「おたふく物語」「伽羅の香」芸術座「雪国」「刺青」日生劇場「銭形平次捕物控」名鉄ホール「おはん」中日劇場「メリーウィドウ」「日本橋」帝劇とたて続けに名作に出演出来て舞台まみれでした。
帝劇も何年か先に新しくなるそうですが、どんどん演劇界も変わっていくでしょうね。