父の俳句集 粗末な手帳とか紙に書かれていた。
 散々苦労したさまが句になっていた
 母の句集。たびたび句会に出ていた。山口青邨先生に師事 俳句雑誌「夏草」に母の句は掲載された。


 母の句集

 もう何十年も経っている昔の話しです。
小学校5年生の頃、日本は世界を相手に戦争してました。

 東京は日本は毎日空襲でいつ死ぬかも知れないそんな時、学童疎開と言って宮城県の山奥のお寺さんに約1カ年小学校生徒五十人くらい共同生活です。戦争が終わるまでいつ東京に帰れるかわかりません。

 先生も色々やることを考えてくれました。木で彫刻と迄いわなくても飛行機とか船を削って作るとか、先生の命令で珠算の先生もやりました。東京で珠算塾に通っていたのが役に立ちました。

 ところである時に先生は俳句を作ることを皆に提案したらしいのです。

 それが不思議なのが俳句の句の字も知らない私が作った俳句が評判になって、保護さんたちや宮城県松山町の人達が列をなして、私の作る俳句を待ってるんです。

 今でも同級生の木村賢治君が「あの時は小林君凄かったよ、作れども作れども何て句まで作ってたのを思い出すよ」という。

 何の娯楽もない時代です。

 全然他人の話みたいです。

誰に教わった訳でもなく、今でも自分で不思議なんです。 

 もっとも父は作家黒岩涙香の秘書をしていて株がめっぽううまかったらしい。そうして作家長田幹彦さんと交流があって沢山の俳句をつくつた。関係ないけど子供の頃聴いた父の「孫悟空」はいつも寝る前に聴くんですが、兄弟妹にとっての最高の面白さで愉しみでした。おそらく父の創作も入ってるのでしょうが語り口の上手さは忘れられません。でも俳句は教わってません

 母からも俳句は教わってません。
母は俳句は山口青邨先生に師事、句会にはよく出てました。書道は岡村天渓先生に師事、裏千家の茶道の師匠をしてお花もお琴も好きでしたが俳句は教わった事は有りません。

 母方の叔父さんは終戦後二十歳で肺病で亡くなりましたが文学青年で自分の名入りの原稿用紙持っていて雑誌かに小説をかいたのをみたが、紛失してしまって残念です。

 叔父さんにも俳句は教わっていないし、なんであんなに少年の俳句がブームなったのか、不思議です。今となっては他人事です。

 中学生の時先生に選出された俳句は一つだけ憶えてます。

 早暮れる寒空に一つ凧が飛び