右は昭和39年10月11月12月公演第19回芸術祭主催公演「墨東綺譚」初演。芸術座のプログラム。
左側のプログラムは昭和47年3月4月の芸術座での再演の時のもの。
左側下の写真は、永井荷風先生がロック座に昭和25年に自作「渡り鳥はいつ帰る」自作に出演した時の写真。右側は再演の顔寄せの写真。

 昭和32年劇団•東宝現代劇の1期生募集があって書類審査3.600人以上の応募者があり5次審査を終えて男女合計22人が狭き門をくぐりました。審査員は菊田一夫先生はじめ三益愛子さん草笛光子さん有島一郎さん。プロデューサー。演出部。関係者。の厳しい審査のもとに心は期待にふくらんでいました。

 1期生は丁度昭和32年11月12月日比谷芸術座公演の「モデルの部屋」に出演させる為二枚目ばかりを集めたそうです。

 三益愛子さん扇千景さん根岸明美さん北沢彪さん久保明さん出演。川口松太郎作。中村俊一演出。

 私も確かにダンスシーンなんかの稽古は数回やった覚えはあります。その次の公演。昭和33年1月2月、菊田一夫作•演出「風雪三十三年の夢」森繁久彌さん花柳喜章さん。寺島信子さん。山茶花究さん。一の宮あつ子さん。乙羽信子さん。

 この公演の稽古も確かに私はやったのです。

 ところが私はこの二本とも途中で稽古にいかなかったり、おまけにこの2作品とも勝手におりてしまったのです。

 そう言えば審査の時に菊田一夫先生に、しばらくは生活ができないけど、家族の助けがいるけれど大丈夫かな?と念をおされたのです。

 他の21人はみんな家庭がしっかりしていて、私だけが、とてつもなく貧乏だったのです。

 だから食うためには絶対にアルバイトが必要だったのです。当時ギャラは1ヶ月¥2千円でした。

 メーキャップ道具と交通費でなくなってしまいます。

 当時私はアルバイトで池袋のバー及び珈琲店三階建の店の雇われマネージャーをやってました。
 その頃の池袋は恐いほどの荒れた街でした。

 どうしたって食えないので働いていたのです。

やむを得ずとは言えませんが稽古に出ない、途中で舞台を降りる…と、やらかして仕舞いました。

 だから三年近く当時の新劇からきた演出家、プロデューサー、劇団首脳陣、関係者からは冷たくあしらわれたのです。それは当然ですが。まず役はあんまりあたえられす、他の同期はかなりの役を演じてます。

 まあ身から出たサビです。

 大プロデューサーのBさんはわざわざ私のアルバイト先の珈琲店迄きて事情をきかれたり励ましてくれたりしました。

 そのころは劇団1期生のギャラは同期の中の当番がまとめて経理に取りに行ってました。

 ところが皆に配られるはずのギャラがその当番の同期生に持ち逃げされて、今の今迄も行方不明になって分からずじまいになってしまったのです。

 その時のギャラは、菊田一夫先生が皆に払って下さいました。

そうして以前にその持ち逃げした彼に話されたのは、今度の再契約は考えると劇団の責任者に言われたそうで、実はわたしも同じ事を言われてたのです。

 そのころ劇団首脳と彼の行方を探しまくりました。

 あんまり役もつかずくさっていた頃よく同期の女優さんなんかに、「あなたって何故使われないのかな、実力があるのに、人が良すぎてお偉方によいしょしないからよ」なんて指摘迄されました。

 とうとうノイローゼ気味になり当時四谷でやっていた精神科医の作家の北杜夫先生とお兄さんの斎藤先生のところにしばらく通いました。

 北杜夫先生は初めてお会いした時にいきなり私もノイローゼなんですよと、笑っておっしゃられたときに、凄く気が楽になりました。

 然し転機はやって来るものです。

昭和39年10月~12月芸術祭主催公演「墨東綺譚」脚本•演出菊田一夫
出演山田五十鈴•浜木綿子•森光子•中村芝鶴•中村萬之助(いまの中村吉右衛門)三益愛子•西尾恵美子。
の公演の舞台稽古の時であります。

 だいぶ稽古も進んでいて、もう菊田一夫先生の演出は厳しくて劇場内はそりゃピリピリした雰囲気になってました。

 3幕3場お雪のいる家で、山田五十鈴さんと三井弘次さんが芝居をしている時に汽笛がなってその時に間が開くので、上手から下手に向かって歩いてくれと演出助手から注文が来ました。

 単なる通行である。しかも台詞は無い。

丁度その時に私を干しているプロデューサーが見に来ているのが眼に入りました。よし!と思いました。

 然し作演出の菊田一夫先生がいらっしゃる。厳しい眼で。

作家が書いた台本に勝手に台詞を作って演じたら怒られるし首になるかもしれない。
 又再契約を考えるとも、言われてるし、通行する迄の10分のあいだにとっさに考え衣装さんに工員の衣装を持って来て貰い、台詞を五つつばかり考え客待ちしている娼婦役の女優さんには返事だけしてくれればと伝えてた。

 咄嗟に台詞を考えた。セックスに飢えた工員がたった一日の休みにもう我慢出来ないと娼婦の名前を呼び宅の二階にズボンを脱ぎかけながら上がってしまうという事を作演出の菊田一夫先生の前でやってしまったのです。本当は首になるかも知れない?

 すると菊田一夫先生は椅子から転げ落ちるほどに笑い転げたのでした。

 後から森光子さんや浜木綿子さんも椅子から先生が転げてと、笑いながら教えてくれました。

 初日を迎えて私の芝居が怒涛を天をつくと言うか、どうっとお客様の笑いにつつまれました。

 ああやった首が繋がったとおもいました。

直ぐ演技賞ものだと初日から皆の噂になって公演の3か月、持ち切りでした。

 芸術祭主催もかかってたので、賞だ賞だとうるさいくらいの噂になってました。

 もしあのアドリブみたいな芝居が間違っていたら冗談では無くて首もんです。

 菊田一夫先生はああ言う客がいるもんだよと納得されていたそうです。

 とうとう千秋楽に菊田一夫先生自ら、中村吉右衛門さんと赤岡都に続き演技賞を頂き金一封も頂きおまけに再契約の時首になるどころかギャラが何倍にもあがりました。

それからは、どんどん役が付くようになり、色々沢山の演出家に呼ばれるようになり、何回も演技賞も頂き、5十年間演劇の世界にひたれました。

 初演では他の役で出演していた「近松心中物語」帝劇の再演では、演出の蜷川幸雄さんから、山岡久乃さんの旦那の役をやってくれませんかと望まれたのに、前から演じていた他の作品とかちあってしまい、その役をやりたいので、残念ながらお断りしてしまいました。本当にもったいない。プロデューサーの中根さんにも申し訳ない気持でした。そんなてっぱるようになって、恵めれなかった時代をしみじみと思い出します。

 東宝の演劇が盛んな良き時代でした。だから仕事がよくてっぱりました。三っも、てんぱって、プロデューサー同士が譲りあって、みんなだめになりそうになった事もありました。

 三年間、役もつかず貧乏に苦しんだ私を、克服しました。