数日前のアド街で新宿百人町をやっていた。
ここは私にとっても懐かしい街である。
本当に大昔一寸先の高田馬場から早稲田実業高校の夜学に通っていた頃、このロッテの新宿工場に勤務していた。
新聞で工員募集の記事を見て、直ぐ応募した。
驚く事にその工場を100人以上の人々が囲む様に並んでいる。たったの5人募集なのにその競争率のすざまさに吃驚した。
不思議にその選ばれた五人の中に入る。
しかし仕事は当時流行りのマーブル・ガムの衣づけでぐるぐる廻っている円形の釜の中のガムに砂糖をまぶしたりする立ちっぱなしの労働だった、
その頃アナウンサーの福澤 朗さんは子供の時代にロッテに近い所に住んでいてクールミントのガムの匂いを何時も嗅ぐっていたとアド街で喋っていた。
1950年から2013年迄百人町のロッテ工場はあった。私はあんな狭き門でやっと入れたロッテも一年も居ず辞めてしまう。
何故かと言えば毎日残業が多くて夜学に2時間も遅刻をしてしまうので、勉強を選んだ訳。
社長は韓国人で仕事している所によく見廻りに来て厳しい指摘をする。秘書が美人だったのはいまだに覚えている。
まだまだ役者になる前の私だがその工場の中で生まれて初めて映画に出た。
何だか韓国映画で「幻の三十八度線」との題名で韓国人のロケ隊が撮影に来て私達数人がガムを作っている所を撮影した。何となく芝居っ気を出した我々を撮っていった。
そんな百人町にあったロッテ工場が2013年には無くなっていたとは知らなかった。たまたまアド街で福澤朗さんがそんなロッテを思い出す話をしてくれたので苦しかったが希望に満ちた時代を思い出させてくれた。
ここは私にとっても懐かしい街である。
本当に大昔一寸先の高田馬場から早稲田実業高校の夜学に通っていた頃、このロッテの新宿工場に勤務していた。
新聞で工員募集の記事を見て、直ぐ応募した。
驚く事にその工場を100人以上の人々が囲む様に並んでいる。たったの5人募集なのにその競争率のすざまさに吃驚した。
不思議にその選ばれた五人の中に入る。
しかし仕事は当時流行りのマーブル・ガムの衣づけでぐるぐる廻っている円形の釜の中のガムに砂糖をまぶしたりする立ちっぱなしの労働だった、
その頃アナウンサーの福澤 朗さんは子供の時代にロッテに近い所に住んでいてクールミントのガムの匂いを何時も嗅ぐっていたとアド街で喋っていた。
1950年から2013年迄百人町のロッテ工場はあった。私はあんな狭き門でやっと入れたロッテも一年も居ず辞めてしまう。
何故かと言えば毎日残業が多くて夜学に2時間も遅刻をしてしまうので、勉強を選んだ訳。
社長は韓国人で仕事している所によく見廻りに来て厳しい指摘をする。秘書が美人だったのはいまだに覚えている。
まだまだ役者になる前の私だがその工場の中で生まれて初めて映画に出た。
何だか韓国映画で「幻の三十八度線」との題名で韓国人のロケ隊が撮影に来て私達数人がガムを作っている所を撮影した。何となく芝居っ気を出した我々を撮っていった。
そんな百人町にあったロッテ工場が2013年には無くなっていたとは知らなかった。たまたまアド街で福澤朗さんがそんなロッテを思い出す話をしてくれたので苦しかったが希望に満ちた時代を思い出させてくれた。