信長の野望 天道 佐竹家の野望 1549
- 1549年1月
- 尾張:織田勢伊勢志摩(北畠家)に侵攻。
- 1549年2月
- 伊賀大和:北畠勢撤退開始。
- 1549年3月
- 三河:松平広忠暗殺。松平家は今川に吸収される。
- 伊賀大和:六角勢撤退開始。
- 北越後:蘆名勢・伊達勢撤退開始。
- 上野:武田勢箕輪城(長野家)攻囲開始。
佐竹義廉
- 申し上げます。武田勢上野箕輪城を囲みましてございます!
佐竹義昭
- なんと!長野業正は野戦に出なかったのか?
佐竹義廉
- それが、昨年の8月に武蔵岩付へ差し向けた兵が今川に打ち破られ、その損害の回復が思うようにいかなかったようでございます。野戦を挑むことなく籠城したようでございます。
佐竹義昭
- ばかな!援軍のあてもなしに籠城など… 武田がこれ以上関東に介入するのは避けたい。義廉、古河御所から上野に軍はだせぬのか?
佐竹義廉
- それは難しゅうございます。古河御所に在する兵は17000居りますが、上野に向かうには武蔵太田領、あるいは下野宇都宮領を通らねばなりませぬ。太田、宇都宮共に我が佐竹と同盟を組んでいるわけではございませぬ。すんなりと通してくれるとも思えませぬ。
佐竹義昭
- ぬう。太田も宇都宮も長野家が敗れれば次は我が身ぞ!それがわからぬか!とは申せ今から同盟を申し込んでも難しかろうの。
佐竹義廉
- はい…すでに武田勢は長野家の援軍の武蔵七党の軍勢を一蹴しております。箕輪城も包囲され蟻の這い出る隙間もございませぬ。いまから太田、宇都宮と同盟を結んでも間に合うとは思えませぬ。さらに申し上げますれば、宇都宮はともかく、太田家は近々今川の侵攻を受けましょう。太田と同盟を結んで、今川侵攻の際に援軍を求められた場合、面倒なことになりかねませぬ。
佐竹義昭
- 今川、武田の関東蹂躙をゆるすか…悔しいが兵力も足らぬ。幸い長野から援軍を求められているわけでもないしの。だが…武田め。上野を越えて下野に出てきた時は側背を突いてやるぞ!
- 1549年4月
- 上野:武田勢箕輪城攻略。長野家滅亡。
佐竹義廉
- 申し上げます。上野箕輪城、落ちましてございます。
佐竹義昭
- ……… 長野業正殿はどうなった?
佐竹義廉
- 確認できておりませぬ。討ち死になされたか、あるいは虜囚の身に…
佐竹義昭
- 武田め!これ以上のさばらせるわけにはいかぬが、まだ武田は武蔵、下野を隔てた西じゃ。今のうちに力を蓄え、安房上総の里見を平らげることに専念しよう。
佐竹義廉
- それがよろしいかと存じます。
- 東土佐:長宗我部勢12000が阿波(細川家)に侵攻。
- 1549年5月
- 丹後若狭:朝倉勢14000が弓木城(一色家)攻囲開始。
- 1549年6月
- 河内和泉:三好長慶が細川氏綱の乱に加担、細川晴元と三好政長を追放。細川家の実権を握る。以後三好家。
- 1549年7月
- 羽後:安東勢13000、北羽前(最上家)に侵攻開始。
- 阿波:長宗我部勢12000が勝瑞城(細川→三好家)攻囲開始。
- 丹後若狭:朝倉勢が弓木城攻略。一色家滅亡。
- 1549年8月
- 筑後:大友家にキリスト教伝わる。
- 加賀:本願寺勢12000越前(朝倉家)に侵攻開始。
- 1549年9月
- 東海地方:凶作発生。
- 伊勢志摩:織田勢、霧山御所を攻略。北畠家滅亡。
- 1549年10月
- 相模伊豆:今川勢22000武蔵(太田家)に侵攻。
佐竹義廉
- 申し上げます。今川勢22000が武蔵に攻め入ったとの報告が!
佐竹義昭
- 今川が!? ちぃ、武田と同盟を結んでおるゆえ関東ではやりたい放題じゃの。それにしても22000とはな。岩付城はどうじゃ?籠城するのであろう?
佐竹義廉
- はい。太田家の兵力は8000。とても野戦ではかないませぬ。籠城したとのことでございます。
佐竹義昭
- よし、岩付の監視を怠るな。岩付が落ちるようであれば落ちた直後に兵を出し弱った岩付城を攻め取る。落ちぬようであれば今川を武蔵より追い払う。戦の準備をさせよ。
佐竹義廉
- 申し上げにくいことながら、ただいま古河御所に在城する部将は、水田整備など下総経略に出払っており十分な兵を差し向けるには難しい状態でございます。経略に出ている部将を呼び戻すこともできますが、今川勢の迅速な行動もあり、拙者が愚考いたしますにおそらく兵を出しても岩付にたどりつく前に今川勢によって岩付は落ちましょう。今川勢を追い払うにしても今川勢は22000という大軍でございます。ここはなにとぞご自重を。
佐竹義昭
- く… やむを得ぬ。だが岩付城への物見は出しておけ。よいな!
佐竹義廉
- お聞き届けくださりありがとうございます。物見の件、かしこまりましてございます。
佐竹義昭
- 武田。今川。手強いの…
- 阿波:長宗我部勢勝瑞城(三好家)攻略。
- 1549年11月
- 武蔵:今川勢岩付城(太田家)攻囲開始。
佐竹義廉
- 申し上げます。今川勢武蔵岩付城を囲みましてございます!
佐竹義昭
- 太田は最初から籠城するつもりだったのじゃ。驚くにはあたらぬ。
- 武蔵:今川勢岩付城攻略。太田家滅亡。
佐竹義廉
- 殿、武蔵岩付城、落ちましてございます。
佐竹義昭
- はやいな… 今川勢は兵数も多いが強いの。しかし、そちの言うように兵を出さなくて正解じゃったの。これほどまでに早く岩付が落ちるとはの。岩付に兵を出して無駄飯を食わせることもなかったの。
佐竹義廉
- それも殿が拙者の意見をお聞き届けいただいたからでございます。して、これからいかがいたしましょうか?
佐竹義昭
- うむ、下総の経略に時間がかかっておるゆえ、いそがせよ。また、太田城より余剰兵力を古河御所に移動させよ。安房上総侵攻の準備じゃ。安房上総にかかわずらっておるうちに今川にちょっかいを出されてもつまらぬ。武蔵に通じる街道沿いに砦を築け。工作隊はそう人数もいらぬであろう。
佐竹義廉
- かしこまりました。
- 越前:本願寺勢撤退開始。
- 筑前:大内勢16000筑後(大友家)に侵攻開始。
- 1549年12月
- 筑後:大内勢、柳川城(大友家)攻囲開始。
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信長の野望 天道 佐竹家の野望 1548
- 1548年1月
- 常陸:小田氏治、子息小田友治誕生。
- 越後:長尾家当主、長尾晴景隠居。弟である長尾景虎が家督を継ぐ。
- 北伊予:十河勢、援軍を得て14000に。湯築城に迫る。
- 筑後:龍造寺家と大内家が同盟締結。龍造寺胤信は大内義隆から一字拝領し龍造寺隆信と改名。
- 1548年3月
- 三河:一揆発生。
- 武田勢18000が東に向けて進発。おそらく河越城(北条家)に向かうとみられる。
- 1548年4月
- 皮足袋開発終了。
- 筑前:大内勢13000が筑後(大友家)に侵攻。
- 北肥前:龍造寺勢10000も筑後(大友家)に侵攻開始。
- 豊後:筑後柳川城へ大友家援軍進発。
- 出雲石見:大内家、内藤興盛勢撤退開始。
- 1548年5月
- 出雲石見:毛利勢撤退開始。
- 北伊予:十河勢撤退開始。
- 筑後:大内義隆勢12000と大友義鑑勢10000が衝突。
- 武蔵:武田勢16000河越城攻囲。
- 1548年6月
- 三間槍開発終了。
佐竹義昭
- 三間槍の開発も終わった。皮足袋も開発済みであるな。
岡本禅哲
- 足軽用の最低限の装備はこれで開発できたと思われます。
佐竹義昭
- うむ。できれば胴丸も欲しいところではあるが仕方がないの。しかしこれで下総を伺う準備ができた。
岡本禅哲
- 下総の足利家の兵力は約11000ですな。できればこちらもその倍の兵力は出したいところではありますが…
佐竹義昭
- 倍と言えば22000は必要と言うところか。それは今のところではむりじゃの。だが河越の北条があのような状態ではできるだけ下総には早めに進出せねば。武田・今川が東に出てくるのは面倒じゃ。」
岡本禅哲
- ですが今の当家は北の相馬、西の宇都宮と比べても特別兵力が多いというわけではございません。下総に出張っている間に相馬、宇都宮が常陸を伺うことも十分にあり得ます。
佐竹義昭
- うむ。だが先ほど申したように時間はそれほどない。武田・今川が北関東に進出しようとしている今、当家もおとなしくしているわけにはいかぬ。相馬、宇都宮も今の時点では常陸につながる街道を設置してはおらぬゆえ、下総攻めにそう時間をかけねば問題なかろう。」
岡本禅哲
- なるほど。では下総攻めの準備をいたします。
- 筑後:大内勢と大友勢の戦いは大内勢勝利。大内勢・龍造寺勢、柳川城へ。
- 1548年7月
岡本禅哲
- 殿。先月から準備してございました下総攻めの準備が整いましてございます。出動可能兵員は19000。太田城には約5000の兵を残しておきまする。
佐竹義昭
- うむ。河越城の北条はもう危ういの。河越城が武田の手に落ちたとして河越からでは下総に手はだせまい。戦後処理もあろうしの。武蔵の太田も河越の状態がこれでは下総に手を出すこともあるまい。相馬、宇都宮の動向には注意しておけ。」
岡本禅哲
- 承知いたしました。
佐竹義昭
- それではこれより下総を奪う。下総の足利はここ数年国境で越境騒動を繰り返しておる。ここでかたをつけるぞ!出陣じゃ!
岡本禅哲
- ははっ。
- 常陸:佐竹勢19000下総(足利家)侵攻開始。
- 武蔵:武田勢河越城攻略。北条家滅亡。
- 1548年8月
- 下総:佐竹勢古河御所(足利家)攻囲開始。足利家の抵抗を排除しつつ古河御所へと迫る。
岡本禅哲
- 殿。足利家の野戦軍を排除いたしました。相馬、宇都宮、太田に動きはございませぬ。ただ、河越が落ちました。しかし武田もすぐに動くことは出来ぬでしょう。下総に向かう途上に太田がおりますゆえ。安房上総の里見が街道を敷設しつつ下総に行動中ですが、古河御所まではまだ時間がかかるものと思われます。
佐竹義昭
- ふむ。北条が滅んだか。河越夜戦で山内・扇谷・足利連合軍を破った時には驚いたがのう。今川・武田には及ばなかったか。それにしても足利の野戦軍を排除するのは楽じゃったが、城を攻囲してからがなかなかしぶといの。我が方に足軽戦法を持っている者がおらぬのはちと厳しいの。
岡本禅哲
- しかし、古河御所もまもなく落ちるでありましょう。古河御所に籠城したとはいえ足利家に援兵はなく、野戦においてほぼ7割方の兵を失っております。
佐竹義昭
- さようか。たしかに時間さえかければ落ちるであろう。ただ、いまはその時間が惜しいの。兵糧の問題もある。常陸には水田がないゆえの。下総を切り取る理由のひとつは水田を手に入れることじゃ。兵糧の少なくなる前に古河御所を落とすぞ。皆の者、奮い立て!
- 武蔵:今川勢26000小田原城進発、武蔵(太田家)に侵攻開始。
- 上野:太田家からの援軍出動要請により上野箕輪城より長野家援軍進発。
- 筑後:大友勢、龍造寺勢を破る。龍造寺勢撤退開始。
- 1548年9月
- 越前:朝倉孝景死去。朝倉義景が継ぐ。
- 三河国:一揆発生。
- 越前:朝倉家18000、丹波若狭(一色家)に侵攻開始。
- 1548年10月
- 南羽前:伊達勢10000北越後(長尾家)に侵攻。
- 岩代:蘆名勢20000北越後(長尾家)に侵攻。
- 南近江:六角勢10000伊賀大和(筒井家)に侵攻。
- 伊勢志摩:北畠家10000伊賀大和(筒井家)に侵攻。
- 1548年11月
- 筑後:大内勢撤退開始。
- 1548年12月
- 下総:佐竹勢古河御所(足利家)攻略。古河足利家滅亡。
佐竹義堅
- 殿。下総併合おめでとうございます。
佐竹義昭
- 「うむ。これで水田の開発を始めることができるの。水田開発がうまく行けば、頭を悩ませていた兵糧問題も解決しよう。とは申せ、もはや12月であるがのw 来年の9月の水田の収穫までにはしっかりと水田の整備をいたすようそちからもしっかりと差配せよ。あと足利家の捕虜は必ず配下にするようにな。」
- 佐竹義堅
- 工作隊を出して街道を敷設するにも兵糧がもったいなくて武将1人だけで派遣しておりましたからなぁw 捕えました足利家の捕虜につきましては現在使者を立て説得中でございます。
佐竹義昭
- うむw それにしても古河御所を攻め落とすに時間がかかったの。8月に攻囲をはじめてから4カ月か。攻城兵器がないのは仕方がないにしても、攻城部隊に足軽戦法がないのはつらいの。 まぁ戦法についてはこれからじゃな。なんにせよ皆の者、良くやった。今宵は祝い酒じゃ。
佐竹義廉
- 祝い酒ありがたくいただきます。さて、早速ですが下総を平定いたしましたこののち、次の目標は北か南か、あるいは西でしょうか?
佐竹義昭
- うむ。相馬、宇都宮は街道を伸ばしてくる気配は見えぬ。まぁこれは向こうの出方次第じゃな。西の太田はおそらく今川が手を伸ばすであろう。今川が岩付城に迫り、城が弱ったところへ介入すれば苦労少なく岩付城を手に入れることもできよう。もしくは岩付城が今川に攻略されたのち、防御が減ったところへ攻めかかってもよかろう。こちらも様子見じゃな。今しばらくは下総の経略に手一杯になるであろうし、我が方が積極的に動くとすれば南、安房上総の里見じゃな。それも街道を伸ばすという程度かの。ただ戦準備だけはしておくが良い。武田の動きも気になるゆえの。武蔵、下野への街道も伸ばしておけ。だが決して領内を出て街道を伸ばすでないぞ。太田、宇都宮に無用な刺激は与えたくないゆえの。磐城への街道は…そうじゃの、そちらは捨て置け。磐城はちと遠いからな。
佐竹義廉
- かしこまりましてございます。
- 伊賀大和:筒井家同盟軍足利勢援軍13000到着。
- 武蔵:武田勢15000上野(長野家)侵攻開始。
佐竹義廉
- 申し上げます。武田勢15000、河越城を出ました!上野に向かっております!
佐竹義昭
- なんと!はやいな、武田晴信め。やつは正当な源氏である我が佐竹家を差し置いて源氏の嫡流を詐称しておると言うではないか。許せぬ。許せぬが武田勢は勇猛だという。かの北条も今では武田の配下であるの…。義廉!武田の動きを逐一知らせよ!上野の長野業正は名将の誉れ高い。そうやすやすとは武田に屈することもなかろうが…
佐竹義廉
- かしこまりました。
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信長の野望 天道 佐竹家の野望 1547
- 1547年1月
- 常陸:佐竹義重誕生。
佐竹義廉
- 「殿。お世継ぎ様お誕生、まことにおめでとうございます。」
佐竹義昭
- 「おお生まれたか!。佐竹家の嫡男であるゆえ名前は徳寿丸じゃな。ううむ、これは良い武将になろう。」
- 佐竹義昭嫡男徳寿丸、「鬼義重」「坂東太郎」と周辺諸国から恐れられることになる、のちの佐竹義重である。
- 1547年3月
- 常陸:菅谷勝貞登用。
- 1547年4月
- 甲斐:武田家14000が相模(北条家)に侵攻開始。
- 駿河:今川家19000が相模(北条家)に侵攻開始。武田・今川は同盟を組んでいる為、武田勢今川勢が連合して相模北条家を攻撃するとみられる。
- 1547年6月
- 下総:佐竹家江戸忠通勢が下総(足利家)に侵攻。簗田晴助隊に撃退される。
- 相模:武田晴信勢14000と北条綱成勢10000が相模国北部にて衝突。今川勢19000が小田原城に迫る。
- 相模:北条綱成小田原城に帰還。
- 常陸:小田氏治登用。
- 1547年7月
- 相模:武田勢撤退開始。今川勢19000が小田原城攻囲。
- 讃岐・阿波:十河勢14000が北伊予(河野家)侵攻開始。
- 1547年9月
- 東北太平洋岸地域、美濃・飛騨地方、中国、北九州などで凶作発生。
- 北肥前:龍造寺家兼死去。龍造寺胤信が跡を継ぐ。
- 南陸前:天分の乱終結。伊達稙宗勢力が伊達晴宗勢力に糾合される。
- 相模:今川勢小田原城攻略。今川家が相模をほぼ制圧。北条家は河越城に撤退。
- 1547年10月
- 下総:佐竹家江戸忠通勢下総に侵攻。
- 1547年11月
- 安芸:毛利勢10000、出雲石見(尼子家)に侵攻開始。
- 出雲石見:尼子家たたら衆に防衛出動要請。
- 周防長戸:大内家内藤興盛勢10000、毛利家に呼応し安芸経由で出雲石見に侵攻開始。
- 1547年12月
北伊予:侵攻した十河家香西元成勢2000と北伊予河野家来島通康勢4000が衝突。香西勢撤退開始。
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信長の野望 天道 佐竹家の野望 1546
- 1546年1月
- 常陸国 佐竹家
- 難易度 上級
- 登録武将 登場しない
- 寿命 史実
- 討死 標準
- 架空息子出生 標準
- 架空姫 出生 標準
- 歴史イベント すべて
- 伝承イベント すべて
岡本禅哲
- 「将軍家の権威は地に落ち、下克上がまかり通る荒れた世を平定するのは、我らをおいてありませぬ。」
佐竹義昭
- 「うむ。まずはこの常陸を掌握せねばの。そちらにも働いてもらうぞ。」
岡本禅哲
- 「はっ。」
- 常陸は現在の茨城県。
- 当主は佐竹義昭。居城太田城。兵力約8千。
- 周囲を取り巻く環境は北には磐城、相馬顕胤。兵力約1万。
- 西に下野、宇都宮尚綱。兵力約6千。
- 南に下総、足利晴氏。兵力約6千。
- 常陸:佐竹家の勢力下になかった商人町、武家町、匠の町および資源確保へ江戸忠通を派遣。
- 常陸:商館、道場建設開始。
- 1546年2月
- 常陸:武家町を制圧。
- 1546年6月
- 武蔵:河越夜戦発生。
- 1546年7月
- 美濃:一揆が発生した模様。
- 1546年9月
- 飛騨:一揆が発生した模様。
- 1546年12月
- 常陸:佐竹家が常陸全土を制圧。翌1547年1月江戸忠通太田城に帰還。
江戸忠通
- 常陸の町並、施設、資源を支配下におさめ、江戸忠通ただいま太田城に戻りました。
佐竹義昭
- おお忠通、よくぞ戻った。そちのおかげで常陸を統一することが出来た。1月よりほぼ一年間ご苦労であったの。そなたにはこれからは戦働きもしてもらわねばならぬが、いまはやすめ。」
江戸忠通
- ありがたきお言葉。
佐竹義昭
- 「やっと常陸全土を治めることが出来た。だがこれからだ。相模では北条、甲斐の武田、駿遠の今川、越後の長尾など遠からず関東に出てこよう。そのときに我が佐竹がやつらに対抗できる勢力となっているか。源氏嫡流の矜持にかけて、負けはせぬ。」
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信長の野望 天道 佐竹家 プレイ記 ~信長元服 1546年~
信長の野望 天道 佐竹家 プレイ記 ~信長元服 1546年~
時は戦国。
下総の足利公方は弱体化、相模の北条氏が台頭し、混乱する関東地方。
常陸国佐竹家。新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。
戦国時代にも稀な源氏名門佐竹家の、天下取りへの厳しい道のりが今始まる!
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