小さな話 10 最終回(再) | sgtのブログ

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歌うことが好きです。コロナ禍で一度はしぼみかけた合唱への熱が''22年〜むしろ強まっています。クラシック音楽を遅まきながら学び始める一方、嵐の曲はいまも大好きです。


ある山里にひとりの匠が住んでいました。


匠は若いながらたいそう腕がよく、
その評判は遠い都にまで伝わり、
ときには殿様から仕事を頼まれるほど、あつい信頼を受けていました。


仕事も順調で、誰からも好かれる美丈夫の匠でしたが、
かつて死に別れた女房をずっと大切に想いつづけていて、後添いをもらおうとはしませんでした。


時々 匠は殿様の招きを受けて都に出かけ、
殿様や奥方様と思い出話をしたり、二人に生まれた若様と遊んであげたり、
都の職人町の親方たちとともに仕事をしたり、技比べに興じたりすることがありました。


亡き女房が縁を結んでくれた都の人々のことが匠は大好きでしたが、
この山を離れる気にはどうしてもなれず、
また都の友たちもそんな匠の気持ちをよくわかっているので、
都に移り住めと強いてすすめることはありませんでした。


匠は昔から住み慣れた山里の庵でこつこつと自分の仕事に励み、
ひっそり静かに暮らしていました。

















春の夜、空におぼろ月が出ると、
匠はわざわざ灯りを手に暗い山道を登って、折れて苔むした巨木のもとに向かいます。


そこは女房との思い出の場所でした。


木の根元から芽吹いた、新しい枝の成長に目をみはり、
木の周りに咲く白い小さな花を見つけては微笑み、
夜もすがら木と語り合うようにして過ごすのがならいでした。


ゆるゆると温かな宵、やわらかな闇が辺りを包む中で、
匠は女房と同じ場所に寄りかかます。


「どんなに時が流れても、ここに来ると心がおまえの元へ飛んでいくよ。

おまえの幻影を追いかけても、徒らなことはわかってる。

水面に映る花びらに手を伸ばしたって、波紋が立つだけで触れることはできないものな。

それでも、ここでは、おまえのことを待っていたい気持ちになるんだ…

おまえが逝ってしまったあの暁、
手の中のおまえが少しずつはかなくなって、
こんなに近くにいるのにもう取り戻せないと思い知らされた後も、

おまえの可憐な姿、
けがれのない笑顔、
鮮やかに映し出されて頭から離れやしない。

おまえは、幸せだったんだよな。

おいらも、幸せだったよ。おまえにいっぱい、幸せをもらった。

今だって楽しく暮らしてるよ。
里の人たちはみんなおまえのことを覚えていて、独り身に戻ったおいらをいろいろ手伝ってくれる。
殿様も奥方様もいつも親切で、若様はどんどん可愛くなってる。
職人たちはおいらに、面白い仕事を任せてくれて、
みんなみんなとっても優しいんだ。

でもやっぱり、ここでおまえと出逢ってから一緒に過ごしたあの時間と比べると、
今はまるで余生みたいに思ってしまう時があるんだ。

おいらはおいらの命を、これからも精一杯生きるけど、
いつかそれが終わるときには、必ずここに来るよ。
そしたら、おまえに会えるかな…」


木は、なにも答えません。


それでも匠は懐かしい日々をいとおしむように、夜半の月を眺めながら語りかけるのでした。