今回は、数学者の岡 潔さん
(1901-1978)と文芸評論家、
作家の小林 秀雄さん(1902-1983)
の対談の言葉を味わいたいと思います。
 
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「無明ということ」
(『人間の建設』から抜粋)
 
(岡) いまの絵かきは自分の
ノイローゼをかいて、売っていると
いえるかもしれませんね。
そういう絵をかいていて、平和を
唱えたって、平和になりようが
ないわけですね。
そうでしょう。 対象はみんな
敵だと思って、ファイトと忍耐を
もって立ちむかうのでしょう。
そうすると、神経のいらだちが
おのずから画面に出る。
それがよく出るほど個性があると
いっている。
 
・・・奈良の博物館で、正倉院の
いろいろなきれを陳列していた。
破れてしまっているきれの片々を
丁寧に集めて、丹念に紙にはって
あるのです。
それをこちらも丹念に見ていった。
三時間ほどはいっていたでしょうか、
外へ出てみると、あのあたりに
いろいろな松がはえておりますが、
どの松を見ても、いい枝ぶりを
しているのですね。
それまでは、いい枝ぶりの松なんか
滅多にないと思っておった。
ところが一本の幹につくその枝ぶりが、
どの一つもみなよくできているように
見えた。
だから、丹念に長いあいだ取り扱って
きたものを見ているうちに、自分の
心からほしいままなものが取れたの
じゃないか。
 
ほしいままのものが取れさえすれば、
自然は何を見ても美しいのじゃないか。
自然をありのままにかきさえすれば
いいのだ、そのためには、心の
ほしいままをとってからでなければ
かけないのだ、そういうふうに
なっているらしい。
この松は枝ぶりがよいとかいけない
とかという見方は、思い上がったこと
なのです。 それではほんとうの
絵はかけないらしい。
 
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いまは「個性」尊重の時代。
多様性の時代。
個人レベルで世界中に動画などを
発信できる時代。
 
だからこそ、
個性ってなんやねん?
表現の自由ってなんやねん?
多様性ってなんやねん?
ということを考える場が
必要なんだろうと思いますが、
我々が熟慮する暇もないくらい
IT技術の進化拡大が速いですね。
そこに資本主義がついて回って、
再生回数でお金を稼ぐ仕組みが
出来上がっていく。
「ほしいままのもの」を取るどころか、
幾重にも身に重ねていくような。。。
 
岡さんは違うページで
「人は自己中心に知情意し、感覚し、
行為する。
その自己中心的な広い意味の行為を
しようとする本能を無明という。
ところで、人には個性というものが
ある。 芸術はとくにそれを
やかましく言っている。
漱石も芥川も言っております。
そういう固有の色というものがある。
その個性は自己中心に考えられた
ものだと思っている。
本当はもっと深いところから来る
ものであるということを知らない。
つまり自己中心に考えた自己という
もの、西洋ではそれを自我といって
おります。 仏教では小我といい
ますが、小我からくるものは醜悪さ
だけなんです」と述べられています。
 
現代生活は情報が溢れています。
今後ますます増えていきますよね。
その中で、本物ってどれくらい
あるでしょう?
玉石混合といわれますが、
昔よりも宝石を見つけるのが
難しくなっている気がします。
案外、偽物と本物って
見分けが難しいですからね(^^)。
このへんもじっくり考え、感じないと
分かりませんね。
 
結局、学ぶしかないですね。
地道に、謙虚に。
近道なんてないですよね。
デジタルだ、AIだとかいって
進歩を謳うけれども、
最後は自分ですよ。
自分の本当の人生を生きるのは
自分ですよ。
 
「ほしいままのもの」をいかに
見分け、いかに削ぐか。
削ぐことで本物を得る。
禊ぎ(みそぎ)ですね。
 
 

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まるごと いかす

まるごと クラス

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