引き続き、養老孟司さんの言葉を
味わいたいと思います。
 
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「日本は自然に助けられてきた」
(『虫眼とアニ眼』から抜粋)
 
ぼくが子どものことを考えるようになったのは、
ごく最近なんですね。 自分の子どもも含めて、
それこそ教育なんて関係ないやって世間任せに
していたら、いくらなんでもおかしいんじゃ
ないのって感じることが多くなった(笑)。
 
最近一番おかしかったのは、文部省が毎年
行っている新任の先生方の研修に呼ばれたん
ですね。 
これが四百名の先生が船に乗せられて
十日間海を旅するってプログラムなんですが、
どの先生も「忙しくて海なんか見てる暇ない
です」って言う。
で、最後の十日目にね、二十人くらいの
グループに分かれて討論の発表をするんです。
ぼくもつき合って聞いていたんだけど、
なんとその話題が、いじめをなくすとか、
落ちこぼれを作らないとか、全部人間関係に
終始している。
 
ぼくが期待していたのは全然違う話で、
山登りの好きな先生が摩周湖で妙な石ころを
拾ってきたとして、それを教室の真ん中に
置いてどういう教材にするかとか、
ヒヨコからニワトリを育てて、親になったら
首を絞めてスープにして調理実習の食材に
使うのはどうだろう、みたいな話だったん
ですけどね(笑)、そんなのは一つもなかった。
 
だって四百人が自由に討論したんですよ。
その結論が全部人間関係についてなんだから、
いま職員室で先生たちがどんな話をしている
のかもおのずとわかってしまうわけ。
要するに、先生方の社会なんだ。
つまり、自分たちの住んでいる社会を
どうするかについて話をしているんであって、
子どもについてじゃない。
別の言い方をすれば、子どもは完全に
置いてけぼりなんだけど、それが
置いてけぼりってことにも一切気づいていない。
 
それはそうでしょう。
だって船に乗ってて海も見ないんですから。
波なんて見たってしょうがないと思っている。
でも、その波こそが世の中そのもので、
無意味に動いているものでしょう。
ところが本来そういうものだという感覚から
してもうないんです。
いかにこの社会に子どもを適応させるかって、
せいぜい善意で考えているわけです。
 
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学校の先生方の置かれている状況も

どんどんシビアになっていますよね。

いじめ、自殺、神経発達症(発達障害)、受験、

デジタル化、性的少数者、体罰、核家族化など、

限られた時間の中で、問題が山積みで。。。

先生方が船に揺られて、ゆっくり波を眺める、

そんな余裕すら与えない社会環境があるように

思います。

そして、そんな先生方の授業を受ける子供たち。

 

自然のものをじっくり見ると

単にそれだけで終わらずに、

案外、知らず知らずのうちに

自分の中に何らかの変化が

生まれるんですよね。

 

診療所に来る、最近の子供たち、

待ち時間には、すぐにスマホやゲームを

したがります。

親子で話し合ってスマホやゲームをする

ルールがあればいいんですけどね。

それでも、スマホやゲームは、子供たちの

想像力を育成する機会を減らしているなと

思います。

 

昔の人は、不便な時代に生きておられましたが、

一枚の絵を見て、そのストーリーを想像したり、

俳句の五・七・五という十七音で情景や心情を

想像し、味わったりという、自分の中から

生まれ来るものを味わう余裕があったんじゃ

ないかと思います。

それらは必ずしも上流階級の人々のもの

だけではなくて、奈良時代末期に作られた

和歌集である万葉集には、防人の歌として、

九州沿岸の警備に当たった人々の歌も載せら

ています。

 

スマホやゲームの圧倒的外的刺激で興奮し、

自分の中から生まれ来るものをゆっくり

味わう余裕のない時代。

 

わざわざ団子を作り、供え、

わざわざススキを取り、活け、

お月様を愛でる余裕なんて、今は無い。

それよりも月に宇宙船を飛ばし、

いかに月を開発するか、利用するかに関心が

行く。

 

これも時代の「波」ですかね。

 

ただ、言えることは、

幸せは自分の心が決めるもの、

ということですね。

 

物質的価値や損得勘定、刹那的な快楽を

求める心は、どこまでいっても満足する

ことはないでしょうね。

自分の外に外に向かっていくだけで。

 

「妙な石ころを拾ってきたとして、
それを教室の真ん中に置いてどういう教材に
するか」という話は、ものをどう活かすか、
ということだと思います。
何でもない石ころを活かせる人は、
石ころの中を見つめ、自分の中を見つめる
ことのできる人だと思います。
 
そういう人にしか、本当の意味で
子どもたちを活かせる、相手を活かせる
ことはできないんじゃないかなと思います。
 
だから、いじめや落ちこぼれといったテーマ
を見つめていても、せいぜい
「いかにこの社会に子どもを適応させるか」
という話で終わってしまう。
子どもたちを「外」に合わせる視点で終わって
しまう。
 

自分の中を見つめることが大事だと思います。

 

「鬼は外、福は内」

 

豆まきの掛け声ですが、

「外にある福を内に呼び込みたい」という

解釈が一般的かと思います。

つまり「鬼は外へ、福は内へ」。

 

でも、これ、

「福は内にあるんだよ」という

昔の人たちからのメッセージに見えませんか?

 

 

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じぶん まるごと

しぜん まるごと

まなぶ クラス

くらす クラス

まるごと いきる

まるごと いかす

まるごと クラス

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