今回は解剖学者の養老孟司さん
(1937-)の言葉を味わいたいと
思います。
 
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「あまった「感性」が人間に向いた」
(『虫眼とアニ眼』から抜粋)
 
まず感性の基本には、ある種の「差異」を
見分ける能力があると思う。
それが広告のような商売では、
気持ちのいいものを指向するわけだけれど、
社会一般を考えると、さっきの怖いもの見たさ
じゃありませんが、当然、気持ちの悪いものも
含まれる。
平たく言えば、感性とは、
「なんかほかと違うぞ」って変化がわかること
と言ってもいいんじゃないだろうか。
で、現代の人間、とくに子どもたちが、
いまどこにその差異を見ているのかを考えると、
結局人間関係の中にそれを見ちゃっているん
ですね。
ぼくらの頃は、「なんか違うぞ」っていうのは、
「蟹がいねえぞ」だったんです。
普通の大人は、蟹なんて商売にしてませんから、
いなくなったってわからない。
その差異を発見するのは、子どもの感性だった。
いまや子どもまでがそういったディテールを
見分ける能力が抜け落ちてしまっている。
 
で、話はまた飛ぶんだけど、蝶は飛ぶときに、
好き勝手に飛んでいるわけではなくて、
「蝶道」と呼ばれる道に従ってヒラヒラ
飛んでいるんですね。以前はぼくの家の前に
その蝶道があったんです。
ところが家の裏に建て増しをしたら、その
蝶道が消えてしまった。
つまり蝶という生き物は、かなりデリケートに
周囲の環境を把握していると思ったんです。
 
・・・だって考えてみても不思議でしょう。
どこへでも飛んでいけそうな蝶が、前を飛ぶ
仲間を見ているわけでもないのに、デコボコ
まで同じように飛んでいる。 でもそれを
目の当たりにして突然わかったのは、
蝶は周囲の環境を全部それなりに把握して、
脳から各運動器官に出力しているのだろうと。
そう考えれば各個体の運動の軌跡が全部一緒
ということも納得できる。
ということは、今度は蝶がいったいどのくらい
細かく周囲の環境を計算しながら飛んでいるのか
ってことに驚かされるわけ。
そうやってハタと気づくのは、自然環境というのは、
ものすごいディテールで成り立っていて、
いまの人間は、それを完全に無視して生きている
ということです。
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僕の二ホンミツバチの巣箱に、

偵察ハチが来たことがあり、

その動きを見ていると、

巣箱の入り口や周囲を何度も

飛び回って、入り口から中を

のぞいたりしていました。

彼らは彼らなりに、計測能力があるんですね。

そんな彼らの目線に立たないと、

住んでくれないんですね。

結局、彼らのお眼鏡にかなわず、

僕の巣箱には未だに二ホンミツバチは

営巣していません。。(-_-;)

 

自然界の中に身を置いてみると、

そういう細かさ(ディテール)に

気づかされます。

 

人間が圧倒的な力で、それらを壊すと

自然環境の繊細なバランスが崩れ、

公害となりえます。

一方で、人間には、その繊細なものを

感じ取る能力も与えられていると思います。

 

うまく人間の能力を活かし、自然環境を

活かしていく道を探らねばなりません。

 

そのためにはもっと自然を見て、

「なんか違うぞ」という感性を磨く必要が

ありますね。

 

なにも遠くの森まで行かなくても

身近なものでいいと思うんです。

 

例えば、コップに水が入っている。

コップぎりぎりまで水を入れると

表面張力で水表面が弧を描く。

平面ではないですよね。

砂などはコップぎりぎりに

平面で入れることができます。

「なんか違うぞ」ですよね。

 

コップの縁のところで、

水分子たちがギリギリまで

手をつないでいるからですよね。

表面張力という現象に、

水分子たちの「つながり」を見る。

 

そんなんでいいと思うんです。

 

実技では、その「つながり」を

自分の体で体現していきます。

そうすると「なんか違う」結果が

生まれます。

 

おもしろいで~(^^)/

 

 

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