「追悼文集」編集後記
数々の御縁の中で携わることとなりました「追悼文集」。
お客様との関わりが深まるごとに、見えてきた「主人公」。
光と影、陰と陽、人間は様々な感情の中で生きています。何が正しいとか何が間違っているとかを決めているのは自分自身です。自然界に従って生きていれば、そのようなことは考えにも及びません。
しかし、人間はそのように「正邪」を決めなければ生きて行けないのでしょう。遠足の日には「晴れ」が「正」、「雨」が「邪」。炎天下、じりじりとした暑さの中に雨が降る、すると人間は「雨」を「正」とする。人間は自分の都合で身勝手に正邪を決めます。それが人間そのものです。そのように勝手に「正邪」を考える身勝手な人間と自覚していたいものです。
誰かにとっては「正」誰かにとっては「邪」なわけです。
この「追悼文集」を制作するにあたって、そんなことを考えました。今まで、そのように改めて考えたことはありませんでしたから、いかに身勝手な自分だったのかと恥じる事ができたということです。
不思議なご縁で出会った、この文集の製作。いえ、不思議でもなんでもありません、当たり前に出逢ったのです。
何度、辞めたいと思ったことでしょう。辞めたいと思った理由は、今では大したことではありません。なぜなら、仕上がった今、とても清々しい気持ちだからです。
印刷機以外は人間が道具を使って切ったりそろえたり、貼ったり、縫ったりします。微妙なずれが生じます。そのずれを駄目なものにしてしまうのも人間です。そんなことも考えました。
綺麗にそろったものは美しい。その概念に捉われてしまうように育ってしまった人間。同じ大きさでそろえる事や同じ角度でそろえる事、そろえたものを一ミリのズレもないように重ねる事。それが美とされる。
人間も同じです。少し、ずれたり、人と違ったり、集団から外れたり、するとどうでしょう、あなたはダメな子、ダメな人とレッテル(病名や障がい名)を貼り付け、差別し分ける。そこに合理的配慮など無いはずです。
あなたのために特別にクラス(特別支援学級や学校)を作ったのだから、そちらへ行きなさいと。まるで、いいことをしてもらっているように錯覚します。している側も同じ。
私は、この「追悼文集」の製作にあたり、深い深い思惟を巡らしました。ありがたいことです。
これからもこの気持ちを大切に会社経営をしていきたい。そして、さまざまな人間が生きやすい社会にするために、自らの会社でレッテル(病名や障がい名)を貼り付けられた人間と共に働ける会社作りをし、それが当たり前の経営者理念である世の中にすることを決意します。
自分自身も、あるところでは「変人」というレッテルを貼られます。それでも強く生きることが出来ているのは今「弱者」とされている人のお蔭かもしれません。彼らが私を育ててくれているのでしょう。
感謝。ありがとうございます。