家内の実家は岡山県の田舎町である。
今年も年始の挨拶を兼ねて家内の里帰りに同行した。
そして、家内の里帰りに同行する度に感じることがある。
それは自宅のある兵庫県(正確には新大阪駅)から新幹線で西に向かう車中で感じることである。
その感じとは、西に向かって進んでいくと徐々に肩の荷を降ろしていくように気分が軽くなってくるのである。
向かう先は家内の実家なので、家内の母親(家内の父親は私と結婚するずいぶん前に他界していたのでお会いしたことは無い)と義理の弟夫婦一家が暮らす、少々気を使わなければならない、若干窮屈な場所である。
なので、普通に考えれば、そこへ向かう道中で私の気分が重くなってもおかしくないのだが、逆に気分が軽くなり、ほっとするという矛盾した感情が生まれていた。
それは長い間、私の中でなんでやろというもやもやした説明できない感覚であった。
そこで、今回の里帰りにおいて、その感覚の原因を探るため、新大阪から岡山までの新幹線の車窓風景を撮影して検証してみた。
まずは新大阪駅を出発してすぐの車窓風景をごらんいただきたい。
高架上を走っているにもかかわらず、周りの高い建物に邪魔されて遠くの風景まで見通せない。
(車窓越しに写しているので乱反射で見づらいところがあるのはご容赦願いたい)
空も建物の上に少ししか見えず、車窓風景を眺めていても開放感が無く、なにか頭を押さえつけられるようで息が詰まる。
次は兵庫県の西明石駅から姫路駅間の車窓風景である。
高い建物が無くなってきて、空が広く、開放感が出てきたが、遠くから車窓近くまで密集した住宅が続いている。
なんだか、これらの家々がこちらに迫ってくるようで、この場所でもまだ息が詰まるようだ。
そしてこちらが岡山県に入ってしばらくしてからの画像である。
車窓の風景を見ているといままでの押さえつけられるような感覚が無くなり、なにかしらほっとするような感覚だ。
(走行中の画像なので近くの風景が少しぼやけているのはご容赦願いたい)
このように大阪から岡山までの車窓の風景を見比べてみると、徐々に肩から荷を降ろすように気分が軽くなっていく理由が自分なりに解ってきたように思う。
大阪から兵庫県内までの車窓を見ていると初めは高い建物が多く、空もよく見えず、さらに建物が覆いかぶさってくるような感覚だ。
そして、進んでいくと高い建物は無くなって開放感は出てくるが、線路沿いの建物がこちらに迫ってくるように見えて気分的に圧迫感がある。
それが、岡山県に入ると高い建物が無くなり、空も開け、押さえつけられるような感覚ば無くなってくる。
それが肩や頭にのしかかるような感覚をすーっと抜けさせ、ほっとするんだなーと理解できた。
なんやかや難波のまちは便利やが
しらずストレスためとったんや
こうして、車窓の風景の移り変わりを改めてじっくり見てみると、自分なりに長年の疑問の解答が出たような気がする。
さらに、この文章を書いていると、
そういえば家内の実家にいると、窮屈は窮屈なのだが、なにかゆったり、のんびりした気分になるな-と前々から思っていたことに気がついた。
またの機会に普段私が自宅や会社で見ている風景と家内の実家で見る風景を見比べてみてその理由を検証してみようと思う。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。