衝動、とか、純愛、とか、そういう感情って他人様には理解しえなくても当事者が理解し合えたら、それでよかったりしますよね。←わたしだけ?

教師と生徒の恋なんですが、書き始めはなんと小学生からでございます。

あ、書き忘れた。

今回は姫野カオルコさんの『ツ、イ、ラ、ク』です。

小学生、ということを忘れてしまいそうな駆け引きとか葛藤とか男女間のいざこざとかがあるんですよ。自分の小学生時代を思い返してみたところで、こんな感情になったことがないなとしか思えなかったので、田舎町が舞台であり、そういう場所にいる子供は割と精神的なのか肉体的なのか成熟しやすいということを思わせました。

そして、中学生になり、より男女という感覚が精神面でも肉体面でも顕著になる頃、主人公である隼子は猛烈にオンナとして成熟していき、恋愛をします。その相手が教師である河村。河村って名前の教師が生徒と恋に落ちる小説、他にも読んだ気がするんですけど、河村先生は生徒に恋をしやすい名前なんですかね?←

しかも、少女漫画で発生する教師と生徒の【淡い恋】とか【切ない純愛】とかなんかそういうんじゃなくて、まさに【禁断】であり【衝動】です。なんと言えば良いのか、あのー恋愛って【堕ちる】というじゃないですか。彼女らは真っ向から堕ちていくんですよ。真っ逆さまに。

中学生という年代のせいなのか、時々まやかしのように時々真っ直ぐに時々恥ずかしそうにオンナと少女をくるくる巡っていくので、読んでいるこちらとしては「え?」「待って、それはあの、その」と混乱させていただけました。←褒めてます。

ここまでだったら、ただの【性欲】が先をいって夢中になった恋、かもしれません。だけど、それは始まりのきっかけをつくった感情だっただけで、結果的には自分の青春どころかそれ以降を左右してしまうほどの、純愛に成り代わっていたのです。まさに、初恋、そして、最後の恋。

 

この小説は大人になった隼子までを描いています。

彼女のように生き急ぐように成熟した人は、ある程度大人になるとその成長は失速し、当時を振り返り続けるような繊細で脆い感覚を身につけるのだとどこかで読んだ気がします。そのせいで、昔じゃあ子供すぎて話にならなかった同級生たちもある程度似たり寄ったりの大人になっています。

社会とか集団とか世界って、学生の頃はその真四角の真ん中にいる感覚でしたけど、大人になっていくと四角がどんどん長方形になっていって、狭い世界がすこしずつ広がり、諦めとか歪みとか卑しさとかそういうのを覚えていく。

その感覚が顕著に身につく人もいれば、緩やかに知っていく人もいる。

だけど結果的には、なんとなく大人というカテゴリーにおさまる。

それはわたしにとってはつまらないものですけど、人生を穏やかにすごすためには必要な成長方法なのかもしれません。

 

わたしの同級生でも学生時代はあっちの男こっちの男にふらふらしていた子もすっかり母親になっていますし、ずっと真面目でいつになったら彼氏ができるの?と思っていたような子は未だにあっちの男こっちの男と渡り歩いていますが「自分で選んだことだから」と言っています。

【普通の幸せ】とか【普通の恋愛】って誰が決めるのでしょうか。

わたしの描く幸せや恋愛というのはもしかすると人とは違うかもしれないし、誰かの言う幸せや恋愛というのはわたしは違うと思うかもしれない。

人それぞれ、と言ってしまえたら楽でしょうが、どうしても人間というのは人と比べてしまうものです。

この話を読んでいると、自分も誰かの人生を左右したかもしれないという恐ろしさと誰かと関わることの尊さを感じます。

青春時代に好きだった先生、というだけでは終わらない恋愛小説。

こういう過去が一つや二つあっても、それはそれで良いなあとか思いますけど、辛いな笑

では。

 

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