「残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め ― 」

 

耳に残る物悲しい響き。

 

吉沢亮くんと横浜流星くんの魂を削るような演技が、『曽根崎心中』の悲恋物語にさらに深みを与えている気がする。

 

 

 

吉沢亮のお初と徳兵衛

 

「芝居にはどうしても人柄が出ちゃう」

 

8月17日放送『日曜日の初耳学』で吉沢くんが語っていた言葉。

 

『国宝』のお初と徳兵衛の演技を観ていると、吉沢くん自身の人柄まで透けて見えるような気がして、この言葉にはとても納得感があった。

 

 

 

徳兵衛を縁の下に隠し、天満屋にやって来た九平次と対峙するお初。

 

愛する徳兵衛を陥れておきながら、死んだら自分が可愛がってやると話す九平次。

 

その悪事を暴けない悔しさと憤りから、九平次に向けるお初の燃えるような眼差しに心を鷲掴みにされる。

 

「死ぬ覚悟があるのか」と縁の下の徳兵衛を見つめるお初は、死を通して究極の愛を突きつける青白い炎のような激しさがあり、怖いぐらい美しい。

 

 

 

 

 

 

深夜に店を抜け出し曽根崎の森に行き着いた二人。

 

お初が手を合わせ、いよいよ徳兵衛の刀を受け入れようとする場面。

 

哀しみと悲しみ、無念さ、この世への未練、死の恐怖。

 

そのをすべてを呑み込んだお初の心にあるのは、死を通して徳兵衛との愛を貫くことだけ。

 

どこまでも純粋で無垢な愛。

 

吉沢亮くんのお初から感じるのは、そんな真っ白な、あるいは透明な愛だ。

 

 

 

その純粋さは吉沢くんの徳兵衛からもにじみ出ていたように思う。

 

 

 

彼の徳兵衛には女形に扮した喜久雄がそのまま徳兵衛を演じているかのような色気が漂う。

 

立役を演じていても、いやむしろ、立役だからこその艶やかな色香があふれ出ている。

 

 

 

お初の壮絶な覚悟に押され心中を決意したものの、愛するお初を自分の手で殺めることに何度も逡巡し葛藤する徳兵衛。

 

しかし、どれだけ迷い苦しんだとしても二人の進む道は共に死ぬこと以外にない。

 

さあ、ひと思いに…。

 

とお初に促される徳兵衛。

 

その悲しみと絶望。

 

徳兵衛の瞳に浮かぶ「もはやこれまでか…」という諦め。

 

青白い照明の下で呆然と立ちすくむ徳兵衛の姿が美しく胸を打つ。

 

 

 

 

 

 

 

吉沢くんのお初や徳兵衛は、感情が溢れるというよりも、心の中に膨れ上がった想いが抑えきれずに染み出て来るような感じだ。

 

ほんのわずかな心の揺らぎさえ、さざ波のように観客に伝わり心を震わせる。

 

この抑制の効いた感情表現は、吉沢くんが台本を見ずに自分を追い詰めることで生まれた喜久雄が、吉沢くんそのものであった証のような気がしてならない。

 

「芝居には人柄が出る」のならば、吉沢くん自身がとても繊細でピュアなひとなのではないだろうか。

 

そして李監督が「とらえどころがない」「中が空洞」と言うように、自分の感情を常に薄いヴェールの向こう側で大切にしまっておくような人なのかもしれない。

 

 

 

『国宝』は、吉沢くんの人柄と役者としてのポテンシャルを見抜いた李監督と、その期待に尋常ではない覚悟と鬼気迫る執念で応えた吉沢亮くんの出会いが産んだ、奇跡の作品のような気がする。