日本の志士達の血涙の歌を読んで頂き、各々皆様の心に掲げ、赤き焔を燈して頂ければと思います。

 

益良雄の 悲しきいのち 積み重ね積み重ね守る 大和島根を 』 三井甲之(みついこうし)作

 

三井甲之は山梨県中巨摩郡松島村出身。明治三十四年(一九〇四年)に東京帝国大学文学部国文科へ入学。

 

一高時代の明治三十五年(一九〇二年)に死去した正岡子規の短歌革新に共感する。また一高時代は高浜虚子の句会に参加し、帝大時代には万葉研究を行うほか根岸短歌会に属し、伊藤左千夫から指導を受ける。

 

また三井は評論家としても活躍し、総合雑誌『日本及日本人』において短歌選者となり、陸羯南『日本』と三宅雪嶺『日本人』が合流した「日本及日本人」でも精力的に執筆した。 

 

大正十四年(一九二五年)には、蓑田胸喜や松田福松らと右翼団体・原理日本社を結成し、機関誌『原理日本』を刊行した。

 

帝国大学に見られた自由主義的風潮やマルクス・レーニン主義を激しく批判した。また、甲斐国出身の尊皇思想家である山県大弐の顕彰活動にも携わった。

 

この歌は、昭和二年八月二十四日深夜、島根県美保が関沖合で夜間水雷攻撃訓練中に、駆逐艦「蕨」と巡洋艦「神通」が激突。「蕨」の殉職者九十名。この中の一人機関長福田秀穂少佐の殉職を悼んで、歌人三井甲之が詠んだものである。

 

この歌の愛国的悲壮感が広く国民の心の琴線に触れ、大東亜戦争中に愛唱された。靖国神社遊就館、入って直ぐの部屋の壁面に高く掲げられている。

 

生きるというのは生命の本質であり、本能の中心に据えられた情動である。だから動物は死にそうになると、あらゆる手段を講じてそれから逃れようとする。誰にとっても死は最大に怖いものである。

 

だが人間だけは、自ら死に向っていくことも出来る。それは本能を超えて、大事な何かを守る瞬間である。自分の命を、その命よりも大切なものの為に自らを捧げるのだ。その命が尊く、有難く、そして悲しいと。その涙こそが人間に勇気を与えるものであり、全ての勇気は一滴の、崇高なる涙から発している。

 

先人が殉じたという悲しみの歴史が、国を守るために命懸けで闘う勇気を与え、その崇高さに涙することが勇気の源泉となる。この悲しき血涙の歴史を知らなければ、国に殉じることは絶対に出来ない。

 

この歌は日本という国が、皇国に殉じた者の歴史の積み重ねであると歌っている。ただ血筋のみが繋がっているのではなく、そういう崇高な命が守ろうとした日本の根、日本の最も美しい根底をこれからも守って行く覚悟を謳い上げている。

 

日本は、確かに世界の中でも国土の狭い島国である。だが、その歴史はどんな大国にも劣らない崇高なもので、それは益良雄という尊い存在が守り続けて来たからだ。

 

我々が目指す、回天とも言える戦後維新は、とてもではないが、一人で為せるものではない。あの大西郷でさえも「人間ひとりが為せることはたかが知れている・・・」と言っている。まして況や、その至誠の泉に於いて大西郷に及ばざる我々に於いておやである。

 

だが、その多寡が知れた命も、その悲願を継ぎ継ぎて行くことで、漸く、不動の巨大な大木と成る。皇国日本の維新は自分達の時代だけで維新が成ると考えるのではなく、もっともっと大きな視野と大信根、大根気で見て行かなければならない。

 

この大和島根は、これまでいずれも無名の志士・戦士を含む益良雄の命の犠牲の上に成り立って来たことを、維新を悲願し、目指すものは肺肝に留め、絶対に忘れてはいけない。

 

我々の戦後維新(戦後史観、体制からの脱却)運動はこの歌の精神に則って、絶望することなく、やがて夜明けのくるそれまで、各々の縁とその所属する団体の役割・使命・レベルに応じ、赤誠たる運動を断固として継続していくことが肝要である。