小さな島の行き着く先は4 7 | ブログ連載小説・幸田回生

ブログ連載小説・幸田回生

読み切りの小説を連載にしてみました。

よろしかった、読んでみてください。

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 昼間でも陽の光が届きにくい、
 1階の狭い洋間の備え付けデスクの蛍光ランプに灯を点しながら、
 中島の手紙を読み終えると、定村は返事を書いた。
 
 
 前略。
 中島さんの封書の切手に刻印された日付を見て思ったのですが、 
 早いものです、僕が京都に着いて、かれこれ、一ヶ月が過ぎました。
 京都も寒いはずです。
 

 中島さんと四条大橋で出会ったのが偶然なら、
 僕が今この部屋で暮らすのも同じようなものです。
 会社はともかく、実家を離れていたとはいえ、
 両親に一言の断りもせず、東京を飛び出した。

 
 ビジネスホテルで1週間が経った頃、
 今住むアパートに落ち着くようになりました。
 ここは僕が1年間を過ごしたロンドンのように、
 これまでの日本の常識や概念を覆すような、
 保証人なし、敷金礼金なし、デポジット1万円の物件です。
 

 築40年どころか、下手をすると戦前戦中をやり過ごした木造物件を、
 洋間の約6畳と専用のキッチンとトイレに改造、
 シャワーは共同で1回、5分の利用で百円、10分で2百円。
 これで家賃は月3万5千円は京都の中心では相場通りなのかもしれません。   
 
                     
 バブルの真っ最中のご時世に、
 京都祇園の近くの古い旅館を親から相続したオーナーが、
 旅館業に何の魅力も興味も感じなかった彼が機転を利かせ、外人向けのアパートを思いたったようです。
 
 
 僕はまだ一度もオーナーにお会いにしていないのですが、
 京都を訪れる外国人観光客が多いのに目を付けたオーナーは、
 アンテナを張っているといえば、張っているのでしょう。
 彼らの中に京都に居着く者がいることを見越して、
 和風な旅館からから洋風に改装し、
 留学生を中心としたアパートとして、リニューアルしたのが数年前。
 

 フリーペーパーを見た僕の電話を取った管理人も兼ねるアイリッシュのトムの英断によって、外人だらけの唐人ハウスで、
 僕は歴代只一人の日本人して煙たがられるやら重宝がられるやら、
 判断がつかない日々を送っています。
 ところで今日、仕事が遅番だったので、
 休みのトムを誘って、京都の紅葉を観ようと、
 南禅寺に出向く予定が彼の風邪で中止になりました。
 
 
 中島さんと駅で別れた直後、京都タワーの場所を確認しようと、
 本屋でガイドブックを手に入れました。 
 あまりに拍子抜けして、ここではその話は省かせて頂きます。
 春の花見と並んで、京の紅葉は一生に一度は見るべき絶景、
 ガイドブックにはそんなキャッチコピーが付いていますが、 
 彩りといい雰囲気といい、
 にわかに洗脳されそうな雰囲気は持っています。

 
 トムといえば、今年で二度目の秋の京都を迎えるのですが、
 春の桜の美しには驚嘆しつつも、
 正直なところ紅葉までは京都ナイズされていなかったようなです。
 日本人の僕にしても、それまで紅葉を意識しなかったのですから、
 それも致し方ないのかもしれません。
 
 
 話を僕の部屋に移します。 
 急な引っ越しだったこともあって、
 余り物の部屋を宛がわれた僕のねぐらは陽当たりが悪く、
 旅館時代の忘れ形見のような年代物のクーラーがあるだけで、
 ストーブやヒーターの洒落た文明の機器がないものですから、
 足下から冷えて、男のくせにこんなに冷え性だったかと、
 27歳にして実感しました。

 師走を前にして、この10年来使うことのなかった電気コタツでも買おうかと真剣に悩んでいる昨今です。
 

 僕のことはこれくらいにして、
 中島さん、お見合いをされるそうですね。 
 経験がない僕が言うのも何ですが、
 元より、両親や親族は一度も見合いを勧めてはくれませんでした。
 

 ある意味で中島さんが羨ましくもあります。
 見合いというのは、日本人の英知が詰まった素晴らしい、 
 制度というか、しきたりというか、文化だと思います。
 
 
 僕が好きな太宰と三島は時代柄でしょうか、
 偶然にも見合い結婚です。
 表面的には反目しあう二人が、
 三島のほうが一方的に太宰を意識しているのでしょうが、
 自己愛に生きた似た者同士の二人の大家が、
 お見合いにどれほどの価値を抱いたいたのかは、
 その後の彼らの言動を見ると、今一つはっきり核心が持てないのです。

 
 若くして、尊い命を落とした兄が生前の最期を過ごした京都で、 
 先日、思いがけずも、15年ぶりに中島さんと再会を果たせたのも、きっと、今は天国で暮らす、兄の導きでしょう。
 

 初めてお酒を飲み交わしたその席で僕のほうからお話しするべきでしたが、
 この春から、僕はとある女性と東京の郊外で暮らしていました。
 彼女とは小学校から大学まで同級生で実家も近く、
 歩いていける距離に長年過ごしながら、
 不思議といえば不思議なのですが、
 互いに大学時代の現実逃避のヨーロッパ旅行で、
 パリのオペラ座近くで、僕と彼女は運命的に巡り逢いました。
 

 僕はそのまま、ドーバー海峡を渡って兄が憧れた英国はロンドンで1年後を過ごしたのですが、
 彼女は大学卒業後の目標である学芸員の勉強を兼ねて、
 ヨーロッパ各地の美術館巡りの後、そのまま帰国の予定のところ、
 ロンドンまで飛んで来てくれました。
 
 
 1年後、帰国すると、僕は彼女と本格的に交際を始めました。 
 彼女は大学を卒業し、学芸員として、社会人として新たな生活の一歩を踏み出す一方、
 1年間の留学の結果、僕はもう1年の大学生活が残っていました。
 より正確を記するならば、与えられた1年の猶予の大学生活で就職を決めて、
 社会に出なければならない。
 

 当時、それほどのプレッシャーを感じていた訳でもないのですが、
 今から思えば、当時の僕はもうすでに若年寄りのような、
 老成した人間になっていたと思います。
 

 意識するにしないにせよ、心の片隅のどこかで、
 恐らく彼女が望んでいるであろう結婚をどこかに意識せざるを得なかった自分がいました。
 
 
 大学に入学して5年目の秋も深まる頃、
 僕は先日まで勤めていた会社に就職を決めました。
 

 高校時代に親友でった僕の兄さんを失った中島さんが、
 心の張りや目標を失しながらも受験勉強に打ち込み大学に進学し、
 本来進むべき道だった音楽の道から逸れて、 
 本意でなかった教師の道へ進まれたように、
 翌年、僕はごくごくありふれた、サラリーマンとしての生活に足を踏み入れたのです。

 
 中学校に入った年の夏休みに、導いてくれるはずの兄を失くしてからというもの、
 僕は心のコンパスをなくして航海する船のようでした。
 右へ行くか左へ行くか、決断を迫られるような場合に決まって、
 どこか頭の隅に住み続けている、木霊する兄の声を僕は待っていたのですが、
 兄は一度として、僕に応えてくれようとはしませんでした。
 アドバイスの欠片も見せてはくれませんでいした。
 
 
 もし、兄が生きていてくれたならば、と。
 兄の応えを待ちつづけた、
 世間的には二十歳を越えたいい大人の迷える子羊である僕は、
 最も忌み嫌っていたはずの、
 スーツに身を包み、満員電車で通勤する男に成り下がっていた。
 社会人になった僕は彼女との交際をずるずると引き延ばして、
 数年が過ぎました。
 

 週末にはデートというよりは、体を触れ合わせる、
 愛欲だけで結びついていたのです。
 今年になって、そんな僕と彼女の関係にも転機が訪れました。
 彼女の申し出で、二人の両親の許可も得て、郊外の町で同居を始めました。
 

 あらたまったことの嫌いな僕は、 
 敢えて、婚約や結納を交わした訳ではありせんが、
 暗に結婚を前提にしていると、誰もがそう捉えていましたが、
 僕らの新しい生活が始まって半年が過ぎた頃、
 僕が衝動的に東京を飛び出したのは、
 パリのオペラ座で二人が愛し合う前の、彼女の出来事が原因でした。
 

 長々と自分の事ばかり書いてしまいました。
 これからお見合いをされる中島さんに申し訳ありません。
 僕の話しなど忘れて下さい。 
 この手紙を破り捨てて下さい。
 是非、そうして下さい。
 中島さんに良縁あることを願っています。
 
 親友の弟、定村英一郎。
 

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