15
目覚めた時、陽子はもう動いていた。
50センチほど離れた隣のベッドで仰向けのまま、
ストレッチでもするように、
膝を曲げ伸ばし、足を上下に動かし、
右足、左足と順に宙に浮かせたまま腰を回転させ、
髭男に襲われた恐怖で固まり傷ついた心と体を自らの力で解きほどそうとしていた。
目が合い、どちらからともなく、「おはよう」と言葉を交わすと、
彼女のほうから「朝のテニアンが見たい」と、ドライブに誘ってきた。
レンタカーの返却までには数時間が残っている。
二人とも体は鉛のように重く、食事も摂らず、
ミネラルウォーターの補給だけで、
気分転換も兼ね、手短なドライブコースとして、
助手席に陽子を乗せ、
リトルナガサキからブロードウェイに出て南に向かうと、
運転席側の左に臨む豪華ホテルは昨夜のポーカーハウスでの珍事などなかったように勇姿を示していた。
ハンドルを切り、
ホテルの後姿を背に坂を上ってカーブを曲がり、
エンジンブレーキを効かせながら下ると、
先程とは少し色合いの違う、海が見えて来た。
峠をへだて、不思議と潮の色合いも違って感じる。
2日前の午後、太陽は衰えを知らず、南西から西へ傾いていたが、
時は移ろい、今朝の太陽は東の空に昇ったばかりだ。
無言のまま、海の香に呼び込まれるように、
俺と陽子は中田夫人が見つけた海亀の崖下まで進んで、覗き込んだ。
気持ちよい海風が吹き抜けた。
太陽はまだ5歳児のようで、
生命力に乏しく、そのせいか、眠りから覚めたばかりのか、
今朝は亀さんの顔を拝むことはできない。
突然、陽子が語りだした。
「あなたと過ごす時間も残りあと2日、48時間を切った。
若き日のエディ・マーフィの映画のように。
もちろん、わたしはリアルタイムではなく、
中学生の頃、レンタルで観たんだけど、
確か、監獄にぶち込まれていた彼は、列車強盗か何かを捕まえることを条件に囚人でありながら、
ヘッドハンティングされ、
臭いご飯からおさらばして、仮釈放される時には、
ヘッドフェンをしてポリスの「ロクサーヌ」を歌っていたわ。
日本人の耳には、「六さん、六さん」と、リフレインし、
どこにでもいる職人さんのように聴こえる、あの曲のことよ。
エディは本職のスティングほどではないにしろ、なかなかの渋い声と歌唱力で、
あれでいっぺんに彼を好きになったのを覚えている。
わたしとあなたは、エディ・マーフィーと彼を連れ出した相方のごつい刑事のように、
この難事件を短時間で解決できるほどの腕も勇気も運もない持ち合わせていない。
でも、どうにかして、この難局を乗り越えなければ。
テニアンでの旅は、明日の午後には終わるわ。
それまでに、少しでもジェームス・リーのことを突き詰めたい。
でも、本当に彼はどこに行ったのかしら。
このまま、彼が捕らえられないとしたら、とても心残り。
昨夜、髭男に突然襲われたわたしはあなたに抱えられ、
やっとの思いでクリスタルを出て、不気味な廊下を通り、
エレベーターに乗り込んだ。
ようやくあのホテルの駐車場から離れる時、
彼のミニ・クーパーが残っていたのに気付いたでしょう。
もう一度、あそこに寄ってみない。
彼はきっとどこかに隠れている。
深夜、部屋に着いて、汚れた体を心をシャワーで洗い流しても、
かえって頭は冴え渡り、2時間ばかり、
ああでもない、こうでもないと、羊の数を数えながらも、
いろいろと考えた結論よ。
よく聴いてよ、今から話すから。
とにかく、どうしてなのかは知らないけど、
ジェームズ・リーはとっくの昔にわたしたちの存在を知っていた。
サイパンのわたしのアパートのエレベータで擦れ違った時には、
すでに。
そう考えると、その後の展開がスムーズに理解できる。
彼と出会った翌日、急にわたしとあなたがサイパンからフェリーで発つことになった情報を、
ジェームズ・リーはどうしてか、
どういうルートかで手に入れた。
わたしとあなたの旅立ちを彼はこっそりと見送り、
あるいは誰かに跡を付けさせ確認させ、
わたしたちの後を追うように、目と鼻の先までのサイパンに、
6人乗りか7人乗りの可愛いセスナで狭い海峡をひとっ飛びした。
それから、あなたにあのレンタカーオフィスの車を使わうように仕向けたのよ」
「どういう風にして」
あまりに都合のいいように自説を展開する陽子に俺は尋ねた。
「あなたは、どうしてあのレンタカーオフィスを知ったの?
ガイドブックに載っていたから」彼女は詰問した。
「それもある。
でも、君がサイパン港のチャーリードックのチケット売り場で、
テニアンまでのフェリーの片道切符が二人分たった5ドルと喜び勇んだ。
もらったパンフレットにはホテルの外観とレンタカーオフィスが写って、
ニーナ2世と髭男がしっかりと微笑んでいた」
「考えてみれば、そうだった。
それで深く考えもせず、サラさんに言わせると20ドルも高い料金で、
ECHOを丸一日、24時間借りたって訳ね」
陽子はシニカルの微笑んだ。
「まあ、そういうことだ。
だってだよ。
例えばサイパンとテニアンは、東京と地方都市以上の差がある。
島の規模も違えば、ホテルの数も商品の数も情報量も人の数も格段に違う。
当然のように、サイパンにあったトヨタのレンタルオフィスはテニアンにはないし、
あれこれ調べるのも面倒で、時間もなかった。
てっとり早く、車が借りれて、あの時は君だって納得したはずだ」
「それは解るわ。
ただ、あのパンフレットはわたしとあなたと連れ出すために仕組まれた罠だったのよ。そうじゃない」
「かもしれない」俺は相槌を打った。
「そもそも、サイパンからテニアンまでのフェリーが片道二人分で5ドルなんて、怪しかった」
「君の言うと通りだよ。
そんな情報をどこで仕入れ、飛びついたんだよ」
「テニアンへ向かう2、3日前にはわたしのアパートにチラシがポスティングしてあった」
とうとう陽子は白状した。
「2、3日前に。
その時には、君とのテニアン行きはまだ決まっていなかった。
でも、俺はこの旅が始まる1年以上前から、
サイパンとテニアンの旅を計画していた。
でも、あくまで、一人切りで。
サイパンで君に出会って、二人とテニアンを訪れるなんて、
まったくの偶然の賜物だよ」
「あなたのテニアン渡航をジェームズ・リーは知っていた」
どうにも陽子は猟犬のようだ。
「そんなはずはない。
誰から聞いた。
もし仮にだよ、知っていたとして、
君の所より僕の滞在先のマイアミ・ビーチにポスティングしたほうが早かった。
だって、それまで君はこの島へ行きたいとは思ってはいても、
テニアン島へ渡ると決断したのは、
ジェームス・リーとエレベータ内で出会った当日なんだから」
「どうどう巡りで疲れたわ」
溜息交じりに陽子が言った。
「話しをチケット売場に戻そう。
どうにもぱっとしない、ほったて小屋のようなボックスに前に並んでいた人達や後ろの人たちはどうだった?
彼らはいくらでチケットを買った。
日本人は俺たち二人だけだった?」
少々間を置いて陽子が言った。
「列に並んでいたのは、前にも後ろにも騒々しい中国人と、
数名の韓国人。
たぶん、日本人はわたしとあなたの二人だけだったと想う。
でも、彼らがいくらでチケットを買ったかなんて知らないし、
想像もしなかった。
今にして思うと。
車で迎えに来てくれた田中さんに連れられ、ホテルに着いて、
電話でテニアン観光に誘われた後の2度目の電話がある前に、
せっかちなあなたは、すでにホテルの彼らのオフィスに電話をして、レンタカーの予約を済ませていた。
それを知ったジェームズ・リーは急いで手を打った。
翌朝、髭男にはわざとカードマシーンを忘れさせた。
本来はその場で契約と支払いが終わり、
わたしたちがそのままテニアンのドライブに行けるところを、
ボスと子分はわたしとあなたの二人を、
わざわざあのホテルのレンタカーオフィスまで引き寄せた。
そこで、待ち構えていたジェームズ・リーが受付前の通路にごく自然に何気なく姿を現し、
彼を待っていた髭男と話し込んだ。
あるいはそんなふりをした。
あなたが、まず彼を見つけた。
先手を打って、ジェームズ・リーと髭男はホテルから駐車場に向かい、
今度はわたしが彼に気付いて、あらかじめ用意していた、
この島では目立つミニ・クーパーでわたしたちに跡を付けさせたのよ。
それから、二人の探偵ごっごが始まった。
あなたとわたしが追い掛けているのを承知で、
まずジェームズ・リーはテニアンのメインストリートのブロードウェイを北上しツーリスト・インフォメーションに立ち寄った。
そこで、サイパンのカジュアルなファションからテニアンの目の前にいるヤッピー風なファッションに変えながらも、
二人が追っている、ジェームズ・リーだとはっきりと、
その存在を示した。
君たち、今からすぐ、俺の車に付いて来るんだよ。
そんな強烈なメッセージをわたしたちに与えたんだわ。
ミニ・クーパーはそのままブロードウェイをまっすぐ北に進み、
60年前の大空港で、今は持ち主の米軍にでさえ忘れ去られ萎びた4本の滑走路を持つ空港で模擬走行を繰り返した。
それにも飽きると、かつての日本軍の忘れ形見のような、
遺物のような、ミイラが眠る館の前で、アングラ劇団顔負けの、
臭い演技で手品のように衣装を変えた。
そこを発つと、サンホセに戻っての彼は海を見ながら佇み、
公園内のモニュメントでわたしたちを巻いて、日本統治時代の中心、
現在はダウンタウンの外れに位置する人通りの少ないポーカーハウスで、
わたしちが付けているを承知で、
ここでも見せつけるように、回転ドアから再度姿を現し、
車を飛ばして、あのホテルまで引き寄せた。
ミミさんによると、あれでも彼はかなりの資産家。
居場所ならどこにでもあるわ。
ホテルの部屋かもしれない。
別の場所かもしれない。
豪華なクルーザーかもしれない。
また、どうどう巡りよ」
一息つくと、陽子は遠くの海を見ていた。
「綺麗な海ね。
どこまでもどこまでも藍く、連なる波、地平線の彼方に、
わたしとあなたの愛する日本がある。
わたしたちが生を受け、家族の愛にはぐまれた、
かけがいのない祖国、日本があるのよ。
でも、ここで、この静かな島で、この美しい島で、
目の前の美しい海で、悲しいことに戦争があった。
日本とアメリカが太平洋という大きな海原の覇権を争って、
彼らは日本本土の防波堤となり、捨石となり、
大東亜という現実離れした概念のために、多くの尊い若者が命を落とした。
彼らの多くは今のわたしたちより、ずっと若く、しかも純なままに。
成人を迎えなかった人も少なくなく、世間も知らず、女も知らず、
青春も知らず、娯楽も贅沢も知らず、涙と悲しみしか知らなかった。
彼らの精一杯の頑張りにも拘わらず、
一年後、日本は歴史上最大の戦争に敗れ、
大日本帝国は解体し、まさしく一人の軍人も残らず、
千年近く続いた侍の時代も、これでまさしく本当に地上から消え去ってしまった。
その結果、志の欠片すらない数合わせだけの政治家と、
機能する事を忘れた、もやは遺物と化した天下りしか能のないキャリアが支配する官僚と安定が命のノンキャリアの二重構造の役人天国が日本列島を支配した。
儲けがすべての商人と人の顔色を窺うだけの小金持ちの町人国家に成り下がった。
支配者層を鏡に、生きことに無気力な若者や日々の生活にだけに追われる中高年、
死ぬに死ねない老人たちで溢れかえっている。
中田夫人が言うように、この島でお国のために命を投げ出した日本の兵隊さんは、
今の日本の実情を見て、街に溢れた茶髪だらけのばか者を見て、どう思うかしら。
彼らがかけがいのない自らの命を捨ててまで守ろうとした祖国日本の現状を見て、
どう感じるかしら。
彼らは泣き喚くかもしれない。
俺たちがやったことは、何一つ報われなかったと嘆きの涙を浮かべているかもしれない」
俺を代弁するような陽子の饒舌な語りは続いた。
「でも今となって彼らは、この海の下の海亀さんとなって、
極楽天国のような竜宮上で綺麗なお嫁さんをもらって、
幸せに暮らしているのですもの。
永遠の命となって。
海亀さんは朝が早いから、まだ眠っているのよ。
裏の崖下にも、サイパンのバンザイクリフのように、
たくさんのお墓が建てられている。
ねえ、何時間かすれば、車を返すんでしょう。
テニアンでの時間がもう一日残っているわけだし、
もう一日、延長しない。
お金はわたしが持つ。
オフィスの彼女にも会ってみたい。
わたしを襲った髭男のことも確認したい。
傷つけられたわたしの心と体が、たった半日の時間で取り戻せたとは思わないけど、
あの男の情報とともに、どうしもあの場所に戻らなければならない気がする。
どうなっているのか?
もう一度、あのポーカーハウス・クリスタルに寄ってみない。
わたしたち共有の友、ジェームズ・リーがいるかどうか、
彼に会えるかどうか、彼の居場所はともかくとして、
この島で、やり残したことがないと思えるよう、できるだけのことをやりましょうよ。
それがあなたとわたしを結ぶ絆な訳だし。
エディ・マーフィで思い出した。
確か彼は、映画、48時間の中で、オープンカーだったかしら、
スポーツカーを隠していたのよ」
彼女が語り終えたところで、
スポーツカーとは程遠いECHOまで進んで、
来た道を元に戻って走り始めた。
太陽を背にした復路も相変わらず、一台の車もなかった。
坂道を上り、道なりにカーブを右に曲がって、坂を下って、
信号待ちすると、正面に我々が向かう、ホテルが聳え立っていた。
赤から青となって、左に曲がり、ブロードウェイに出てると、
一気に視界が広がり、見渡す限りの海原と対照的に、
ビーチにはまだ人の姿はなかった。
そのままリトルナガサキのあるサンホセ目掛け、北に進んだ。
急ぐ必要がない牛のようにのんびり走る地元民のピックアップの対向車が1台、2台続いた。
スピードメーターは30マイル。
ガソリンスタンドを越えて、陽子の勧めもあって、
ウインカーを点滅させ、ローカルなレストラン前でエンジンを切った。
そこは、コンビニ全盛の日本ではほぼその姿を消したかに思われる、
太った地元のおばさんが仕切る、お袋の味の定食屋だった。
4人掛のテーブルがあってメニューが(日本語表記もあり)置いてあって、
壁にも同じくメニューの英語で並べられていた。
レトロな映画やドラマに出てくるような、
俺と陽子が生まれた当時の(年齢差にして約5歳あるのだが)
それ以前の日本の定食屋をそっくりそのままテニアンに移したと言っていいほどだった。
テニアンのお袋さんのメニューの中から二人で選んだのは、
よほどの変人かプロレスラーでもなければ、
通常の日本人の常識では、なかなか朝からはありえない選択肢ではある、
ステーキ定食を食べることだった。
それもテニアン牛特選とある。
陽子は昨日のホテルでの昼食で、ジェームズ・リーの見事なまでの食べっぷりと、
それを真似た俺に刺激され、
我々がこの島に滞在するのも丸一日と限られていることもあり、
日本統治時代より以前から受け継がれているはずのテニアンの選りすぐられたエリート牛からパワーを頂戴するためにも、
彼らの綺麗な朱肉色の肉を胃袋に詰め、消化することによって、
昨夜の事件のトラウマから脱却するためにも、
そうしなければと思ったようだ。
ドリンクとして、クリスタルカイザーのボトルを注文することを彼女は決して忘れはしなかった。
結論から言って、陽子と俺の胃の中に納まったテニアン牛は、
ホテルの24時間サービスのバイキング料理のステーキと比べても、
たいした違いはなかった。
親の世代を通り過ぎて、進駐軍世代の爺さん婆さん連中が言う、
草鞋のようにでかい血潮が滴ったような日本ではなかなかお目に掛かれなくなった赤肉のステーキを、
左手に持ったフォークでしっかり押さえ、
右手のナイフで力を込めて太い筋を省き、切り裂いて、
おばさんのサービスで貸してもらった割り箸で口元まで運んだ。
味は塩コショーのみのシンプルを絵に描いたようで、
一言でいって、大雑把。
これこそ、アメリカン。
陽子はミネラル・ウォーターのキャップを回した。
自分用のグラスにごくごく注ぎ、喉元に運んでは喉を洗う作業を繰り返し、
飲み干して、おばさんにそっくりな娘さんに空のペットボトルを振って見せ、2本を追加した。
支払いを現金で済ませ、席を立って、車の中で陽子が言った。
「あんな物を大量に食べ続けるジェームズ・リーの神経がまるで解らない」と。
ブロードウェイからホテルの敷地に入り、
昨夜、我々がこの場所から脱出した際には、
まだ駐められていたミニクーパーの勇姿は今朝になると、
あるべき場所のどこにもなかった。
どこかに場所を移したのでは、隠したのではないかと、
二人で手分けして、目の届く範囲の四方という四方を駐車場という駐車場を歩いて探し回ったが、
どこのどこにも彼のミニ・クーパーの姿は見当たらず、消え失せていた。
東から少しずつ南へ移った太陽は肌を刺すように、
灼熱へと変わり始めていた。
仕方なく諦めて、我々二人はエントランスからエレベーター前を通り、
通路を横に1メートルの間隔を取って平行に歩いて向かったレンタカーオフィスには、
ニーナ2世が一人きりで待っていた。
テーブル席の向こうの彼女は我々の顔を窺うと透かさず言った。
「おはようございます」日本語だった。
「あと1時間もすれば、あなたがたのホテルに伺って、
車をピックアップしようと思っていたのですが」
陽子が彼女の言葉を遮った。
「その必要はなくなったわ。
あの車をもう一日、延長してもらえるかしら。
支払いは今ここで、今度はわたしのカードにして」
「ええ、構いません」ニーナ2世はにっこり笑って余裕の表情を見せ「どこぞ、座ってください」
俺と陽子は昨日の午前に引き続いて、
彼女と向かい合わせるようにテーブルカウンターに並べられた肘掛のない背凭れの付いた椅子に腰を降ろした。
ニーナ2世を制するように、陽子はショルダーの黒いバッグから差しがね式のフックを外し、
財布を取り出しカードを引き抜き、
手に持ったまま、やや嫌味を込めてこう言った。
「ところで、あなたのパートナーの髭の彼は今、どこで何をしているのかしら?」
一瞬間を置いて、ニーナ2世は応えた。
「わたしのパートナーの髭の彼ですが、
今日は熱が出て、一日、休みを貰っています。
わたしが朝、オフィスに着いたと同時に彼の家族から電話がありました。
昨日の夜、急に突然具合が悪くなって、寝込んでいるそうです」
彼女の目に若干の曇りが浮かんだのを陽子は見逃さなかった。
カードを手に持ったまま、激しく睨んだ。
「そう、彼はご病気なのね。
ハンサムな彼にお目に掛かれず、とても残念。
彼にお会いすることが、今日のここに伺った目的の一つだったのに。
でも、どうしてかしら、わたしとフィアンセの彼は昨夜、
ある場所で元気なあなたの大事な髭の彼を見かけたのよ。
それ以後、急に具合が悪くなって、熱でも出たのかしら?」
「どこでお会いになりました?」ニーナ2世が尋ねた。
「ホテル内のある場所よ」意味深長に陽子が言った。
ニーナ2世の目が怪しく光った。
陽子はカードを弄び、掌で隠して、ニーナ2世を睨んだ。
「それでは、はっきりと言います。
ホテルのB2のポーカーハウス・クリスタルです。
わたしと彼はある人物を追って、昨日、陽が暮れるのを待ってその場所を訪れた。
残念なことに、ポーカーハウスはもぬけのからで、
その人はいなかった。
そればかりか、この夜集まったはずの紳士淑女の姿は誰一人見えず、宴の只中に、
地震などの天災が起きたのか、
ほんの今しがた逃げ出したような空気が辺りを包み込んで、
猫の子一匹いなかった。
何かの誘導だったのでしょうか?
突然、わたしの隣のフィアンセは室内の立派なシャンデリアと天井の埋め込まれた電球色に魅せられたみたいで、
ラスベガスのエンターテイナーになり切ったように、
「上を向いて歩こう」を歌いだした。
彼の歌声に合わせるようにして、
「上を向いて」というフレーズが何かの合図でもあったように、
触発されてなのか、あなたの隣いるはずの、
パートナーの髭男さんがカウンターテーブルの隅にある冷蔵庫の場所から飛び出して来て、
無謀にも、このわたしを襲った。
わたしは夢中で彼と戦った。
結果、赤いブリーフ一枚の髭男さんは、
疲れ果てた可愛いペニスを出したまま、その場に伸びていた」
ニーナ2世は昨夜のポーカーハウスで倒れた陽子のように、
口をあんぐりと空け、喉が渇ききっていたようで、
ミネラルウォーターを指し出してしまいたくなるほどの、
音が聞こえるほど唾を飲み込んで、咄嗟に応えた。
「あのポーカーハウスのクリスタルはホテル宿泊客専用の施設でして、
昨夜は緊急の用事が出来て、8時前には閉じられいたはずです」
相変わらず、陽子は彼女を見据えたままの厳しい口調だった。
「そうですか。
わたしと彼があの場所を訪れたのは、夜の8時前でした。
でも、どうしてなのか、こちらが知りたいくらいですが、
クリスタルのあの重たいドアは閉じられてなかった。
先程も言ったように、
繰り返しになって、しつこく思うでしょうけど、
それまでの社交場としての賑わいが突如として、
何かの意思がそうさせたとでも言うように、
時間を止めたようにまどろんでいた」
陽子の詰問にニーナ2世はしどろもどで応えた。
「わたしたちのような、このホテルで働く、ポーカーハウスとは直接関係のない人間は、
あの中に入ることはありません。
決してありません。
はっきりと会社や上司から禁止されているわけではありませんが、
髭の彼があの場所にいたとは考えられないのです。
何かの間違いではありませんか。
わたしは一度もポーカーハウスには行った事がありませんし、
B2のクリスタルに入った事がありません。
たぶん、髭の彼もわたしと同じだと思います。
このホテルの決まりでは、あなたがたのような宿泊客以外のお客様は、あそこに入れません。
昨日の午後、あなたがとエレベーターの同乗した時の、
ホテル内の24時間のバイキングレストランとは違います。
あそこはホテルの内外の人々に対してオープンですが、
クリスタルは違います。
ポーカーハウスの鍵が開いていたというのは何かの手違いだと思います。
でもなければ、あなたがたの・・・・・」
それだけ言うと彼女は席を立って、オフィスの内部に下がった。
数分の後、我々前に戻って時、その浅黒い顔がすっかり青ざめていた。
「あの赤いECHOをもう一日お借りになるのですね」
ニーナ2世はつとめて冷静に振舞おうとした。
「ええ、そうですよ」陽子は突き放すように言葉を続けた。
「丸一日、24時間借りたい。
今日はわたしのカードで支払うわ。
それで構わない?」
明らかに陽子は数分前にニーナ2世が言い放った言葉に神経が切れていた。
下を向いたまま、ニーナ2世は呟いた。
「はい。構いません。
カードをお願いします」
陽子は睨みつけて、掌に隠していた自分のカードをニーナ2世に渡した。
「保険は昨日と同じにしてね。
それから、他所ではここよりずっと安いそうね。
うちのホテルのフロントの女性があなたの所は20ドルも高いと教えてくれた。
平気でそれを使うわたしたちは日本人のお金持ちのカップルで、
このまま、わたしと彼が結婚したら、どうなるのかしらと、
嫌みを言った」
陽子は攻撃を続けた。
「ねえ、あなたもあの髭の彼と結婚するんでしょう」
ニーナ2世は黙っていたというより、陽子の挑発を無視していた。
「応えたくないのね。
お似合いだと思うけど。
それでね、わたしたちがこのレンタカーオフィスを知ったのは、
サイパンのチャーリードックのチケット売りで、
二人分片道5ドルのディスカウントチケットを手に入れ、
喜んだあまり、同時貰ったパンフレットにこのホテルとこのレンタカーオフィスが写っていたので、
彼が電話予約した。
あなた、それと何か関係しているの。
これよ。
あなた、フィアンセの髭さんと仲良く写っているでしょう」
バッグの中に仕舞っていた、
フィリピーナの若い男女が仲良く写ったパンフレットを、
ここぞとばかりに、まるで証拠品を見せしめるように、
陽子は取り出して、彼女に突き付けた。
ニーナ2世は記念写真の目を移すこともなく、
何事もなかったように、聴き流して、陽子にカードを返還した。
「ありがとうございます」そう言って彼女は書類を作成し続け、
プリントアウトして、目を合わせず、陽子に渡した。
「もう一日のドライブ、お気をつけて」
それだけ言って、もう一度、オフィスの奥に下がっていった。
彼女を追って奥まで行きかねない陽子の気持ちを鎮めるべく、
とりあえず、軽く陽子の右肩を2度触り、
パンフレットを握り締めたままの手を引いて、
この事務所から通路に連れ出すことに成功した。
ヒステリー気味な感情を抑えきれない陽子は走りながら、
「今からクリスタルに行こう」そう叫んだ時には、
手に持ったパンフレットでエレベーターのカーソルボタンの→を押していた。
ほんの僅かな移動時間に、小さな箱の中には、
頭上からか足元から特定できない、エアコンの冷気というより、
より人工的な寒さの流れが、どこからか入り込んでいた。
陽子は目を上に下に流して、「なにか気持ち悪くない」
それだけ言って、B2に着くと、奇妙な箱から飛び降りた。
彼女は小走りにポーカーハウス目掛けた。
後から続くと、クリスタルのドアに激しく体当たりする陽子の姿が目に入った。
「どうしも開かないのよ。
見てないで、あなたも体当たりしてよ」
陽子は叫んだ。
「今日はダメだ」
と諭してやると。
「あれから、誰かが戻ってきて、鍵を掛けた。
もしかして、彼女が知らせたのかもしれない」
昨日の夜に引き続いて、陽子は気が動転していたようで、
もう一度、俺にすがるように目配せしたあと、
ドアに体当たりして、反動で1メートル飛んで、
尻餅をついたまま、廊下にへたり込んだ。
「たぶん、彼女じゃないと思うんだ。
俺たちがクリスタルを去ってから今朝までの時間に、
誰かが髭男を片付け、鍵を掛けて、姿を消した。
それはジェームズ・リーかもしれないし、
まったくの第三者かもしれない。
現時点ではそこまでしか解らない」
「あなたはまるで気のな評論家のように、
まるで他人事のように言う。
どうして、そんなにゆったり構えていられるの。
わたしは、ここであの髭の男に殺されかけたのよ。
あなたが気分良く、上を向いて歩こうを歌っている間に」
陽子は涙を流していた。
はじめて見る彼女の涙だった。
今まで堪えていたものが一気に込み上げてきて、
涙を流すことによって、
オーバーヒートした車のように、
女性特有の器官が壊れたとでもいうように、
ヒステリー症状で熱くなった彼女の心と体をゆっくり平常値にまで押し下げているようだった。
陽子はそのまま仰向けになって、黙って泣き続けた。
目からは涙があふれ、嗚咽で唸り、鼻を鳴らし、
しばらくその場に寝転んでしまった。
こうした彼女を目のあたりにすると、
芯が強いでようで、やはり陽子も一人のうら若い女であると。
テニアン最後の一日は、陽子の心と体を回復させるために、
静かに過ごした。
せっかく一日レンタカーを延長したというのに、
ようやく泣き止んで、真っ赤に目を腫らした陽子を車に乗せ、
ホテルからリトルナガサキに連れ戻しただけで、
それから、陽子は日暮れまで眠り続けた。
お昼も食べずシャワーも浴びなかった。
下着も取替えなかった。
ミネラルウォーターを二口、三口飲み干しただけだった。
彼女が隣のベッドに横たわる間、
TVも付けず、俺はサイパンとテニアンに来て以来、
寝る前に少しずつ、毎日かかさず書いている日記を読み返し、
書けなかった部分には、思い返して、付け加えた。
2冊のガイドブックを開け、シャーペンで走り書きした所を読み返し、
書きなぐったメモ帳を開いた。
明日にはサイパンに戻らなければならない。
目覚めた陽子との相談になるが、彼女の体力的なこともあり、
今回はお金をケチらず、ジェームズ・リーのように、
空路でサイパンに向かうとしよう。
出来れば、明日の午後、早い時間にこの島を出たい。
まったく、このような形でテニアン島を離れるには偲びなかった。