8
3日目の朝、フロントで陽気にハミングするジョニーに声を掛け、
レンタカーの謝礼として、リンカーンの紙幣を渡した。
一瞬躊躇するかに見えた彼は微笑み、5ドルを受け取り、
「サンキュー」の後にアロハのポケットに入れた。
そのまま、籐椅子のベンチで二人で腰掛け、
ジョニーに煙草を差し出した。
「ミスター、サイパンでは煙草はとても高く、
何度も止めようとするのですが、
あなたのように、ただでくれる日本人がいて、
どうしても止められなくて困っています」
彼は苦笑いした。
「ジョニーは禁煙中という訳か?」
「禁煙?」
「煙草を止める、という意味だよ」
「そうですか、また一つ、新しい日本語を覚えました」
「煙草が欲しけらば、ガラパンのDFS(免税店)で買ってきてやるよ」
「いいえ、わたしは煙草を止めたいのです」
「解った」
飲み終えたコーヒーの紙コップをビニールのゴミ袋に投げ入れた。
「行ってらっしゃい、ミスター」
ジョニーの見送りを受け、ECHOに乗り込んだ。
ビーチロードに出ると、サングラス越しの日差しの向こうに、
高級リゾートホテルの比嘉マリの部屋から見えた艦船が静かな海に張り付いていた。
腕時計は午前10時15分。
2日目の昨日は、レンタカーで島最北端のバンザイクリフへ車を飛ばし、
慰霊塔を拝み、階段下のスロープから波の彼方に消えた御霊に礼を捧げた。
その帰り道、カラフルなショピングストアのレストランで、
陽子という若いウェイトレスと知り合い、
夜9時の待ち合わせを示し合わせ、ホテルに戻り、
もう一度バンザイクリフへ出掛けた。
そこで、比嘉カメ、ヨシミの親子と知り合い食事に招かれ、
彼女たちのホテルで、マリと言う娘に会った。
そこで、彼女の演説を聴く羽目になった。
そこから、再度北に向かい、ショッピングストアのタクシー乗り場の横で陽子を拾って、
アバンチュール下心有りの夜のドライブを楽しんだ。
結局、サブの勤め先と言ったガラパンの店先で彼女を降ろし、
マイアミ・ビーチに戻って一日を終えた。
DFSの前を青信号で通り過ぎて、
右車線の路肩横に車を停め、ECHOから身を乗り出し、
陽子が勤めるNEWYORKを探してみても、
昨夜の派手な黄色の看板の影すら発見できず、
再びシートに腰を埋めて車を発進させた。
ガラパンからビーチロードを経由して、北に向かうには、
この目障りなアメリカン・メモリアル・パークを右折する必要がある。
公園を横目に左折して、何度目かのアップダウンの繰り返した。
地図上ではミドルロードともマッピロードとも記されている、
眺めのいい交通量の少ないこの街道を一言で言えば気に入った。
陽子という若い日本の女を発見した、
ショッピングセンターへ車を進めて、駐車場に駐めた。
もちろん、昼前で腹が減っていた訳ではない。
コンクリートの階段を駆け上り、
陽子と出会った妙な看板文字のレストランの回転ドアを抜けた。
フィリピーナと想われる小柄な女が、「いらっしゃいませ」
日本語で声を掛けてきた。
「ねえ、陽子はいる?」俺は日本で尋ねた。
「陽子さんなら、4時に来ます」
「そう」
「お食事は?」
「彼女がいる時にまた来る。
陽子は9時までここで働くの?」
「はい。そうです」
「あなたのお名前はなんといいますか?」
「カズオだ」
「カズオさん、わたしはニーナです。
陽子さんと入れ替わりに、ここの仕事が終わります。
今度、わたしの時間にお願いします」
ニーナの笑窪とともに、俺はショッピングセンターを後にした。
街道に出てハンドルを北に切った。
腕時計の日付を見るとTHU、今日は木曜日か。
ということは、陽子はここの仕事が終わると、
夜のバイトはない。
海風が鳴り響いた。
そういえば、昨日見かけた新婚さんやカップルの姿は見えず、
俺は1時間ばかり海鳥の囀りと波の音に聴き惚れていた。
歴史を知らなければ、数多い石碑に目を向けなければ、
ここバンザイクリフに61年の年月や悲劇を感じさせるものはない。
レストランに入ったのは午後8時を回っていたと思う。
俺の顔を見るなり陽子はテーブル目掛け駆け込み、
昨日と同じく水が入ったコップをポンと置いた。
「ニーナに聞いたわ。
お昼前に来てくれたそうね」
「その通りだ。
君がいなかったので、何も食べず飲まず、そのまま店をスルーして車に戻った」
「あなた、わたしのことがよっぽど気になるようね、
もしかして、惚れてるの?」
「君はほとほと自惚れが強い女だね。
今日は君を口説きに来た訳じゃない。
食事をしに来た客のつもりだけど」
「あら、そうでした。
それではお客様、お決まりになったら、お呼び下さい」
そう言って陽子は下がった。
考える必用などなかった。
記憶している限り、メニューは昨日と変わらなかった。
店のインテリア、照明、接客態度、食事の味、すべてがBクラスだ。
こんな辺鄙な太平洋の孤島であっても、
目の前に巨大な日系ホテルはあり、
このショッピングセンター自体が系列施設のようで、
当然のように物好きな日本人観光客はやって来る。
現地人の姿もちらほらと見える。
カウンターの横で澄ましていた陽子を呼び、
俺は昨日と同じ料理を告げた。
端末操作を終えた彼女は言った。
「以上でよろしでしょうか?」
「食後にコーヒーをお願い」
「解りました」
見上げた彼女に手書きのメモを渡すと、
薄ピンクの制服の陽子は再度端末にペンタッチした。
陽子がタクシー乗り場の脇に現れたのはやはり9時を少し回っていた。
Tシャツを黄色に、ホットパンツを黒、サンダル仕掛けのハイヒールを赤に変えたサングラスの彼女はスタスタと近寄ってくる様は、 まるで昨夜の再現のようだった。
「お待ちどうさま、カズオさん。
お昼前に来て、ニーナを誘ったの?」
助手席に腰を下ろした陽子は、再び蒸し返した。
「いや、フィリーピーナの娘は可愛かったけど君ほどではないさ。
そのニーナが陽子さんは4時に来て9時まで働きます。
そう、教えてくれたので、君を迎えに来たのさ」
「ニーナから聞いたわ」
「今夜のバイトは休みだったよね」
「ええ、そうよ。
それで、今日は一日何をしてたの?」
「昼前にニーナに会って、またバンザイクリフに行った。
スーサイドクリフ、マッピ山、バードアイランドを経て、
引き返し、マッピロードを下って、クロスアイランドロードに出ると、意外に交通量のある、カーブの多い起伏に富んだ道だった。
うっかりして、見晴らしの良い絶景ポイントのサイパン最高峰タポチョ山に立ち寄るのを忘れ、空港の近くで迷ってしまった。
そのまま北に向かって走いくと、知らずのうちにビーチロードに出て、ホテルに戻り、今日もまた一眠り」
「まあ、サイパン島内一周ドライブご苦労様」
陽子のシニカルな台詞を聞き流し、客待ちタクシーを脇目に、
サイパン北部のカラフルなエリアから、南へハンドルを切った。
「尋くのを忘れていたけど、
あなたはどこのホテルに泊まっているの?」
「マイアミ・ビーチだよ」
「へえ、そうなの。
ガラパンの外れの、椰子の木が植わっている」
「ああ、そうだよ。
マイアミ・ビーチは有名なホテルなの?」
「そうでもない、Bクラスよ。
でも、わたしもそこに泊っていたの」
「そうなんだ。妙な所で繋がっているね」
「あなたの部屋は何階?」
「1階の 102」
「蟻が出て、冷蔵庫がない部屋でしょう?」
「その通り」
「わたしもあの部屋で3日間辛抱したのよ。
フロントに言って、部屋が空いたら、すぐに3階に代えてもらいなさい。
冷蔵庫も付いて、蟻もいない、同じお金を払って別世界だから」
「解った、ジョニーに相談してみる」
「彼、まだいるの?」
「知り合い?」
「まあ、ね」
陽子もマイアミ・ビーチに泊っていた。
これもただの奇遇ではなさそうだ。
「それで、わたしをどこに連れて行くの?」
「当てはないよ」
「そう!」
「そうさ、この島に着いてまだほん3日目な訳だし」
「でも、ここは狭い島よ。
今日、あなたが1日車でぐるっと回ったように、
それでサイパンの一通りは見てしまった。
それ以上のことは何もないわ」
「あなた、ダイビングはやるの?」
「やらない」
「サーフィンは?」
「やらない」
「釣りは?」
「やらない」
「ゴルフは?」
「やらない」
「一人旅でしょう?」
「ああ!」
「何しにこの島に来たの?」
「君に会うためだよ」
「ふーん、冗談がキツイわね」
陽子はサングラスを外し、大きな目で見つめた。
「それじゃ、何の目的もなしに、この島にぶらりとやって来たの?」
「いや、目的は一つだけあった」
「それは何?」陽子が再度見つめた。
「バンザイクリフを見ることさ」
「わたしも高校2年の時、家族旅行で初めてサイパンに来た時、
パパが借りたレンタカーであの断崖絶壁に行った。
何故だと思う?」
「島で一番の眺めを見たかった?」
「あなたって鈍いのね。日本で何をやっている人?」
「これでも、業界人の端くれのつもりだよ」
「何の業界なの?」
「出版関係さ」
「へえ、そうなの。
それじゃ、その昔、あのバン ザイクリフで何が行われたか当然のように知っているのね」
「まあ、少しは」
「わたしのおじいさんはあの崖から身を投げて自ら命を絶った。
だから、わたしたち家族はその弔いにバンザイクリフを訪ねた。
パパのお父さんが亡くなった場所で誓いを立てた」
「これは偶然だね」
「何が?」
「俺はバンザイクリフについて何か書きたくて、
それでこの島にやって来たんだ」
「あなたって、作家なの?」
「いや」
「だって、たった今、そう言ったじゃない」
「出版関係者と言っただけで、作家とは言っていない。
これから書くための取材を兼ねてこの島を訪れたのさ」
「そうなの」
「そういうことさ」
「どうして、今君はこのサイパンで働いているの?」
「目的はあなたと同じよ」
「そうか、二人は同士。
見えない糸で結ばれているという訳だ」
「次の角を左に曲がって」
「え!」
思わず、俺は声を上げた。
彼女との話しに夢中になって、
いつの間にかアメリカン・メモリアル・パークを通過し、
ガラパンの街に入っていた。
「そこよ、信号を左に曲がって」
俺は不慣れな右側通行の道路の左車線にECHOを寄せ、
反時計周りにハンドルを切り、街道から路地に入ると、
「今度は右に曲がって」
彼女の指示に従い、俺は古いビルの前に車を停めた。
「よかったら上がって行かない?」
陽子は俺を誘っているのか?
「ここが君が部屋なの?」
「ええ、そうよ」
「君さえ、よければお邪魔するよ」
「ただ、エッチはだめよ。
約束してくれる。わたしとあなたは同士でしょう。
バンザイクリフの絆で繋がる二人に男と女の関係は必要ない」
「どこに車を駐めたらいい?」
「そこの椰子の木と南洋桜の間のスペースに駐めておいて」
「南洋桜?」
「そうよ。
知らないの?
南洋桜は戦前戦中にサイパンに移住した日本人が故郷の日本を懐かしんで付けた名前よ」
陽子には悪いが、車のライトに照らされたその南洋木は、
オレンジ色の花を付け、御世辞にも桜には見えなかった。
ハンドルを右に切って進み、ギアをRに入れて左にハンドルを戻し、
エンジンを切り、陽子が言う通りに椰子の木と南洋桜のデッドスペースにECHOを駐めた。
彼女に続いて入った建物は、薄い暗い外灯に照らされた古いコンクリートの打ちっぱなし。
エレベーターは故障中のようで、
先導する陽子と俺の足音が外階段に響いた。
彼女が差し込んだドアキーを回し、
案内された部屋は、アパートというよりむしろ、
マイアミ・ビーチをぼろくした、長期滞在者向けのホテルに近かった。
部屋に入るなり、陽子が言った。
「靴を脱いで」
「解った」
「何か飲む?」
「水でいいよ」
「変な人?」
「そうかな?」
「普通、日本人はビールとかいうでしょう」
「世の中で一番美味いものは水、この島に来て2日にして、
そのことを実感したよ」
「それは新しい発見ね。椅子がないから適当に座ってよ」
狭いシングルルームのベッド横のガラス細工のテーブルの前で、
俺は胡坐をかいた。
陽子が古いサンヨーの冷蔵庫から取りだしたのは、
クリスタルガイザー。
ここでも、彼女とは不思議な縁で結ばれているかのようだ。
彼女がグラスに注いだミネラルウォーターを二口飲み、
長い長い話しを切り出したのは、この直後のことだった。
彼女が生まれたは1980年代初頭の神戸で、この春に関西の大学卒業をしたばかり。
ということは、今年で22か23ということになり、
実齢よりずっと若く見え、見方によっては、充分に高校生でも通用する。
「ねえ、去年の暮れに、インドネシアのスマトラ沖で地震があったのを覚えている?」
「ああ。覚えてる。
はっきりと覚えているよ。
あの日、俺はお台場のシネコンで映画を観ていた。
黒人が出てくる刑事物だ、いや違った。
アメリカの元CIAが雇われ先のメキシコで、
自分に心を許した女の子を救い出すそんな映画だった」
「ねえ、それって。
『マイ・ボディガード』でしょう。
わたしも神戸で観たのよ。
久しぶりに思い出の神戸の街を歩いて、
わたしたち家族が暮らした家に行ってみた。
借地だった土地には別の家が建ち、
新しい家族連れの声が通りまで聴こえてきそうで、
わたしは何だかブルーな気分になった。
それで当てもなく、繁華街に出て目に留まった映画を観たの。
映画が終わって街頭のテレビモニターの映像で地震を知った。
スマトラ沖の惨状を知ったの神戸の街だったとは。
映画を観た次の日に、わたしは2度目のサイパンにやって来た」
「へえ、君もあの映画を観たのか。
これで俺と君が摩訶不思議な魔力で繋がっていることがますます証明できた訳だ。
映画はどうだった?」
「まあまあね。
っていうか、観たくて観た映画じゃないわ」
「俺は結構好きな映画だった。
没落した家を再興させた成り上がりが一人娘を名門校に通わせ、
ボディガードを付けベンツで送り迎いさせながらも、
金に息詰まり、大事な娘を貧しいメキシカンの誘拐犯に売り、
その時、犯人との撃ち合いで負傷したボディガードが、
CIA時代の悲惨なトラウマに苛まれながらも、
最後には自分が身代わりになって、娘を救いだす。
感動的じゃないか」
「ねえ、あなた、映画評も書いてるの?」
「いや。誰だったかな?」
「誰?」
「そうだ。ブレードランナーの悪役が出てたろう?」
「誰のこと?」
「オランダ人だよ。
映画の冒頭でノイジーなサウンドに乗って無機質な都市の映像の後に田園風景が広がり、
黒人がボディーガードのエージェントと車に乗って雇い主の所に行くだろう。
そう、ボディーガードのエージェントの人間だ。
思い出した、その男の名前はルドガー・ハウアー。
ブレードランナーの監督はリドリー・スコット。
彼は、マイ・ボディカード監督のトニー・スコットの実兄なんだ。
スコット兄弟繋がりだ。
君は、リドリー・スコットが大阪を描いたブラックレインって観たことある?」
「わたしが高校生の頃だった。
外国人の映画監督が、当時も今も住んでいる大阪をどういう風に、
映しているか気になって、レンタルビデオで観てみたわ」
「そうなんだ。
それで彼が描いた大阪の街は、地元の人間の目にどう映った?」
「ヤクザの抗争は解からなかったけど、
実際の大阪よりずっと綺麗に描いてあった」
「確かに映像は綺麗だった。
俺は田舎の映画館で観たんだ」
「あなたって、マニアなのね」
「そうでもない」
「でも、『マイ・ボディガード』のお陰で、
あなたは、スマトラ沖の地震を覚えているの?」
「そうじゃない。
その日俺は、映画を観終り、トイレで手を洗う際に外した時計を忘れた。
いつもの癖で革ベルトが濡れるのがいやで、備え付けの水石鹸を掌に浸す前に、
外した時計を横に置いたんだと想う。
トイレから出て、すぐ横のベンチに座ってタバコを吸い終わり、
時間を確認しようと、左手首を差し出した。
すると、緑の革バンドの腕時計が消えていた。
すぐにトイレに駆け込んだ。
今しがた、手を洗ったばかりの洗面台に、俺の使い込んだ腕時計はなく、トイレの中をあっちこっちと、
30分ばかり探しまわり、
それでも諦めきれず、映画館の受付で、こういう者ですが。
『トイレで時計の落し物はありませんでしたか?』
『ありません』
フリーターのような茶髪の店員は愛想なかった。
まあ、アメリカのシネコンに期待しても、しょうがないけど。
『そうですか。
それでは、もし緑の革バンドの年代物の腕時計が見つかったら、
携帯へお電話してもらえますか?』
『ええ。お電話しますよ』」
「それで、どうなったの?」
「音沙汰さしさ。
俺はそれから、年が明けて1週間ごとに電話を入れ、
月に1度の割りで、そのお台場のシネコンで映画を観るたび、
緑の革バンドの年代物の腕時計は・・・・・を繰り返した」
「その腕時計はそんなに高価なの?」
「いや、大したことないよ。
ただ、親父の形見ということだけだ。
ベルトは、古臭い伸び縮みする奴で、
しかたなく革のベルトに替えた。
革ベルトの持ちは悪く、何度もベルトだけは代えた。
かれこれ、10年は使ってきた」
「それで、はっきりと覚えているのね」
「ああ! そうだよ。
君にとってのスマトラ沖の地震は、どうだった?」
「スマトラには直接関係ないの。
ただ、わたしは10年前の神戸の地震の時、
パパのお兄さんである伯父さんの葬儀で鹿児島に行ったお陰に難を免れた。
もし、伯父さんが亡くならなかったら、
わたしたち家族は全員死んでいたかもしれない。
だって神戸に戻ったら、家は跡形も無くなくなっていた。
パパは二人兄弟の次男で、わたしから言えば伯父さんになる、
お兄さんに事実上、育てられた。
今、二人兄弟と言ったでしょう。
本当は六人兄弟、叔父さんが一番上の長男で、
残りの四人が女なんだけど、その内二人が死に、
残りの二人はおばあさんが再婚して、嫁ぎ先に連れて行った。
男の兄弟は向こうで引き取れないと言ったのか、
おじいさん死後の家を守るためなのか、
わたしもよく知らないけど、置いていかれた訳ね。
とにかくパパは、伯父さんと曾おばあさんの三人で、
鹿児島の田舎の高校を卒業するまで、そこで暮らしたのよ」
「鹿児島といえば、サイパンに深夜着いた当日、
マイアミビーチのベッドで数時間を過ごした後、
シャトルバスで寄ったパレット積みのディスカウントショップで、
鹿児島からの親子に会った」
「そう」陽子は妙な相槌を打った。
「何でもそのお母さんのおじいさんが戦争でサイパンで亡くなって、
今回、何度目かの慰霊の旅に来たそうだ」
「そう」
その時、陽子の顔にチラリと影が写ったのは気のせいだったろうか。
「それから、昨日の昼、君と店で会った後ホテルに戻り、
再びバンザイクリフに行った。
そこで、旦那さんとお父さんをバンザイクリフで亡くした、
おばあさんと娘さんに出会った。
車椅子のおばあさんをミニバンに乗せるのを手伝ったお礼に、
食事に誘われた。
ガラパンのリゾートホテルで君より少し若くてスタイルの良い、
モデルの孫娘に会い、彼女の演説を聴かされたんだよ」
「ねえ、あなたは、そのモデルさんとお友達になったの?
今日、彼女を誘えばよかったんじゃない」
「いや、そんな仲じゃないんだ」
「そうなの。わたしのほうが、あなたにお似合いなわけね」
自信満々の陽子は俺を見下げて言った。
何だか気まずい気分になって黙っていたら、
都合よく、陽子が話し始めた。
「わたしが神戸の街に戻って来たのが、
阪神淡路大震発生から約1ヶ月経った、2月の半ばだった。
わたしは当時小学校6年生で家族は両親と4つ上の兄。
家が潰れてしまったもんだから、家族揃って小学校の体育館で2ヶ月暮らしたわ。
その間に、小学校を卒業、中学校に入学し、
パパがコネで見つけた大阪のマンションに越して、
入学したばかりの中学を仕方なく転校した。
それ以来、わたしは大阪に住んでいる」
こちらとしても、気転を利かせて、話題を繋げた。
「君が住む大阪の街だけど、
中学卒業して高校入学までの春休みに、
リドリー・スコットのブラックレインの映像が気になって、
映画の舞台になった大阪まで青春18切符で行った。
親に内緒の一人旅で少し心細かったけど、
今から思えば、いい思い出だ。
東京経由で鈍行に乗り、大垣行きだったかな。
今でも尻の痛みを覚えている。
夜明け前、名古屋の手前の駅で、しばらく停車している間、
寝惚け眼でぼんやりしてると、
一人の外人がトイレに立ち、狭い通路に足を取られたのか、
よろめいて、彼の長い手が俺の肩に当たった。
それから、妙に目が冴えてしょうがなかった。
彼は斜め前のボックスに陣取る4人連れのスウェーデン人の学生で、
大男大女揃いの旅行客だった。
それから彼らと親しくなり、一緒に大垣で乗り換え京都で降りた。
1年前の5月、中3の修学旅行でにわかじこみの古都を1日案内し、えらく感謝されたのを覚えている。
京都で同じ安宿に一泊し、奈良で彼らと別れた。
一人電車で大阪に入って、難波の公園で休んでいると、
変な二十歳くらいのアベックに声を掛けられた。
『にいちゃん、タコ焼き食べたいから、千円貸してくれ』って。
俺より小柄な奴だったし、
『嫌だ』と応えたら、『ケチ』と、男がほざきやがった。
連れのヤンキーな女も眼を飛ばすし、
「現実の大阪の街に失望したよ」
「それ、メンチを切るって、言うの」と、陽子が関西弁の説明をした。
「メンチを切る?」
「眼を飛ばすことよ」
陽子のメンチ談義の後、俺はジョニーのライターでキャメルに火を付けようした。
「止めてよ、この部屋は禁煙なの。それで安く借りてるんだから」
「そうなんだ。ここは禁煙ルームって訳か。
それで、いくらで借りてるの?」
「週に85ドルよ」
なにぶんサイパンの家賃相場で安いのか高いのか解らなかった。
「ところで、ここはアパートなの?」
「プチホテルを改造してフラットにしたらしい」
「ねえ、ここの経営者は日本人?」
「違う、中国人らしい」
「おっさん?」
「中年の一人者らしいけど」
「会ったことはある?」
「一度も見たことない。
世捨て人らしい」まるで他人事のような陽子。
「先月、中国で反日デモがやけに盛り上がっていたのを知ってるよね。
サイパンの中国人はどうだった?」
「新参者のわたしの個人的な印象は、この島には中国人より、
どちらかといえば、韓国人のほうが多い気がする。
観光客に限っては、日本人が多いかな」
「それじゃ、中国人の大家に文句をつけられなかった?」
「ない。
わたしは、エージェントを通しているし、
オーナーの影も見えない」
「それなら、よかったな。
日本での中国報道に俺はだいぶ切れ掛かっていたから。
あの暴動は中国政府、中国共産党の完全なるやらせだろう。
中国国内のデカすぎる矛盾を国外に向けさせるために、
日本が出汁に使われただけだ。
日本で連日連夜、新聞、テレビが面白可笑しく報道合戦を繰り広げていたが、
あんな中国人の馬鹿どもは無視するに限る。
第一、日中友好なんて、いつも日本政府が土下座し、
それを見た中国がもっともっと高圧的な態度に出る。
まあ、闇金のたかりの類いとみて間違いない。
金貸しも弱みを見せた奴には、
執拗に攻勢を仕掛け、金を取り立てるようとするだろう。
その構図がすっぽりと日中間に当てはまる。
中国人てのは、日本人より遙かにしたたかだし、
外交交渉に長けている。
彼らにとっては、日本国内の親中国の官僚、
巨大メディア・通信社、文化人、学識経験者なんて、涎が出るほど美味しい存在だろうね。
この前、東京の部屋のテレビを観ていて気付いた。
いつまでも中国景気の蜃気楼が続くと思っている財界の爺さん、
エコノミストやらが顰面でテレビマイクで語るのさ。
『世界中に唯一残された巨大市場中国の景気を傾かせるようなことだけは、
是非とも避けなければならない。
首相も靖国神社参拝や国連の常任理事国入りの発言等、
もっと慎まなければ、ならいない』
どこかで聞いた台詞だと思って聞いていたら、
香港や広東で大々的にスーパーマーケットの事業展開で一時、
時の人と言われた爺さんがいた。
俺はこのジジイをある二流の経済誌というより、
会員制で売りつけるタカリのような小雑誌を見て知っていたが、
どうも見ても、このジジイの顔が中国人そのものなんだ。
あういう風に中国に憑依されると、
似非メンタリティーはおろか、顔まで中国人化すると興味深く見ていた。
案の上、すべての店をぶっ潰し、金融機関、取引先をはじめ多大な被害を与えたにも拘わらず、
そのジジイは日本でのうのうと暮らしてやがる。
日本の片隅に身を寄せながらも、凝りもせず、
中国のロマンを、中国投資への夢、ベンチャーの未来、
若者は1度や2度の失敗にくよくよせず、
どんどんチャレンジすべきだと語るノータリンの爺さんのビデオを知人に見せてもらった時、
財界の爺さんやエコノミスト、
親中国の官僚、巨大メディア・通信社、文化人、
学識経験者がまるで同一人物だと思った」
「ねえ、あなたって、右翼なの?」
「ただの愛国者に過ぎない」
「そう、それならわたしも同意するわ」
間の持てなくなった俺はリモコンでTVの電源をONにして、
メジャーリーグ・ダイジェストに合わせ、こう切り出した。
「話しは変わるけど、君は関西人にしては、ほとんど訛りがないね」
「そうでしょう。
わたしは関西を出ると自然に標準語が話させるの。
これ、わたしの特技よ」
「君は東京に住んだことあるの?」
陽子は一呼吸置いて、
「ないわ。
でも、去年、就職活動で、度々東京に行った。
その時、わたしの特技が活きた」
「君は就職しようとしたのか?」
「ええ、そうよ。
これでも、某大手商社の内定をもらったわ」
「それで、商社の仕事でサイパンに?」
「また、キツイ冗談ね。
わたしは、内定を蹴ってこの島にやって来た」
「そこまでして、サイパンにいる理由がある?」
「わたしにはね・・・・・
ところで、さっき言ったあなたの田舎ってどこ?」
思い出したように陽子が尋いた。
「関東」
「関東のどこ?」関西人の陽子は突っ込みを入れる。
「北関東、今は東京に住んでいる」
「ふーん、そうなの」
「君は初対面の人間に対し、
自分の内面や家庭の話しをベラベラ喋る女だね」
「あなただって、そうじゃない。
それに、初対面じゃないわ」
「ああ、そうだった。
言われてみれば、昨日、君の店が初対面だった」
「そうよ。
昨日と今日、2度もお店に来てくれて、どうも有り難うござました」
「いいえ。どういたしまして」
「あなたが、お父さんの形見の腕時計を失くしたと言って、
わたしは釣られて話した」
「俺が切り出した」
「絶対にそうよ」
「でも、スマトラで地震があった時、君はサイパンにいたんだね」
「あなたって、人の話しをまったく聞かない人ね。
ほんの30分前に言ったばかりよ。
12月26日、スマトラで大地震があった日、
わたしは神戸の三宮で映画を観ていたの。
それもあなたと同じ映画の『マイ・ボディガード』
あなたがお父さんさんの形見の腕時計を失くしたのと同じ日よ。
次の日、わたしは2度目のサイパンにやって来た。
大学の卒業旅行にサイパンを選び、年末年始の2週間をここ過ごした。
3月に無事大学を卒業して、この島への3度目の訪問を果たした。
人の話しは最後までしっかりと聞きなさい」
「そうか。
それじゃ、君はもう1ヶ月以上、
この島に暮らしていることになるのか?」
「ええ、そうよ。
はじめはあなたと同じ、『マイアミ・ビーチ』にいたと言ったでしょう」
「そうか、その時、『102』にいたのか」
「その通りよ。
あそこを抜け出し、今この部屋を借りている。
この部屋の後釜はあなたかしら?」
「面白いジョークだね。
それにしても、大学を卒業して、大手商社の内定を捨て、
君は南の島でいい御身分なこと」
「あなたって、デリカシーがない人ね。
わたしがどこで何をしようが、見ず知らずのあなたに関係がないでしょう」
「それはそうだ」
「ところで、あなたはいつまでサイパンにいるの?」
「まだ決めていない。金と時間が持つまでかな」
「いい御身分なのはあなたのほうよ」
「君はいつまで?」
「わたしはできる限り長く。
あなた、ノービザでサイパンに来たでしょう?」
「当たり前だろう」
「君は?」
「わたしも、そうよ」
「それじゃ、そんなに長くいられないだろう」
「そうよ。
30日が限界で、一度入管に申請に行って、また30日伸ばしてもらった」
「観光ビザで働けるの?」
「働けるわ。もちろん、モグリでよ。
それでわたしは、なんとかコネを付け、
就労ビザを手に入れようとしているの」
「それって、東南アジアの出稼ぎっぽくないか?」
「入らぬ世話。
でも正直に言うと、そうかもしれない」
「話しに聞いたけど、
中国人が工場を建て、国から人民を呼んで、
特別なビザを工面して働かせているそうじゃないか。
あぶれた奴らが、マッサージやピンサロの風俗に堕ちて行くんだろう。
俺もサイパンに来てそうそう、夜のガラパンで変な中国女に、
『お兄さん、バイアグラはいりませんか?
女の子を紹介します』
サンドイッチみたいに挟まれたんだ」
「それで、あなたは彼女たちのお世話になったの?」
「冗談じゃない。
俺は中国人が大嫌いなんだ」
「そう、それはよかった。
わたしも、彼女たちが目障りでしょうがない」
「そうだろう。
だから、日本人の若い娘がこんな島で苦労することはない。
日本で働いてまたサイパンに遊びにくればいいのさ」
「あなたって、典型的な日本人ね」
「どういう意味?」
「ねえ、もう遅いから帰ってくれない。
明日休みだから。
あなたに1日付き合ってあげる。
10時に車で迎えに来て。
それから、携帯の番号教えてよ」
「日本から持ってきてないよ」
「あなたって、やっぱり馬鹿ね。
こっちで借りれば済むことよ。
教えてあげるから、ここに行きなさい」
わたしのはこれ」
陽子が渡したメモの切れ端をジーンズのポケットに突っ込んだ。
「解った、明日の朝10時に。それじゃ、バイバイ」
「うん、お休みなさい」
陽子の部屋のドアを抜け、階段伝いに1階まで歩いて降りた。
少しも桜に見えない南洋桜と椰子の木の間に駐めたECHOのシートに腰を下ろした。