バンザイクリフ1 5 | ブログ連載小説・幸田回生

ブログ連載小説・幸田回生

読み切りの小説を連載にしてみました。

よろしかった、読んでみてください。

 5

 

 バンザイクリフまで来た道を後戻り、
 数カ所のホテル群を脇目に緩やかにハンドルを切った。
 


 

 車以外の交通手段がない、小さな島のサイパンとはいえ、
 夕方になると、部分的に交通渋滞が発生する。



 

 娘さんが運転する白いTOYOTAのミニバンの後からECHOで続くと、

 左手に動物園の小さな看板を見つけたと同時に、
 車が連なる左折ラインの隙間から、ドライブコースの下見として、

 ガイドブックのコピーに赤いアンダーラインをチェックを入れた、 

 クロスアイランドロードが見えた。
 


 

 おばあさんを乗せたミニバンは直進し、次の信号を右に曲がり、
 アメリカン・メモリアル・パークを横目にまっすぐに走り抜けた。
 ミニバンが左に曲がって辿り着いたのは、
 見覚えのあるリゾートホテルだった。

 宿泊客専用のパーキングでミニバンの隣に連ねてECHOを駐めた。



 

 娘さんが一足先に車から降りてハッチドアを開けて、
 おばあさんの車椅子を取り出した。
 俺は娘さんと二人でおばさんを担ぎ上げて車椅子に移動させ、
 娘さんがホテルの正面玄関まで押し進めた。




 

 観光バスが戻り、日本人客を吐き出していた。
 現地の作業員は頭を下げ、バスを誘導し、庭先の清掃とゴミの片付け、

 昨日の同じ作業を繰り返していた。
 その一方、シャトルバスから降りた、一目で解る日本人アベックの一行は両手に土産用のビニール手提げを従え、意気揚々と引き上げてくる。
 



 

 車椅子の操作に手馴れた娘さんの後から、
 フロントのアロハの日本女性を尻目にエレベーターに乗り込むと、
 三人切りの個室はぐんぐん昇ってゆく。
 狭い室内空間を無言で過ごし、所定の階数でドアが開いた。
 俺はスイッチのOPENのボタンを長押した。




 

 娘さんが目で合図を送り、おばあさんの車椅子を押して、
 一足先にエレベーターから廊下の角を曲がった。
 俺はその後に続いた。



 

 ドアにカードキーを差し込むと同時に、
「マリはもう帰っているかしら?」と、娘さんが言った。
 おばあさんは幾分当惑した表情を浮かべ、
 車椅子ごと娘さんと部屋に入っていった。




 

「おばあちゃん、遅かったね。
 わたし、楽しみにしていたダイビングを早く切り上げ、
 1時間も待っていたのよ。
 シャワーを浴びて、暇で英語のつまらないTVを観てたら、
 急に沖縄を思い出して。
 ねえ、この方は?」孫らしき若い娘が無造作に言った。



 

「バンザイクリフでおばあちゃんの車椅子を手伝って下さったの。
 これをご縁に今晩のお食事にお誘いしたわ」
 娘さんの言葉に、


 

「うーん、そう」とつれない返事のマリという孫娘は、
 どこか小生意気で、いかにも沖縄の人に見える祖母、母親と違って、本土風の顔立ちをしていた。



 

 椅子から立ち上ると、スラリとした長身でショートパンツから伸びた長い足、

 長い黒髪、サイパンで陽に焼けたようで、
 人を射抜くような強い瞳に、左腕の高級時計とピアスの金が光った。
 彼女はすぐに車椅子のおばあさんを海の見える窓際に引き寄せた。
 



 

「それで、お名前は何と仰るのですか?」俺の顔から足先まで見下ろすように、孫娘は言った。
「安田です」ただ、そう応えた。




 

「わたしは、比嘉マリ。
 現在、東京でモデルをしています。
 1週間、休みが取れたので、母と祖母を東京に呼んで、
 それから、サイパンに来ました。
 わたし、撮影でハワイ、グァム、バリ、セブ、プーケット、
 いろんな島に行ったけど、サイパンは初めてです。
 あなたは?」



 

 孫娘はこちらの顔色を窺うように尋ねた。



 

「ええ、同じく初めてです」俺は正直に応えた。




 

「サイパンは沖縄を田舎にしたようで、
 沖縄本島というより、むしろ石垣島。
 お母さん、食事の予約はしてあるの?」



 

「ええ。一休みして、出掛けることにしましょう」




 

 マリがリモコンでNHKの衛星にチャンネルを変えると、
 大相撲の中継が映し出されていた。
 おばあさんは大の相撲好きのようで、
 車椅子から身を乗り出さんばかりにTVに観入った。




 

 横綱・朝青龍が日本人力士をいとも簡単に破り、
 気合の入った表情で左手で手刀を切り厚い懸賞金を受け、
 意気揚々と引き上げる様を見て、それまでの噤んだ口が嘘のように、語り始めた。




 

「モンゴルは強いね。
 いつから日本人はダメになったのかね。
 空威張りばかりしていた日本人は、サイパンでアメリカにやられ、 

 本土決戦どろこか帝都東京が空襲でやられ、
 わたしたちが知らぬ間に故郷の沖縄が攻め落とされた。
 最期の最期に広島長崎に原爆を落とされて、
 白旗を揚げ、日本はキンタマを取られた。




 

 わたしは、沖縄で生まれ育ち、おじいちゃんと結婚し、
 サイパンに渡り、さとうきびを作り、楽しく暮らしていた。
 それなのに、アメリカと日本のとんだ戦争に巻き込まれ、
 大切なおじいちゃんを亡くした上、わたしだけが逃げ切れず、
 米軍の日本人収容所に入れられて、そこでヨシミを産んだだろう。
 お腹にお前がいなかったら、
 わたしは大好きだったおじいちゃんの元にいっていたと思う。





 

 命からがら帰って来た沖縄は、サイパンのようにアメリカの占領地に成り果てていた。
 それが30年近く続いて、本土に返還されたはいいが、
 それは単なる言葉の綾、日本軍と同じく建前だけで、
 まだまだアメリカ軍の占領は続いている。
 お相撲だけじゃなく、モンゴルが強いのは今にはじまったことじゃない。
 まだ琉球に薩摩がやって来なかった昔、モンゴルは日本を攻めた。




 

 それは博多の海だった。

 当時、モンゴルは世界一の帝国で中国と朝鮮を落とし、
 はるばる海を渡って、ヤマトの国にやって来た。
 そして戦争を仕掛けてきたところ、神風なる台風が吹き荒れた。
 



 

 1度ならず2度も神風が吹いて、ヤマトはモンゴルを打ち破り、

 勝ったことになっている。
 でも、アメリカの戦争で日本に神風は、吹かなかった。
 奇跡は起きなかった。



 

 昔から琉球の一部の人たちは、ヤマトに神風が吹いたのは、
 嘘だったと、こっそり言い伝えた。
 嘘か本当かは知らないが、まだ学校に上がる前の頃、
 わたしのおばあちゃんがその話しをしてくれた。



 

 琉球はヤマトにも中国に貢物をして、ご機嫌を伺って、
 生きていた。
 なんだが、まるで今の日本のようだ。
 このままだと、きっと日本もアメリカと中国の餌食になるよ」
 




 

 結びの相撲が終わり、今日の幕内上位のハイライトがTVに映し出される。
 あらためて朝青龍の強さと闘士、モンゴル勢を筆頭に台頭する外人力士と不甲斐ない日本人力士たち。



 

 今から思えば遅れてやって来たバブルとも言える、
 日本中を席巻した若貴ブーム以来、久しぶりに大相撲中継を観て、
 いつの間にかに、高見山から小錦、曙、武蔵丸と脈々と培われてきたハワイ出身力士は跡形もなく綺麗さっぱりと消え去っていたのである。



 

 大相撲の世界は、2世力士、日本人力士VSハワイ出身者であるアメリカ勢の構図から、

 弱い日本人VSモンゴルを中心とする世界勢力へと、シフトしたということか。
 これが日本の伝統文化を象徴する様式美の角界で起こった事だとすると、何か不気味な未来を暗示しているとも想える。
 



 


 話しの合間にホテルの室内を見回してみた。
 俺の部屋より軽く一回りは広く、
 シングルとダブルのベッド、テーブルと椅子。
 窓の外には広いバルコニーと白い椅子が2つ、3つ。
 白い人工的とも思えるビーチ、その向こうに広がるオーシャン・ビュー。



 

 商船には見えない、3隻4隻の艦船を今朝通り過ぎたビーチロード沿いと等しく見ることができる。

 時間が経つのは、早いもので、NHKニュースの冒頭の7時過ぎまで、約1時間ここで過ごしていた。
 サイパンは日本時間より1時間早い。
 




 

「さあ、おばあちゃん、お喋りはそれくらいにして、ご飯にしよう。
 わたしはお腹ペコペコよ。
 おかあさん、今晩はイタリアンだったわね」



 

 比嘉マリがそう言うと、可愛い孫の言葉に促されるように、
 カメさんは娘のヨシミさんに夕飯のスイッチを入れるよう指示した。
 比嘉家の女系三世代に連れられ、俺は再度エレベーターに乗り込んだ。
 




 

 大きな窓から椰子の木に代表される庭園が見渡せる一角に、
 その席は『HIGA』のファミリーネームで予約済みだった。
 おばあさんの車椅子を押すマリと目が会い、俺は椅子を引いて、
 最も見晴らし良い場所にスペースを与えた。
 おばあさんのカメさんを挟んで右回りに、
 マリ、お母さんのヨシミさん、俺の順でテーブルを囲んだ。
 



 

 中国系のタキシードのウェイターからメニューを受け取ったマリが、この場を仕切った。
 矢継ぎ早に次ぎ次ぎに「これ、これ、これ」
 スープからサラダからパスタからメインディシュと一通り注文しているのである。



 

 勿論、その合間におばあちゃんとお母さんの意見を聞き、
 俺の顔を覗いて、ワインからデザートまで、
 マリ一人で済ませてしまった。
 料理を注文し、運ばれてから、みんなで食事を済ます約1時間の間、それこそ、マリの独壇場だった。





 

「安田さんでしたよね?」
「ええ」
「先ほど、部屋で、サイパンは初めてといわれましたよね。
 それで、どういう印象を持たれました?」



 

「昨日の深夜着いたばかりで、ホテルで一眠りして、
 当日、シャトルバスで北から南へ行き、また北へ行き、
 ガラパンに戻って来ました。
 今日、バンザイクリフでおばあさんとお母さんに偶然お目にかかって、

 ここにお邪魔した次第で、まだ印象と言えるほど、
 サイパンを知らないのですが」





 

「そうですか。それでも、自分なりの感じは掴めたでしょう?」
 マリは強く、こちらを見た。

「そうですね。
 かつて日本がサイパンを統治していたことが、
 ぼんやりながらも、解ってきた。
 それくらいですか」



 

「へえ、あなたもおばあちゃん、みたいなことを言うのね。
 それはバンザイクリフに行って、
 あの崖から飛び降りた日本人を想ってからですか?」
「それもありますね」




 

「子供の頃、おばあちゃんとお母さんにサイパンへ行かないかと、
 執く誘われても、習い事が忙しくて、
 沖縄より辺鄙なアリアナ諸島まで、とても行く気になれなかった。
 わたしは過去を振り返らない性質だし、
 今回、どうにか纏まった休みが取れて、
 祖母と母に孝行するつもりで、この島にやって来ました。
 



 

 着いた翌日には、サイパンに30年近く住む日本人の運転手兼任のガイドさんを付けて、

 亡くなった祖父とおばあちゃんが逃げ惑ったジャングルに行きました。
 そこから、祖母と母が捕らえられた収容所の跡に行き、
 ここが母が生まれた場所だと確認したわ。




 

 このガイドさんはとてもサイパンの歴史や地理、
 戦争のことに詳しいだけではなく、現代の日本の情報にも精通していましたが、

 その人の語る日本語はとても酷く聞けたものではなかった。

 きっと、ガイドさんは戦後この島に取り残された韓国朝鮮人か中国人だと想ったほど。




 

 彼の日本語は、沖縄に住む米兵より少しはマシな程度で、
 あれくらいの日本語なら東京に住む中国人留学生でも話せるでしょう。
 ただ彼が日本人だと解かったのは、6月末に訪問される、
 天皇皇后両陛下のことを大変褒めた時です。



 

『陛下は歴史を勉強しておられる。
 歴史を解かっておられる』と。
 



 

 サイパンで下手な日本語で語り、
 天皇陛下を褒める韓国朝鮮人並びに中国人はいないと思いながら、 

 なだらかな坂道の下りの車内から藍く染まった海を見ていると、
 ガイドさんは運転しながらハンドルから片手を離し、
 山の向こうを指差し、顔を顰めながらこう言った。




 

『あそこに中国人が繊維工場を建て、
 大量の中国人が特別なビザ発給を受け、この地にやって来ては、
 そこからあぶれた多くに中国人がガラパンの街の風俗に身を落とし、

 サイパンの治安、秩序を崩壊させてしまった』と。
 
 




 

 二人から、もう聞かれたかも知れませんが、
 わたしたち沖縄の人間は本土の人たちとは少し違った戦争感、
 天皇陛下に対する感情を持っています。
 わたしに限っていえば、同世代の人と同じように、
 戦争を経験していないので、年配の人たちに繰り返し聞かされることはあっても、

 それをなかなか実感できない。
 皇室に対しての感情も、冷めているというか、
 どこか遠くにある、空気のような存在に思えるのです。






 

 わたしが想うに、先ほど取り上げたガイドさんの彼は長く日本を離れ、

 南海の孤島のサイパンに棲み着いているのよ。
 そのためか、母国日本の歴史や伝統や様式美の象徴が天皇皇后陛下であり、

 相反するものが、戦争と敗戦。



 

 その結果、サイパンに埋もれてしまった残骸の数々が彼の人となりを造り上げ、

 複雑な感情が入り交じった郷愁になるのかもしれないと。

 多分、彼の持ちえる情報源は、サイパンに長く住む日本人コミュニティーと旅行会社を通してのガイドの仕事。
 それから、わたしたちの部屋でも映し出されていたNHKの衛星放送と、数日遅れの新聞と忘れた頃に届く雑誌なのかもしれませんが。

 




 

 ガイドさんの車がガラパンに戻って、
 おばあちゃんの道案内で祖父と祖母がかつて暮らした家に立ち寄った。
 家屋はすでに取り壊され、今は中国人が経営するアパートが建っていました。



 

 家の側にあった南洋桜を挟んだ広場の向こうは、
『ポーカー』の店に成り果てていた。
 そこは、ここからもそう遠くはない、歩いても行ける場所にあります。

 翌日は母が運転するレンタカーでわたしが生まれる前に琉球政府が建てた『おきなわの塔』と『中部太平洋戦没者之碑』を訪ねました。



 

 ぐるっと車を回して、マッピ山に登り、
 追い詰められた沖縄の人々が飛び込んだスーサイドクリフから、
 かつてのさとうきび畑を、
 飛行機の一機も飛び立てなかった日本軍の滑走路の跡を眺め、
 遠くマリアナ海峡を見渡しました。
 



 

 あなた、ご存知かしら、
 当時サイパンに住んでいた日本の民間人は2万人とも3万人とも言われていますが、
 その多くが沖縄出身者であり、同時にここから身を投げた、
 あるいは自ら命を捨てた人の多くが沖縄出身者であったことを。

 


 

 暫く、崖の上で過ごした後、山を下り、
 バンザイクリフで潮風に当たり、
 もう一度マッピ山の崖、スーサイドクリフの下に設けられた、
『おきなわの塔』に寄りました。
 おまけとして、韓国人慰霊平和塔にも寄りました。
 韓国人は大嫌いですが、祖母と母がいたせいか、
 二人と一礼することができました」
 



 

 マリはそう言ったのち、喉が渇ききったのか、
 溶けかけた氷入りのミネラルウォーターを一息で飲み干した。
 そして、メンソール入りの煙草に火を付け、
 一気に吸い終えると、
 再びマシンガンのように話し続けたのだった。
 



 

 マリは小学校5年生の時から沖縄でモデルの仕事をはじめ、
 地元では少しは名の知れた存在なのだそうだ。
 中学に入って、東京のモデル事務所と契約を交わし、
 春、夏、冬の纏まった休みを利用して、東京で仕事をするようになった。
 それについて、マリの家族は誰も反対を唱えなかったという、
 人間、生きているうちにやりたいことをやるのが、比嘉家の教育方針なのだろう。
 



 

 マリは中学卒業と同時に東京の芸能クラスを設けた、
 その世界では名のある高校に進み、事務所の寮で生活するようになった。
 モデル業の傍ら、歌とダンスををやりたくて、
 長い間レッスンを受けていたらしいが、いかんせん音痴で、
 モデル専業でやることを決めたのが、この春の事だという。
 



 

 マリの一家は、バンザイクリフで語った娘のヨシミさんの言葉でも解かるように、

 カメおばあちゃんが命からがら、
 戦後の昭和21年の暮れ、まだ2歳になるかならないかのヨシミさんを抱いて沖縄に戻ってきた。
 そこで彼女たちを待ち受けていたのは、
 沖縄で待ってくれているはずだった親兄弟、親類縁者のすべてを、

 昭和20年終戦の年の沖縄戦で亡くしたという現実だった。

 




 

 わずかに生き残った近所の人から、その死を伝え聞いたカメおばあちゃんは、亡くなった人たちの分まで生きる決意を固め、
 米軍の日雇い仕事や、他人のさとうきび畑で雇われ作業をこなし、

 女手一つで一人娘を育てあげた。
 このようにして、カメさんとヨシミさんの暮らしは長く続いたのである。





 

 マリの話しによると、彼女のお母さんであるヨシミさんは、
 二十歳の頃、カメおばあちゃんに反対されたにも拘わらず、
 自分の父親を死に貶めたアメリカ、
 日本に返還される前の琉球政府を支配していたアメリカ、
 その米軍基地で働く、少数派であった肌の白い米兵と結婚し、
 おばあちゃんと離れてベースで暮らしたという。




 

 マリの話しの間、ヨシミさんの様子は、
 美味しそうにイタリアンを食べていたかと思うと、
 自分に関する肝心の部分が始まると、急に俯いて身の置き場に困っている様子だった。





 

 おばあちゃんは、娘であるヨシミさんを勘当した。
 それはそうだろう、カメさんにとって、
 アメリカ兵は自分の愛したご主人を殺した憎き相手、悪の象徴である。
 ヨシミさんが家に戻って来ても、頑として敷居を跨がせず、
 電話はとらず、一切の交流を阻み続けた。
 



 

 親子の断絶も、ヨシミさんと米兵との幸せも長くは続かず、 
 彼女は沖縄の内なるアメリカであるベースから、
 3年ぶりにカメさんの元に戻って来たのである。
 それから母娘親子水入らずの暮らしが続いた。
 ヨシミさんは、3年間の生活でベースの中で学んだ英語を活かすために、

 近所の子供たちに英語を教え、その後資格を取り通訳の仕事を始めるようになった。
 


 

 

 ヨシミさんが東京から仕事に来ていた、10歳年下のマリの父親と知り合ったのが、

 もう40歳に手が届こうかとしている時だった。
 その人は、東京に妻子を残し沖縄で働く大手のホテルマンだった。
 ヨシミさんは彼の子供を身篭った。
 結婚は諦めていた、もうこりごりしていたが、
 自分の子供はどうしても欲しかった。



 

 彼女は相手に妊娠を告げず、一人で産むことを決した。

 次第に彼と会うの避けるようになったある日、事件は起きた。
 那覇の繁華街で彼が酔っ払いの米兵の運転するピックアップに撥ねられ、即死。
 ヨシミさんがそれを知ったのは、地元新聞の記事である。



 

 彼女は警察に訴えようとした、しかしそれは無駄だった。
 すでに沖縄は日本に返還されていたとはいえ、
 まだまだ事件事故を起こした米兵の身柄は、
 簡単に沖縄の警察に引き渡されることはなかった。
 




 

 何かと言うとアメリカは、日米安保条約の条文を持ち出し、
 それでも、都合が悪いと判断するや否や、
 日本の警察がブタ箱と呼ばれる簡易監獄を使っていること槍玉に上げ、

 民主国家であるアメリカ国民の人権を侵害する恐れがあると、
 人権上の問題を持ち出し、犯した罪を棚上げして、権利だけを強く主張する。
 



 

アメリカという国はそれに属する人々は、他国に対し、
 自国の国益と共に国民の保護を強く要求し押し付け、
 一方自分たちにとって都合の悪い事だけは、
 法律や人権という、現実離れした空虚な論理を展開し続ける。




 

 その状況は江戸時代の開国前、
 薩摩に支配されていた琉球に艦隊を引き連れたペリーの来航から
 戦後のマッカーサーの登場、
 百五十年経った今でも、基本的なスタンスに大した変化はない。
 



 

 話しを元に戻すと、
 戸籍上他人のヨシミさんは愛する人の死にどうすることもできなかった。
 彼の家族が遺体を飛行機で東京に持ち帰ったからである。
 ヨシミさんが調べたところによると、犯人の米兵は何のお咎めもなく、さっさとアメリカに帰国したという。




 

 ヨシミさんは、母親のカメさんと同じように、
 お腹のマリを、一人で産んだ。
 いや違う、彼女にはカメさんが付いていた。
 
 



 

 今から20年前といえば、
 沖縄でも病院で出産することが当たり前になっていたが、
 ヨシミさんはカメさんの住む実家に戻り、近所の産婆さんを呼んで、小さな女の子を産んだ。

 




 

女の子は、おかあさんとおばあちゃんに早く顔を見せたいがためか、

予定日より2週間ほど時間を早めてこの世に生を受けた。
その子が、目の前で雄弁に語り続ける比嘉マリなのである。





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