鍋島藩の幽霊10 | ブログ連載小説・幸田回生

ブログ連載小説・幸田回生

読み切りの小説を連載にしてみました。

よろしかった、読んでみてください。

 10

 

 青木繁から遅れて百年後、わたしは唐津の街に降り立った。
 とるものもとりあえず、駅前からタクシーに乗りました。
 今回、タクシーに乗る目的はただ一つ。
 ホテルの部屋から唐津湾がはっきりと見えることです。


 

 情報通の地元の運転手さんならご存じのはず。
 わたしはタクシーに乗り込むと早速、行き先の代わりに、
 部屋の窓から唐津湾が見えるホテルを運転手さんに尋ねました。


 

 濃紺の上着とズボン、色を合わせたネクタイに、 
 白いシャツの50年配の運転手さんは、「はい。わかりました」と、 

 手短に応え、アクセルを踏み込み、車を走らせた。



 

 ものの3分。
 長くても5分でしょうか。
 腕時計を見る暇もなかった。
 そこは虹の松原の外れ、海に側して建っている、
 わたしには不釣り合いなほど立派なホテルでした。 
 これが世間で言う、リゾートホテル。


 

 今更、「安いホテルをお願いします」と言うのも憚れ、
 お釣りを貰うのも忘れて、タクシーを降りた。

 少々重い気分でフロントまで進みました。
 


 

一回りほど若い黒いスーツ姿の男性は散歩姿のわたしの身なりを怪しむこともなく、

 恭しい態度で、「いらっしゃいませ」と、
 はっきりとした口調で一礼した。



 

 タクシーの運転手さんに紹介された旨をフロントの男性に伝え、
 このホテルに泊まる最大の目的である、『唐津湾が見渡せる部屋をお願いします』と、

 はっきりと、わたしは念を押した。
 さすがに、「部屋を見せて下さい」とまでは言えませんでした。
 わたしはフロントの人を信用し、住所氏名年齢電話番号などを記入後、カードで支払いました。
 

 


 

 頼みもしないのに若いボーイさんに伴われ、
 エレベーターで最上階まで上った。
 ボーイさんはショルダーバックをしっかりと大事そうに抱え、
 わたしを先に降ろした。



 

「前を失礼します」彼は廊下を伝い、わたしを部屋まで案内。
 部屋の前まで来ました。
 彼はどこからかカードを取り出した。


 

「ここではカードキーになっていますので、
 このようにして差し込みます」
 と、ドアを開け、一旦締めた。
「それではお客様、練習していただけますか」
 彼の言葉に続いて、わたしはキーを受け取り、受け口に挿入した。


 

 ドアが開くと、ボーイさんはわたしから丁寧にカードを受け取り、

 部屋に入ってすぐの壁のポケットにキーを差し込んだ。
 同時に、照明が点された。


 

「覚えていただけましたでしょうか」
 彼はそう言って姿を消した。



 

 室内を確認することもなく、
 すぐにわたしは窓の側まで歩み寄った。
 静かな海でした。


 

 最晩年の病を抱えた青木繁が必死の形相で描いたであろう、
 今まさに昇らんとする太陽が、
 荒々しくうねりのある唐津湾からはかけ離れた、
 数時間もすれば、沈みいくであろう穏やかな内海を、
 わたしは時間を忘れて見ていたのです。


 

 トイレで用を足し、椅子に腰を降ろす。
 あらためて室内を見渡すと、
 知らない間に窓に面しているデスクの上にわたしの黒いバックが。
「ボーイさん、ありがとう」
 わたしは赤いナップザックを背負って部屋を出ました。
 


 

 エレベーターで1階まで降り、
 フロントで先ほどの黒いスーツ姿の男性にカードキーを預けた。
「行ってらっしゃいませ」
 彼の言葉だけを耳に残して、ホテルを出ると、
 わたしの目の前には、くっきりと唐津湾が浮かび上がる。


 

 海はホテルの最上階のわたしの部屋から眺める景色とはまったく別の表情でした。
 所々に小島が見えます。
 室内では感ずることのなかった、
 鼻をくすぐる汐の匂いと漂う波の音が微かに聴こえてくる。



 

 腕時計は、まもなく午後4時を指します。
 あと2時間もすれば、まだ南西の空に浮かんだ太陽も唐津湾に傾き、そのうちに橙色に輝く美しいその姿を穏やかな海の中に隠してしまう。


 

 わたしは名勝地の虹の松原とは反対方向に歩いていた。
 橋の最中で見上げると、忽然に、お城が現れたのです。
 現実には、わたしの部屋からも、ホテルを出て唐津湾を眺めた時も、お城は見えていたはずです。
 ただ、海ばかりに注意を払いすぎて、目では見えはいても、
 お城は見えなかった。
 わたしの心に届いていなかった。



 

 そういえば、明治維新の立役者でもある鍋島藩の城下の佐賀市にお城はなかった。
 数時間前まで過ごした、わずか半日の滞在でしかなかった久留米も同じく城下町でしたが、
 青木繁ばかりが気になってお城どころではなかった。
 訪ねてもいないのに恐縮ですが、久留米も佐賀と同じようにお城は残っていなかった。


 

 定かではありませんが、青木繁の旧宅で士族であった青木家の資料にそのような記事か資料があったような記憶がぼんやりとあります。
 目の前に現れた、唐津城に行ってみよう。
 お城がわたしを呼んでいる気がしたのです。



 

 わたしは一気に唐津城の天守閣に上り詰めました。
 ホテルの最上階からの唐津湾の眺めも素敵でしたが、
 木々に覆われた小高い丘の上に建つ天守閣からの眺望は殿様気分というよりは、

 平成の小市民に過ぎないわたしでさえ、
 まるで天下人になったようです。


 

 もちろん、ただの空想です。
 妄想に過ぎません。
 目を閉じて、数分の後、開けると、
 ホテルの部屋からの海とも、虹の松原の外れで見た唐津湾とも、 青木繁の絶筆となった荒々しい生命感に溢れる『朝日』とも違った、ぎらぎらとした夏の盛りを過ぎて、初秋の穏やかさに包まれた優しい海が広がっていました。


 

 この時、わたしが佇んでいたのが唐津城です。

 明智光秀の謀反で京都の本能寺で没した織田信長に代わり、
 家臣の豊臣秀吉が三日天下と言われた光秀を討ち、天下を統一した。
 秀吉が朝鮮出兵の際に前線基地として築いたのがここ唐津城からほど近い名護屋城です。


 

 秀吉の死後、関ヶ原の合戦で、石田三成率いる西軍を打ち破ったのが、

 秀吉の命を受け小田原から江戸に入った三河人の徳川家康。
 天下を取った家康が大坂城冬の陣、夏の陣で淀君、秀頼親子の豊臣勢を滅亡させる前に、

 大坂城に次ぐ秀吉の権威の象徴だった名護屋城を解体し、その資材で作られたのが唐津城だと言われています。



 

 その後、何人も城主が入れ替わり、明治政府の廃藩置県で城は崩されたものの、

 東京オリンピックの2年後に現在の唐津城として復元されて今日に至ります。 



 

 いつまでも時を忘れて、天守閣で天下人の気分に浸りたかった。
 その願いを打ち破ったのが、閉館時間の知らせでした。
 小心者のわたしには役所の決まりに逆らうことなど、
 とうてい出来ようもありません。


 

 何度も繰り返しになりますが、この春まで、わたしは宮仕えの末端の役人でした。
 夢破れ、今太閤気分のわたしは天守閣を降りた。
 四百年後、一人の凡人として、白壁を基調とした唐津城から舞い降りたのです。


 

 

 わたしは城下を目指し歩き出しました。
 とはいっても、お城で手に入れたパンフレットが一枚、
 それを頼りに現代の市中をぶらりと訪ねたまでです。
 市民には怒られそうですが、唐津市はお城に合わせるかのように、
 こじんまりとした街並でした。


 

 それでいて、佐賀市、鳥栖市、久留米市とも微妙に違います。
 この違いはどこから来るのでしょう。
 街の規模としては同じ佐賀県内の佐賀市と鳥栖市の中間のような気もするのですが、

 決定的に何が違うのかと問われれば、
 何といっても海の存在が大きいと思います。



 

 佐賀市も鳥栖市も久留米市も海から隔てた内陸にありますが、
 唐津市には、わたしが乗り込み運んでくれた電車が取り持つ、
 古代からの商都である博多と同じく、北に向かって海があります。


 

 地下から地上へと浮かび上がった車窓からもホテルの部屋からも唐津城の天守閣からの眺めでも、

 はっきりとしたことですが、 
 海の道はどこまでも続く。
 日本海に連なる実家がある新潟はおろか、
 北海道やわたしが一度も訪れたことのない遙かなる外国へも果てしなく続きます。
 


 

 天守閣にいる気分のままに地上で空想に浸っていたら、
 目の前は唐津のバスセンターでした。
 回りは学生服とセーラー服姿の学生さんたちで一杯。


 

 やはり、若いというのはいいものです。
 40年以上前、わたしにもこういう時がありました。
 学生服とセーラー服の高校生カップル。
 男の子が女の子の長い髪を撫でながら、すねている彼女をなだめているようです。



 

 羨ましい。
 本当に羨ましいですね。
 悲しいかな、残念ながら、
 わたしにはこういう男女の経験がありません。
 新潟の田舎にいたニキビ面して色気づき始めた高校生の頃も、
 家を出て大学生になっても、
 役所勤めをするようになってからも。



 

 人生で一つだけやり残したことがある。
 お金と名誉ではありません。
 豪邸に愛人、高級車でもありません。
 もう一度、高校生になって、愛しい女性の髪を撫でることが出来れば、わたしは今死んでも本望です。



 

 若いカップルは繋いでいた手を放し、
 女の子がバスの中へ乗り込むとうする前に、
 振り向いた彼女の目を見て、男の子が手を振ります。


 

 何か言葉を交わしているようですが、周囲の音で掻き消された。
 わたしは彼と彼女に一瞥を投げ、
 飲み干した缶コーヒーの空を自販機の横のゴミ箱に入れ、
 バスセンターを後にしました。



 

 唐津市役所を背後にそのまま進んで角を曲がると、
 わたしはあるお寺の前で立ち止まった。
 唐津城を想わせる白壁の塀に覆われた、近松寺とあります。


 

 何も考えず、門を潜った。
 ここは近松門左衛門に縁のあるお寺のようです。
 広い庭とその先に近松の墓がありました。
 わたしの不確かな記憶では近松は上方の人です。
 三百年も読み継がれ、語り継がれる、文学者にはいろんな所にお墓や祈念碑があるのでしょう。
 近松と唐津の接点が見いだせぬまま、わたしは近松の墓に手を合わせました。



 

 そういえば、
 かつてわたしは県庁の同僚から招待券を頂いて、
 家族サービスを兼ね、妻と小学生だった子供二人を連れ、
 人形浄瑠璃を観たことがあります。


 

 あれは有名な曽根崎心中でした。
 家族が子供向けのテレビの人形劇と勘違いしたのが幸いで、
 近くの図書館から借りた漫画仕立ての物語で妻と子供たちは粗方の筋を学習済みでした。



 

 でも、帰りの車中で、息子がわたしに問い立てた。
「お人形さんはテレビで観ているのと同じように、
 それ以上に本当に生きたように動くんだね。
 人形使いの人が2人、3人と上手に人形を操って。
 だみ声の人の語りと、初めて聴いたけどあれは三味線なの。
 でも、最期が悲しかった。


 

 お父さん、どうして、お金が返せないくらいで、
 お初と徳兵衛は死ななければいけなかったの。
 誰か貸してはくれなかったの。
 僕が徳兵衛なら、親方を説き伏せて、お初と結婚するのにな」
「わたしも徳兵衛と結婚したい」
 娘に言われて、わたしは返す言葉を失いました。
 

 

 それにしても曽根崎心中は悲しい物語でした。
 時は元禄時代の大坂。
 商家の手代の徳兵衛は店の旦那の内儀の姪を嫁にどうかと勧められますが、

 彼には愛しいお初がいました。
 お初は遊女でした。
 徳兵衛には、お初を見受するほどの甲斐性がなかった。


 

 ある時、徳兵衛は知人の九平次に貸した金のトラブルで追い詰められ、

 愛する二人は死を決意するようになります。
 店の旦那は徳兵衛の叔父であり、彼がもっと上手く振る舞えば、
 二人は死ぬこともなかったでしょう。


 

 しかし、魔が差したのか、徳兵衛とお初は死に急ぎます。
 お初は徳兵衛の手に掛かった。
 徳兵衛もお初の後を追う。
 この世で夫婦になれないと解ってはいても、
 お初と徳兵衛は本当に死ぬ必要があったのでしょうか。
 あの世なら本当に晴れて夫婦になれるとでもいうのでしょうか。

 

 

 維新政府の近代化政策のため、西洋に追い付き追い越すことが国是となった、

 武家社会が崩壊した明治の世に生まれ、
 失った権威をどこか心の隅に抱き続ける武士の子孫が青木繁だとすれば、

 戦国時代が終わりを告げ、鎖国政策が功を奏し、
 江戸幕府が落ち着きを見せ始めた、
 封建時代の真っ直中に生きた人が近松門左衛門。


 

 近松は武家の人です。
 戦国時代という、人と人が殺し合う、乱世は過ぎた。
 世は天下太平と人は言うかも知れませんが、
 一皮剥けば、強きを助け弱気を挫く、権威の横暴と言うべき様を、 

 傍から見ていた近松がこの世で決して浮かばれることのない町人の世界を、

 彼らの目線で人の顔とこころを持った人形を通し、
 浄瑠璃として描いた。


 

 そう思いながら、近松寺を立ち去ろうとすると、
 いつかどこかで見覚えのある人が門の手前で立っていました。

 いつものわたしならそのまま立ち去るところですが、
 旅人の心が気を大きくした。


 

 わたしは思い切ってその男の人に声を掛けました。
 男の人は黙って頷いた。


 

「解っていました。 
 あなたがお寺に入って来た瞬間から、あなただと」


 

 その人は佐賀の文学青年でした。
 40年前の三島由紀夫の命日となってしまった、あの日に、
 アルバイト先で別れて以来の思いがけない再会です。
 彼はあの日のままでした。


 

 もちろん、そういうには、到底無理があります。
 40年の月日は短いようで長いものです。
 当時学生だったわたしが県庁の職員になり定年退職を迎えるのですから。
 彼が変わったならば、わたしも変わったでしょう。
 お互いさまです。


 

 しかし、一目見ただけで、わたしも彼だと確信した。
 若い時から広かった彼の額はすっかり禿げ上がっていました。
 お腹の辺りはふっくらとなり、
 長袖シャツを入れたズボンの皮ベルトが多少なりとも盛り上がっています。
 多少髪は薄くなっても、わたしは相変わらず、痩せのままです。




 

「お久しぶりです」
 わたしは声にならない声を上げた。


 

「本当にお久しぶりです」
 彼が言葉を返しました。


 

「ご無沙汰していました。
 もう40年になりますか。
 懐かしすぎて、何から話したらいいのでしょう」
 そこまで言うと、わたしは喉元で詰まっていた。



 

 彼が言葉を続けてくれました。

 

「あれから、もう40年ですか。
 早いものです。
 それこそ、あっという間でした。


 

 昭和45年、11月25日、水曜日。
 三島由起夫がこの世を去さると同時に、わたしの青春も終わりました。
 わたしがあの一報を知ったのはタイムカードを押して工場から帰る際の、

 社長と部長が人を小馬鹿にしたような、言い様のない、
 ひそひそ話でした。


 

 市ヶ谷での三島と盾の会のあらましを立ち聴き、
 あなたの姿も待たず、
 呆然としたままアパートと反対方向の駅まで歩きました。
 売店で夕刊とタブロイド紙をまとめて買い、
 わたしはアパートに走り戻った。



 

 4畳半の卓袱台の前に座り、
 買ってきた新聞を開こうともせず、
 今でもはっきりと覚えていますが、
 NHKのテレビニュースで現代の討ち入りともいえる三島事件を、
 わたしは一人で凝視した。


 

 色の付かない白黒映像が却ってわたしの想像力を掻き立て、
 見えなかった三島の鮮血までが、
 今でも鮮やかにくっくりとわたしの脳裏に染みついています。


 

 ただ唖然としたまま、
 その夜は銭湯に行くのも忘れるほどでした。
 日付が変わる頃になってようやく気を取り直し、
 本以外の荷物をほとんど整理しました。
 

 

 翌日、わたしは大家さんに部屋を出ますと告げ、
 翌月分の家賃を払ってアパートを引き上げました。
 その日のうちに、わたしは夜行列車に飛び乗り、
 ボストンバッグ一つ下げ、九州に戻って来たのです。
 寝台車の自由席は博多駅に到着した。


 

 長時間座ったまま、眠っては起きての繰り返しで、
 大きな生欠伸と背伸びをし、
 わたしは博多駅で国鉄のローカル線の筑肥線に乗り換えた。


 

 当時はまだ地下鉄が出来る前で、筑肥線は路面電車のようにのどかに地上を走った。
 博多の小さな商店街の横を抜け、福岡の中心部から南西寄りを電車が走り抜けると、

 海が見えて来た。
 電車はのんびりと走り続ける。



 

 福岡から佐賀に入り、しばらくすると、虹の松原が見えて来た。
 対するは海。
 唐津湾です。
 ただただ懐かしかった。
 帰って来た気がした。
 田舎に帰った。


 

 家に帰った、というより、
 わたしはどこに戻って来たと、言うのでしょうか。
 目と閉じると、母の胎内だと実感しました。
 わたしは母の羊水に漂っていたのです。
 ここがわたしの居場所だと直感した。
 


 

 唐津からディーゼル電車に揺られ、
 わたしは小さな田舎町に着いた」



 

 わたしは彼のアパートを訪ねたことを黙り、話しを聴き続けた。



 

「5年ぶりの初めての帰省でした。
 家を飛び出してから変わっているようで、
 何も変わっていなかった。
 駅から20分ほど歩いて、海のきらめきが照らす小さな家に辿り着きました。
 わたしを待ってくれていたのは年老いた祖父と祖母でした。


 

 わたしの祖先は鍋島藩の足軽でした。
 天下国家にも、明治の維新にも、
 三島由紀夫が愛して止まなかった、
 葉隠れ武士にも縁遠い最下層の侍の端くれでした。



 

 しかしながら、生きて行かなければなりません。
 今更、侍面でもないと承知したのでしょう。
 曾祖父の時代に佐賀の城下を離れ、
 幼かった祖父を連れて、隣の唐津藩の領地に移りました。


 

 唐津藩というものおかしな話ですが、すでに当時は、
 鍋島藩と唐津藩は佐賀県という一つの県でした。

 帰省の直後、祖父母から初めて母の死を知らされました。
 若くして夫を亡くした母は物心つく前のわたしを父方の祖父母に預けていたのです。


 

 以来、一度も母には会っていません。
 母の面影はうっすらと瞼の裏に焼き付いているだけです。
 それというのも、お腹に子を宿し、他家へ嫁いだ母は家を出て数ヶ月後、出産時に命を落としていたと言うのです。
 祖父母は長年それを黙っていました。


 

 事情があって、母はどこか遠くで生きているものと、
 わたしは想っていました。


 

 打ち明けようと思いながら、決心の付かなかった祖父母は、
 二十歳で家を離れたわたしが5年ぶり戻って来た姿を見て、
 ようやく意を決して語ってくれました。
 三島の死の数日後、あらためて、わたしは夢の中でしか想い描くことのできなかった、

 実母の死に遭遇したのです。
 

 

 幼い頃から、父からも母からも、一人取り残されたわたしは祖父母の昔話しを聴いて育ちました。
 祖父母に大事にしてもらったとはいえ、 
 わたしはずっと両親のいない寂しさにさいなまれてきました。


 

 年に一度の運動会ではクラスの友人が両親や兄弟に囲まれて楽しそうに重箱の立派なお弁当を食べる側で、わたしは祖父母と一緒に湿ったむしろに座り、海苔で巻いたおにぎり弁当を食べていました。
 新入生の歓迎遠足でも、祖母が作ってくれたおにぎり弁当を隠すように食べました。
 わたしの時代は今のように学校給食が普及していなかったので、
 お昼は毎日おにぎり弁当でした。



 

 雨の日には、木造校舎から校門まで駆け足で行くと、
 祖母が蛇の目の傘を持って迎えに来てくれていました。
 嬉しいと同時に恥ずかしかった。
 わたしは友達の目を覗き込んだ。


 

『大きなお母さん』は友達にそう告げて目を伏せると、  
 わたしは祖母の傘に収まったのです。



 

 わたしは夢を見て生きていました。
 いつかの日にか、わたしも現代の侍になろうと。
 


 

 二十歳を迎える前日、わたしは祖父母の元を離れたのです。
 1年あまり勤めた造船所を辞め、貯めた30万円を握りしめ、
 あの日と逆コースの博多駅から夜行列車に乗りました。
 わたしは、先祖が叶えられなかった夢、
 葉隠れ武士の残像を、三島由紀夫の背中に託していたのです。
 

 

 わたしの都会暮らしは悲惨なものでした。
 田舎訛りは抜けず、友人の一人も出来ません。  自信をなく
 三島を模して我流で小説を書いていましたが、 
 文学賞に何度応募しても、文芸誌にわたしの名前が載ることなどありません。
 わたしは自信を失し掛けていた。
 そんな時、アルバイト先であなたに出会ったのです。


 

 なぜか、わたしはあなたが好きになった。
 初めて、心が通い合う友のような気がした。
 あなたはわたしと違って、将来のある大学生でした。
 文学を志してもいません。


 

 それでいて、工場であなたと会い、
 何気ない言葉を交わすのが楽しかった。
 そして、晴天の霹靂の、三島事件が起きたのです。



 

 一夜にして、夢から覚めたわたしは家に戻り、元の造船所で汗を流しました。
 田舎では世間の目が気になって、風変わりな文学者気取りは出来ませんから。
 わたしは次第に本を読むが億劫になった。


 

 祖父に買ってもらった愛用の万年筆は筆入れの中で眠っていました。
 文章も小説も書けなかった。
 愛した三島由紀夫は、もう、この世の人ではありません。
 いつとはなしに、わたしは文学の世界から離れていた。



 

 数年後、わたしは祖父と祖母を見送りました。
 祖父母の残してくれた唯一の財産の傾きかけた小さな家を処分して、わたしは唐津に出て来たのです。


 

 わたしが近松の寺を参るのを不思議に想われるかもしれません。
 上方出身と言われる近松ですが、嘘か誠か、この地で生まれたという説もあります。
 現代の侍であった三島に代わり、
 元禄の世に生き、庶民の暮らしを描いた、
 近松がわたしのこころの師となりました。


 

 わたしは月に一度、この寺を訪れます。
 それは三島由紀夫の月命日でもなければ、
 近松門左衛門の命日でもない。
 祖父母の命日でもありません。
 それはわたしが文学をきっぱりと諦めたその日です」
 彼はそう言って言葉を締めた。



 

「これからどこかで食事でもいかがですか?」
 わたしは彼を夕飯に誘いました。


 

「悪いのですが、これから仕事があります。
 夜の警備です。
 ここから歩いてほど近いビルの建築現場で、
 週に5日、夜の8時から朝の8時までの12時間、
 警備会社で嘱託勤務をしています。

 

 これから家に戻って妻と二人、食事を摂ります。
 わたしが人生の師とまで仰いだ三島の本に限らず、
 すべての本を捨ててしまったのは、
 愛する妻との結婚式の当日です」 



 

 近松寺の門で文学青年と別れ、わたしは一人で物想いに耽った。
 バスセンターを過ぎ、川を渡り、そのまま伝い歩いて行くと、
 もうすっかり日の気はなかった。
 通りに飛び出した猫が車のライトに写し出され、
「あぶない」と、わたしは声を上げた。
 猫はすんでの所で車から身を交わし、走り去った。

 

 
 
 もう一度橋を渡った。
 汐の香が漂ってきます。
 もうすぐそこに海があるのでしょう。
 汐の香に沿って歩いていた。


 

 小さな波の音がします。
 わたしの目の前に現れた、青木繁が絶筆として描いた海。
 朝日も夕日もない、照らされることのない海です。
 文学青年が母の胎内だと、母の羊水で漂っていた海。
 自分の居場所であると直感した海。
 漆黒の海を見つめ、わたしはこれが生きた唐津湾だと実感したのです。            
                            
                              完





">
">人気ブログランキングへ