モスクの恋8 | ブログ連載小説・幸田回生

ブログ連載小説・幸田回生

読み切りの小説を連載にしてみました。

よろしかった、読んでみてください。

 8

 

 意識の途切れ途切れに、あの唱が響き渡った。
 野太い男の低くもあり高くある唱声が熱にうなされるわたしの脳裏に響き渡った。

 

 唱い終わるのにどれだけの時が費やされたのか、 
 それとも流れたのだろうか。 

 

 わたしは無意識のうちに聴い入っていた。
 気持ちよく無我の心境とは、果たしてこういうものだろうか、
 邪推に邪魔されることもなく、心地よい子守歌に誘われて、
 わたしは寝付いてしまったのです。
 

 目を開けると、ベッドの中でした。
 しっかりとしたホテルや入院患者用のベッドというより、
 通院患者が点滴を受けるような、
 随分小ぶりな白いベッドのシーツ上にわたしは横たわっていた。

 

 白い衝立で隣のベッドと両脇を仕切られ、
 わたしのスペースは実質1畳ほどだった。

 

 寝汗がひどく、Tシャツとジーンズがべとべとで、とにかく気持ち悪かった。
 自分の汗の臭気にむせて、吐き気を催しそうにで、口に手を当てた。

 

 寝返りを打つと、足元は軽く、スニーカーが脱がされているのに気づいた。
 それと同時に、持っていたバッグが気になって、

 

 ベッドから起き上がり下を覗き込んで確認した。
 日本でプールなどに設置してあるビニール籠のアジアバージョンというべき籐製の中に、

鉄道落し物リサイクルで手に入れたわたしの白いショルダーバッグが忍ばせてあった。
 

 

 ベッドから這い降りて、ベッドの下の潜り、籠を引き入れて、
 バッグの中を確認した。

 

 まず、わたしは大事なバスポートを、つぎに財布の中身を確認した。
 この国の紙幣数枚と日本円が少々。

 

 思い出して、ジーンズの脇ポケットを探って、小銭入れを引っ張り出した。
 いつでも使える小銭と小額紙幣2枚がしっかり残されている。
 一安心だ。
 トラベラーズチェックはホテルに置いてきていた。
 

 

 茶色の籠の中には、使い古したベースボールキャップ、
 もう一つの持ち物である靴はベッドの足方向の下に、
 きれいに並べて置かれていた。



 

 ドアをノックする音がした。
 すぐさま、ベッドで横になり、わたしは「はい」と英語で言った。

 

 入って来たのは、昨日のウイグル青年だった。
 昨日と同じ頭の天辺に乗っけた白い帽子がやけに目に付いた。


 

「ここはモスクの医務室です」 
 帽子にあわせのたか、上から下まで白で統一された綿と麻を混合したような風通しのよい衣装を身に着けた彼が言った。

 

「あなたは」 
 わたしはそれだけ言うのやっとだった。
 昨日、「わたしは日本人です」
 それだけいうのが精一杯だったように。
 

 

 寝返りをうって見上げると、
 白い衝立とベッドの人一人が立つの精一杯に狭いスペースで青年に立っていた。

 

「あなたはモスクの側のテントで倒れて、
 女性と少年たちに助けられたのです」
 わたしを見下ろすように甲高い声の主は言った。
 

 

 彼に言われて、思い出した。
 わたしはテントの中で倒れた。

 

 愛しの彼女に会って、それまで募った思いつめた感情が一気に炸裂したとでもいうのか、

わたしの体は今朝方の微熱から駆け上がって、未知の数値ともいえる38度の大台を通り過ぎた。
 

「そうでしたか」
 わたしはもう一度、あなたは?」と、尋ねた。

 

「昨日もお会いしたかと思うのですか。
 わたしはウイグル人の学生です。
 この国に留学して医学を学んでいます」

 


 彼が自己紹介する前に思い出してはいたが、医学生とは意外だった。
「ということは、未来のお医者さんですね」

 

「ええ」さも当然とでも言うように彼は応えた。

 この国にとって、医者の社会的存在とは医学生の位置とは。

 

 多少の引け目を感じながらも、
「わたしの症状は?」
 彼の診たてを尋ねた。

 

「心配はないかと思います。
 ただの疲れでしょう」
 

 1分程度の沈黙の後、彼が口を切った。
「昨日、あなたは日本人と言われましたね」

 

 無視する訳にもにいかず、わたしはベッドで寝たまま首を縦に振った。
「わたしは、ウイグル人です」

 わたしは、黙っていた。

 

「あなたはご存知ないかも知れません。
 ウイグルという国は中国の中にあるのです。
 チベットをご存知ですか?」

 

「はい」
 わたしは、そう応えた。

 

「そうですか?」

 

「詳しい場所は知らないのですが」
 わたしの貧しい知識では、チベット仏教とダライ・ラマ程度だった。

 

「それも無理はありません。 
 ウイグルはチベットの隣国なのです。
 わたしたちウイグル人は仏教徒のチベット人とは違って、
 モスリムです。
 日本人のあなたは?」
 


 

 すぐに応えることができなかった。
 これまでわたしは自分がどの宗教に属しているのか、
 信仰しているのか、いないのか、深く考えたことがなかったのです。

 

 大半の日本人と同じように、お葬式はお坊さんに頼んで、
 正月に神社に参る、人と同じでいることが心地良い、
 典型的な日本人であるわたしは、彼に応える術を持たなかった。


 

 ベッドに横たわったままに見上げる彼は、肩幅の広い、
 骨格のしっかりした体躯で、厳しそうな目をわたしを睨んで、
 こう言った。

 

「わたしは医学を学ぶと同時に、
 イスラムの信者として。アラーの神について学んでいます。
 そのためにもこの国にやって来ました。
 医学と宗教とどちらの道で身を立てるのか、
 まだ決めかねているのです」


 

 わたしは沈黙するしかなかった。
 医学と宗教と同時に学ぶ人を前に、何を語ればよいというのか。
   

 

「日本の方といえば、
 あなたも、仏教徒でしょうに、
 その方がどうして、2日も続けてモスクに来られたのですか?」
 観光で?
 それなら、わかりもしますが」
 

 

 わたしはある意味、彼に見透かされていたのである。
 たいした用もない奴が物見遊山な気分で神聖な場所であるモスクに来られて迷惑千万でしかたない。

 

 気分が良くなり次第ここを立ち退いて下さい。
 彼の刺すように冷たい目が言葉に代わって物語っていた。


 

 わたしは彼の目を見て、小さく頷く仕草をして、
「昨日の朝、わたしはこの街にやって来ました。

 

 目の前の駅に列車が着きました。
 タクシーに乗り、後部座席から見えるこの美しい建物が気になって、運転手に尋ねました。

 

 彼はこう言いました。
 あれがわたしたちの国のモスクです。 

 

 あなたもこの街におられる間、一度はいらして下さい。
 わたしは、ホテルに着いて、一休みして、
 食事もほどほどに、このモスクにやって来たのです。
 そして、今日もこの素晴らしいモスクに来ようとして、
 あのテントの中で倒れたのです」
 わたしは正直にありのままを話した。
 

 

「そうですか」と言ったなり、彼の沈黙が続いたあと。
「あなたが、この国に来られた動機は存じ上げませんが、
 このモスクに来られたきっかけは教えていただきました。

 

 今度は、わたしがこの国に来たきっかけを少し詳細に話してみましょう。
 先程も申し上げたとおり、わたしの国であるウイグルは、
 今は中国の中にあります。

 

 我々ウイグル人が何も好んで中国の中に囲われているのではありません。
 誤解されるといけませんから、はっきり言いますが、
 我が祖国ウイグルは中国人に占領されています。

 

 解りやすくいえば、中国の植民地にされているのです。
 たぶん、あなはたウイグルの歴史もウイグルと中国の関係について、

あまり関心がないでしょうし、知識も乏しいかと存じます」


 

 彼の言うとおりだ。
 しかし、前もって断っているとはいえ、
 医学と宗教と同時に学ぶインテリな留学生でも、
 そうずげずげと物を言わなくてもよいのでないだろうか。

 

 英文科で学び、多少は聴き取れるわたしではあっても、
 彼の英語はお世辞にも上手くはなかったが、
 左脳が極めて発達しているようで、
 論理的で語彙も豊富で聴く者を圧倒する力が備わっていた。



 

「恥ずかしい話ですが、
 わたしは中国が支配するウイグルから逃げてきました。

 

 祖国で彼らと戦うという選択肢もありえたでしょうが、 
 わたしは自分への可愛さもあって、医学を学ぶという口実に、
 現実から逃げ出してしまったのです。

 

 その反動でしょうか。

 国元ではそれまで熱心なイスラム信者ともいえなかったわたしが、

 この国に来て、罪滅ぼしのつもりで、このモスクに足を運ぶうちに、

すっかり宗教の熱にうなされてしまったのです。
 

 中国人が居座るわが故郷にはもう戻ることはないでしょう。
 ウイグルには父と母と妹を残しています。

 

 週に1度電話して、月に1度便りを出します。
 それ以外は、このモスクで、自宅で、学校で、
 家族の安全とウイグルの未来を神に祈るのです。


 

 恵まれている日本人のあなたに、いくら言い聞かせても、
 無駄だと思うのですが、中国の横暴に少しは関心を持ってもらいたいのです。

 

 わたしの知る限りでは、
 あなたがた日本人は沈黙を美徳と考えられている国民のようで、
 その類まれな経済力や技術力に比べて、発言力が極端に弱いように思われてしかたありません。

 

 アメリカや中国のような大国にもイエスマンにならず、
 フランスのような自主独立の、国際的な地位に相応しい、
 もっと弱い者の立場にたって、光の当たらないところにも
 気配りを絶やすことのない、大人の振る舞いをしてもらいたいものです。


 

 一旅行者のあなたに、政治家や官僚やジャーナリストのような仕事を期待しているのではありません。
 のんびりと世界を旅行できるご身分であるが故に、
 政治や宗教にも少しは関心を持って頂きたいのです」 

 

 彼は自分の主張だけを言い終えると、くるりと振り向いて、
 わたしの視界から消えて、ドアの音を鳴らして立ち去った。


 

 選挙演説のようであり、面接試験のようでした。
 緊張から解き放たれたのでしょうか、冷や汗が滝のように流れた。

 

 わたしはTシャツで脇の下の汗を軽く拭って、
 ベッドから身を起こし、枕の脇に置いていたショルダーバッグの中の体温計を取り出し、

まだ湿り気のある脇の下に入れて、腕を閉めた。


 

 ベッドに足を伸ばし座るような状態で、2分、3分とわたしは時が経つのを待った。
 電子音が鳴り、体温計を引き抜いた。 
 36度6分。

 

 寝ている間に、1度6分下がっていた。

 ふっとため息をつくと、どこからともなく、
 コーランの唱が響き渡って来るのだった。

 

 わたしはその美しさに聴き入っていた。
 宗教やイスラムの教えなど、こ難しいことは解らずとも、
 この素晴らしい唱声だけは、感じることができる。


 

 体全体から発せられた、魂の権化となりえた歌唱が、
 コーランとなって、モスクの中心部から、
 礼拝する信者の前を通り抜け、わたしの休む医務室を潜り抜け、

 モスクから町全体へ、唱はとめどもなく、
 国中に響き渡る力を持って天の上から地を這って、
 伝わるかのようだった。
 


 

 興奮から静寂が訪れるの待って、わたしは医務室を出ました。
 昨日、今しがた演説を終えたばかりのウイグルの青年に注意されたトイレに入って用を足した。
 それから、わたしはテントに向かいました。
 

 すると、鮮やかな衣装にを身に着けて彼女が待ってくれていたのです。
 いや、これはわたしの勝手な思い込みに過ぎないのですが、 

 

 彼女は人々に弁当を売っていたのです。
 わたしは彼女の前に進みました。
 わたしの番が来ました。
 彼女が気づいてくれました。

 

 明るいピンク色のイスラム衣装から綺麗な顔とスリムな肢体だけを窺わせて、

とびきりの笑顔で、

 

「お体はもう良いのですか?
 立ち上がったりして?」
 ありふれてはいても、囁くようにつぶやく、
 心のこもった素晴らしい言葉だった。 

 

 彼女の台詞だからこそ、とはわかってはいても、
 病んだわたしの体と心は、途端に全快したかのように潤って。
 
「もう大丈夫です。
 昨日食べ忘れた、あなたのお弁当を一つ、いただけますか?」

 

 彼女は何も言わず、微笑んで、真心が詰まったお弁当をわたしに差し出した。
 わたしは「ありがとう」と一言言って、代金を払い、 
 彼女の側の長テーブルに弁当を置いて、折りたたみ椅子に腰を掛けたのです。


 

 わたしはお弁当のふたを開けました。
 日本でも見られるようなごく普通のお弁当で、
 焼き飯のような混ぜご飯と、おかずには鶏肉と煮込んだ緑黄野菜が付いていました。


 

 食べる前から強めの香辛料が食欲を誘います。
 先の別れたフォークとスプーン兼用の匙で、混ぜご飯を口に運びました。

 

 美味しい。
 思わず、言葉に出てしまいそうでした。

 

「美味しいですか?」

 彼女の外見から想像しづらい低く響く声が轟いて、
 わたしは振り返ったのです。


 

「お茶をどうぞ」
 笑顔の彼女が紙コップに入ったお茶を出してくれました。

 

 わたしは透かさず、肩に下げたバックから財布を取り出しました。
 舞い上がって、ジーンズの脇ポケットに小銭入れが入っているのを、すっかり忘れていました。

 彼女は首を横に振りました。

 

「結構です。
 わたしのサービスですから」


 

「ありがとうございます」 
 それだけ言うと、わたしはその先の言うべき言葉を忘れてしまっていたのです。

 わたしは一口ずつ、味わいながら、彼女の心のこもったお弁当を食べました。

 

 あとから振りかえってみると、
 実際に彼女自身が作ったのかは疑わしいのですが、
 その時はわたしは、きっと彼女手作りのお弁当に違いはないと思い込んでいたので、

なお更、美味しさが口から喉へ食道から胃へ腸へ体全体に巡って、

もうすっかり体の具合も良くなって、
 病も吹き飛んでしまったかのようでした。


 

 わたしがお弁当を食べ終わった頃を見計らって、
 彼女が後ろから声を掛けてくれました。

 

「何と言われました?」
 わたしは一瞬、何のことかと思いました。

「お会いになりませんでした?」

 黙っているわたしに彼女が、

「あの人、少し変わっているでしょう。
 なんでも留学生ということで、わたしも今日はじめて、
 お目にかかったのです」


 

 わたしは振り向いて彼女の顔色を窺いました。

「もう、良くなりました。
 動いても大丈夫だと思います」

 

 熱が下がったわたしは、あるがままにそう言いました。
 しかし、優しいの彼女の笑顔を見つつ、
 ここでわたしが倒れてたことをきっかけに、
 彼女とウイグル青年が妙な形で繋がってしまったのが、
 どうにも気になって。



 

 わたしはそれから、どうしたらいいものが、昨日以上にわからなくなりました。
 今日は寝台切符を買う必要もない代わりに、
 この場所から逃げ出す必要もありません。

 

 ただし、予定通りの行動に移すと、
 今夜の寝台列車で愛しい人の元を、
 彼女と出会ったこの街から去らなければならない。


 

 結局のところ、初めて彼女と出会ったテントの中で、
 美味しいお弁当を食べ終わったあとで、わたしは彼女の元を去りました。 

 

 どうして、そういう行動をとったのか、
 自分としてもはっきりとは、わからないのです。
 そう仕向けた何かがあったという事もありません。

 

 前日以上に、テントの中で粘ればよかったのです。
 何も急ぐ必要も旅でもなかった。
 寝台切符の1枚や2枚、交通費の安いこの国において、
 ホテルに泊まると考えればよかったのですから。

 

 わたしは彼女の前に進みました。
 彼女の目を見つめました。

 

 そして、喉に詰まった、声を痰を切るように、つばを飲み込んで、

 わたしは『ありがとうございます』の言葉をだけを残して、
 彼女の前から姿を消したのです。
  




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