モスクの恋5 | ブログ連載小説・幸田回生

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読み切りの小説を連載にしてみました。

よろしかった、読んでみてください。

 5

 

 父親にとっての妻が、娘にとって母親は3年前にこの世を去った。
 亡くなるまでの数年間、妻はベッドから起き上がることができなかった。

 

 父と娘は代わる代わる妻であり母である人の世話に追われ、
 職場と学校と家の中でしか過ごしえない彼女のために、
 世間との交流を絶ってしまわなければならなかった。 

 

 父と娘が家を離れている日中、彼女はベッドを離れ、
 車椅子に乗ったきりで、娘の拵えてくれた昼食を摂り、
 一日の大半をTVの前で、それにも飽きると、
 新聞に目を通し、定められた時間通りにアラーの神に祈りを捧げた。


 

 それでも、車椅子に乗った自分が、若かりし頃、
 娘に劣らずの美貌で、世間の目を、男たちの目を、
 女たちの嫉妬を一身に受けていた自分が、
 筋肉が徐々に衰え、そのうえに骨まで蝕まれ、
 自らの力では現代の医学ではどうしようもない病になって、
 このような姿を世間の人の目に晒すことがどうにも我慢ならなかった。
 


 

 神に祈っても同じだった。
 神様、わたしの足を元通りにしてください。

 

 わたしの歪んだ足を治してください。
 曲がった膝を、どうにかしてください。

 

 一日だけでも構いません、歩けるようにしてくださったら、
 明日、死んでも本望です。
 

 

 彼女は痛み耐えながらも、夫と娘に泣き言を言いながらも、
 足を引き摺り、仕事と家事をこなしてきた。 

 

 見栄症の彼女は、外では虚勢を張り続けた。
 杖を持つのも嫌がった。

 

 他人から、「どこか具合でも悪いのですか?」と問われて、
「いいえ。悪いと所など少しもございません」と気丈にも白を切り通した。

 


 ついに彼女にその日が訪れた。 
 もう一歩も歩けない。

 

 杖を使っても、上体を支えることすらできなかった。
 夫も娘の手を借りて、車椅子に乗ったその日から、
 彼女は過去の中に生きていた。
 

 彼女にとってすべてのはずの、
 夫のことも娘のことも目に入らなくなってしまった。

 

 明日という言葉は彼女の辞書にはなかったし、
 未来への希望も閉じられていた。

 

 一日一日、彼女はわがままに傲慢になっていった。
 自分のこと以外は考えられかった。

 

 家に閉じこもってばかりで、夫と娘にだだをこね、
 二人の顔を見るたびに、不平不満をこぼし、
 電気のなかった時代の蝋燭が切れた夜間ほどに家庭の中を真っ暗闇にし、

 彼女自身の匂臭が部屋のすべての物を包み込んでしまった。
 

 娘と夫が、互いに帰宅すると、それまで、狭い部屋の中で、
 溜め込んでいたものが一気に爆発するように、
 過食症患者の食欲が止まらないように、止め処もなく、
 言葉という狂気が炸裂してしまうのである。
 

 

 父親も娘も彼女の寂しいやるせない気持ちを充分に理解しているつもりであっても、

 疲れて帰宅した途端に、
 今日もTVで見知ったどうでもよいような出来事が矢継ぎ早に口から発せられると、

 つい、口論に発展することがままあった。

 

 そして、反動として、拒食症患者の、だんまりが続くのである。

 それでも、父親も娘を許される時間のすべてといっていいほど、 彼女との時間に充てた。
 娘は恋の一つも知らずに、学校とモスクと家庭の中で生きていた。
 

 

 そんな地獄絵から開放されたのが、言うまでもない母親の死だった。
 最期は死にたい、死にたい、それだけを口癖のように呟いていた彼女。


 

 ある朝、父親がいつものようの仕事に出かけるため、
 シャツとパンツから部屋着に着替えて、
 ダイニングキッチンに進み、
 一人早起きして支度をする娘と言葉を交わし、
 ベッドに戻って、妻にいつものように朝の挨拶の言葉を掛けた。

 

「さあ、ごはんの用意ができたよ」
 妻は言葉を返さなかった。

 

 まだ眠っているのか。
 寝つきの悪い母親は、往々にして、起きてはいても、
 朝はベッドの中で愚図っていた。

 

 夫は妻の側によって、彼女の頬を撫でた。
「さあ、ごはんの用意ができたよ。
 わたしたちの娘が、おいしいごはんを作ってくれた。
 さあ、起きてよう。

 

 さあ、起きて、みんなでごはんを食べよう」
 妻は言葉を返さなかった。

 
 夫は何度も何度も言葉を掛けたが、妻の返事は聞けなかった。
 黙ったままの妻の手を握ると、頬と同様にまだ温もりは残されていた。

 

 夫は彼女の肩に触り、軽く揺さぶった。
 2度3度、今度は少し力を込めて揺すってみても、
 妻の甘えたような声はもれなかった。

 

 夫は寝巻き姿の彼女の心臓に手を当てた。
 妻の心臓から鼓動が伝わらない。

 

 夫は妻の手首の脈をとった。 
 もう一度、心臓に手を当てた。
 急いで娘の元に寄り、「お母さんが」と声を上げた。


 

 それ以来、父と娘のささやかな生活が始まった。
 5階建ての3階に位置するアパートメントで二人だけの暮らしが繰り広げられた。

 

 父と娘は一緒に自宅を出て一緒にバス停まで歩いた。
 父親はいつものイスラム帽子を被り、
 娘もやはり頭からすっぽり覆われたイスラム衣装を身に着けていた。
 

 

 今朝、娘の衣装は昨日の白を基調にした花柄の入ったものから、
 かつて、母親が元気だった頃お気に入りだった、

 

 いくぶん華やいだ薄いピンク色を基調とした衣装を身に着けた。
 無意識のうちに、あるいは意識的に、彼女の感情がそうさせたのかもしれなかった。

 

 彼女は狭いバスの中でも一際光っていた。

 並んで座ったシートの中で、親子が住む郊外の町からシティー・センターに近づくにつれて、

 彼女の心は高鳴り、
 バスは立体交差を過ぎ、中央駅ですべての客を吐き出し、
 父と娘の二人も、一番を後からバスを降りて、交差点を渡った。


 

 娘は父親に別れの挨拶をした。
「お父様、わたしは今日は雨が降らないように、神様にお祈りします」

 

 娘は父親の目を見つめた。
「お前の願いが叶うと嬉しいのだが」
 娘は幼かった頃、父と母と三人でお弁当を持って出かけた日の光景を思い描いた。

 

 あの日は楽しかった。 
 わたしの人生の中でも最良の日に違いない。

 

 その前日もスコールに襲われ、『明日晴れるといいな』と願を掛けてお祈りすると、

 アラーの神様はわたしの願いを聞いてくださって、一日中好天だった。
 

 

 今日こそ雨が降らないで、彼に会えるよう、あの日のように神様に願を掛け、

 白い壮大なモスクに急いだ。

 

 父親は娘の後ろ姿を眺めながら、美術館に向けて歩いた。

 




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