モスクの恋2 | ブログ連載小説・幸田回生

ブログ連載小説・幸田回生

読み切りの小説を連載にしてみました。

よろしかった、読んでみてください。


 2 

 寝台列車に揺られ、この街にやって来たのが早朝で、
 駅の側に聳えるモスクを横目に、タクシーで中華街のホテルに運ばれた。

 

 一休みして、狭い道路の左右に所狭しと軒下から張り巡らされた、 ややくすみがかった原色の使い込まれたテント、
 二色染めのパラソル、商品納入でカートンや木箱を運ぶ運転手や店員、派手な衣装で通りを歩く人々と肩を触れ合わせ、
 賑やかさを通り越して、騒々しいだけの中国人の溜り場から、  シティー・センターに出た。
 

 

 開放されたとの思いも束の間、わたしを待ち構えていたのは、
 信号待ちから放たれた、バイクの爆音、とにかく凄まじかった。
 

 

 それらに続いて目の前を通り過ぎたのは、
 わたしが乗った同じ型の国民車と呼ばれるタクシーで、
 通行人として、傍観者として、
 戦後数十年を経て先進地であった欧米と肩を並べる自動車大国と成り得たルックイーストの国民の目を通せば、
 いつか見た景色かなとは思わずにはいられない懐かしさにも似た風情というものがあった。

 

 だが現実問題、そんな悠長さも許されなかった。
 排気ガスですぐに喉が痛くなり、
 目ざとく見つけた中国人の個人薬局でマスクと喉飴を仕入れ、
 街の散策へと舞い戻った。


 

 数分間のタクシーの中から覗いた街並みを辿るようにして、
 線路上を覆う形の立体交差になった橋状の道路を歩いて小ぶりな美術館に立ち寄った。 
 フロアごとに10分ほどをさいて鑑賞した。

 

 これといって印象に残るような作品はなかったが、
 イスラムの帽子を被った壮年の小柄な男性係員に心のこもった挨拶を受けて、パンフレットを片手にこの場所を後にした。
 道なりに歩き駅の正面に建つ、壮大なモスクに入っていった。

 

 


 信仰もないのに観光気分で覗いたナショナルモスクには、
 ロックコンサートをやれるほどの大作りな体育館のようなフロアで礼拝用の衣装に身を包んだ大の男が、身を屈め、膝を付き、
 床に手を突け、頭を垂れて、アラーの神に祈る。
 神聖な儀式の様式美に吸い込まれる。
 

 モスクでは当然のようにコーランは流されていたのだと想う。
 ただ、少しもコーランの歌声を覚えてはいない。
 それほど、ある出来事がわたしにとって衝撃だった。


 

 早朝に響き渡った『コーラン』の歌声が国境の街のホテルのベッドで死んだように眠る日本人旅行者を覚醒させた以上に。


 

 失礼にあたるのかもしれない。
 アラーの神にも、イスラム教にも、モスクにも、
 わたしは無知だった。

 

 これより先には進むことができなかった。
 理由はよくわからなかったが、係りの人が出てきて、
 やんわりと断られたのです。

 

 どこからどう見てもイスラム教徒には見えない一見参には、
 分相応に思えた。


 

 それで、大きなお祈りの場であるフロアを出て通路脇のトイレに寄ろうとした。
「そこは女性用ですよ。

 

 あなたはモスリムですか?」英語でそう言った。
 インテリそうな男はアジア風な顔色をしていたが、
 濃く彫りが深く、日本人でないのは一目瞭然だった。

 

「わたしはウイグル人です。
 あなたは?」
 確かにウイグルと発音した気がするが、
 わたしの乏しい知識ではその国がどこにあるのか、
 即座に思い出すことができなかった。


 

「わたしは日本人です」
 それだけいうのが精一杯でした。


 

 白い帽子を被ったイスラム教徒のアジア人に少なからず、
 違和感を覚えつつ、
 言われた通りに辺りを見渡すと、少女から老婆まで、
 肌の色さえ色とりどりに、イスラム衣装を一様に着込んでいた。

 

 そういえば、彼はどことはなしに、遊牧の民の風情を持っている、
 そんな気がしないでもなかった。

 

 ばつが悪くその場を離れた。

 

 モスクを出ると、いつもの雨が降っていた。
 まだそれほど大気が温まっていなかったせいか小降りで、
 お腹の空き具合から昼前だったと思う。
 

 

 数段の階段を降りて正面に見える駅で寝台切符の予約を済ませようと足を早めたが、急に本降りになってきた。

 

 目の前のテントの中に飛び込んだ。
 そこでわたしは、イスラム衣装の綺麗な女性に出会った。

 

 彼女は二十歳前後の身長1メートル60センチほどのスレンダーで、
 白を基調にしてところどころ水玉のような花柄のようなポイントの入った、すっぽり頭から包み込むイスラム衣装から覗いた浅黒い顔と大きな瞳と素敵な笑顔が印象的だった。


 

 目が合った。
 彼女は少年たちと弁当を売っていた。
 ホテル近くの中華食堂で遅めの朝食を済ませていたので、
 弁当など買う気はなかったし、ただの雨宿りのつもりでテントに立ち寄った。

 

 ふたたび、彼女と目が合った。
 瞳の一点がきらきら輝き、一瞬に恋をした。
 初対面のうら若き、イスラムの衣装を纏った美しい女性に恋した。

 

 自分でも信じられないのだが、初対面の女性に、臆面もなく、
 間髪を入れず、「わたしはあなたが好きです」という言葉が出ていたのです。



 


 それまでのわたしは女性と面と向かうことができなかった。
 そのようなことを考えることすらなかった。

 

 女性がどうにも怖かった。


 

 仕事上はともかくとして、プライベートで女性と二人切になることなど皆無といってよかった。
 女性と同席することも覚束ないのに、
 好きです。愛してます。

 

 などの愛を告白する言葉など持っての他で、視線や態度で示す愛情を示したことも一度としてなく、
 異性としての女性を好きになったことがあるかどうかも疑わしく、
 我ながら信じられない大胆不敵な言動は、
 外国にいる大胆さとともに、
 国際語としての英語の過剰表現を同時に示した。


 

 彼女は少し照れて、浅黒い顔を見ようによっては多少薄紫に染めて、雨に濡れないように狭いテントから体をはみ出さない様に、
 右へ左へ体を移動させた。


 

 側で、この状況を観戦していた学童期の少年たちが彼女をけし立てた。
 彼らの動きが自信ともなってわたしは彼女の側に寄った。

 

 わたしは執拗に彼女に言った、何度も英語で言った。
 あなたが好きです。
 あなたが好きです。
 あなたが好きです。

 

 最後には『わたしはあなたを愛しています』とさえ、言った。
 それでも、彼女は照れて笑うだけでした。
 

 

 少年たちが間を持ってくれて、一つ弁当はどうかと薦めてくれた。 油性と辛料のミックスした香ばしい匂いに食欲を刺激されたが、
 わたしの目には彼女以外は決して入らなかった。
 

 これでもかと「わたしはあなたを愛しています」を繰り返した。
 彼女は身を仰け反らせた。
 その表情をうかがうかぎり、イスラムの乙女の恥じらいなのか、
 嬉しいのか迷惑なのか、場慣れしないわたしにはまるで判断がつかなった。

 

 

 テントの外を覗くと、いつの間にか雨が止んでいた。
 目を中に移すと、大きなテントの中には長い2列のデスクに、
 折りたたみの椅子が5、6脚、立て掛けられ、主が来るのを待っている。


 

 にもかかわらず、わたしは立ち尽くしたままで、
 少し頭を冷やして考えてみようとしても、
 水分を十二分に含んだ重く湿った空気が心のエンジンには焼け石に水で、明日の夕方には寝台列車でこの街を離れなければならない事実が改めて判明するばかりだった。


 

 はじめての恋。
 それも、期間限定の恋。


 

 どうしても、彼女をものにしたかった。 
 しかし、その術がわからず、
「わたしはあなたを愛しています。
 もう一度、この場所に戻ってきます」
 それだけ言って彼女の元を離れたのです。


 

 この場に及んで、一生に一度の恋から、
 名誉ある撤退を選択するとは、わたしはどうしていたのだろう。


 

 予定通りに正面に見える駅に向かって数段の階段を降りて、
 それでも未練がましく、踊り場で彼女を振り返った。

 

 日本の学校やバザールで使われるようなごくありふれたテントの中の、イスラム衣装の彼女は、何事もなかったように、
 わたしの後からやって来た、彼女と宗教をともにする男たちに対処していた。


 

 今から思えば、急いで彼女の前を立ち去る必要などどこにもなかった。
 彼女の心さえ捕らえられれば、どんな事でも、

 

 どんな手段を使っても、自分の心に正直に動くべきだった。
 しかし、そんなものは、取るに足らないものとして、
 寝台切符の予約を済ませようと、わたしは足を早めたのです。

 

 


 中央駅の切符売り場で、国境の街で手にした一日数本の長距離列車、寝台車指定最上席の終着点行きの予約切符を押さえて、
 わたしはもう一度、モスクが見渡せる場所に戻ってきた。

 

 姿を見ることはできなかったが、あのすぐ側のテントに麗しい彼女がいるはずだ。
 けれど、わたしはその場所に戻らなかった。

 

 あえてそうしなかったというより、
 何故か知らず、足が向かなかったのです。
 

 

 雨上がり、掃き込んでゴム底の薄くなったスニーカーに路面からの水気が吸い込んで、彼女とモスクを背に負ったまま、
 わたしは重い足取りで中華街のホテルに戻った。

 

 雨と汗と愛の雫でびしょ濡れになったTシャツとジーンズとトランクスと靴下をベッドの脇に脱ぎ捨てシャワーを浴び、ベッドで佇んだ。

 

 イスラム衣装に微妙に隠されつつも、はっきり端整とわかる彼女の顔が浮んだ。

 くっきりとした目と鼻と口、それ以外の主要パーツが、
 神隠しのように見る者を刺激し、小粒なバスト、
 きりりと締まったウエスト、すらりとしているであろう脚線が、
 艶やかなイスラム衣装に包み込まれ、より一層、
 視覚から脳へと刺激信号を刻一刻と送り続け、強くはないわたしの心臓を締め付けて。

 

 

 彼女を日本に連れ帰りたい。
 妄想だけが浮んで、泡屑のように消えて、それから先のことは考えられなかった。

 

 彼女がわたしのことをどう思っているのか。
 好きなのか、嫌いなのか。 
 初対面の日本人など、どうとも思ってないに違いない。
 いや、果たして、彼女はわたしを日本人と知っているのだろうか。


 

 日本人でイスラム教徒は皆無に近い。
 イスラムの世界に生きる彼女にとって日本というまったく異質の国に住む日本人のことなど計りようがないではないか。

 


 
 彼女が属するイスラムの社会やその習慣、
 イスラムの人々にとって、異教徒との交際や結婚が果たして可能であるのかといった一切合切が霧の中だった。

 

 イスラムの社会は昔日本もそうであったように、
 見合い結婚というのが主流なのであろうか。

 

 親が決めた相手と結婚するのであろうか。
 果たして両親が許してくれるのだろうか。
 日本人のわたしが受け入れてもらえるのだろうか。

 

 婚前交渉というのはどうなのだろう。
 それがばれて破談というのはありえるのだろうか。

 

 できちゃった婚なんていう、
 孫ができて喜ぶ親さえいるという、
 少子化が進む現代日本ではごく当たりの、
 動物のような行為はイスラムの社会で許されるのだろうか。


 

 日本人がイスラム女性を妻に娶る場合にも一夫多妻制はありえるのだろうか。
 離婚はあるのだろうか。

 

 今から考えても仕方のないことが、頭の中に浮んでは消えて、
 とめどもなく、彼女のことが頭から離れなかった。
 彼女のことを考えずにはいられなかった。

 

 ならば、なぜ、あの場所を離れた。
 そればかりが、反語のように心の中に蠢き続けた。

 彼女がいる間、ずっとテントの中で粘ればよかったものを。

 

 なぜ、わたしは、寝台切符を買いに走った。
 急ぐ旅でもなかったろうに。

 

 彼女はわたしを待っていたのではないだろう。
 きっとそうに違いない。
 この国の人はシャイに違いない。
 

 

 イスラムの女性はきっと・・・・・
 妄想だけが、一人歩きどこから、勝手に暴走してしまうのです。
 それで、事態がどうなるのか。
 彼女が、わたしに付いて日本へ来る事など、
 正気ではとても考えられなかったのです。


 

 寝台切符を手にして、それから彼女の元に戻ることもできた。
 彼女に対しての言い訳などは何とでもなった。
 古今東西、宗教の差意を超えて、男女間の軽い嘘に罪などありはしないだろう。
 

 

 そんなこんなで夢想に耽っているうちに、時間だけが過ぎ去っていた。
 独り言のように呟いた彼女との約束を果たすため、
 もう一度彼女の姿を見るために。

 

 ホテルの部屋を抜け出し、やはり朝と同じ中華食堂で夕飯を食べて、もう一度彼女に会いに行った。

 中華街の狭い路地から立体交差になった橋状の道路に差し掛かると、

 空を覆った厚い雨雲から舞い降りた大粒の雨が急にわたしを襲ったのです。

 

 傘を差す余裕もなく、駆け足で橋を渡り、
 彼女と出会ったモスクの側のテントに急いだ。

 

 階段を駆け上がりると、
 片付けされた運動会のようにきれいさっぱり、
 可憐な彼女の姿ともどもすべて消え去り、叩きつけるような激しい雨だけが残った。




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