貧民窟・・・14 | ブログ連載小説・幸田回生

ブログ連載小説・幸田回生

読み切りの小説を連載にしてみました。

よろしかった、読んでみてください。

 14

 

 バスは団地入口、坂道の停留所を今、発車した。
 園長先生の話によると、このあたりで4年生の男の子が撥ねられ、

 それ機に母は活気ある女の子から無気力な少女になっていったのである。
 確かに、りっぱな道になっているが、
 ここでの出来事が母の運命の一つを変えたようだ。
 考え込んでいたら、すでに丘を越えていた。
 
 運転席の斜め後ろの席で、

 朝の晴れ模様からどんよりとした低い雲が立ち込めた冬景色にマッチした統一感のない工場や住宅が混在する一帯をぼんやり眺めていると、
 往と違ってこのバスはローカルな鉄道沿線沿いのバイバスを臨海部へ走り、

 希望ヶ園を去った母が勤めていた工場に向っていた。
 大都会で使われなくなった派手な色違いの車両が目の前を通り過ぎてゆく。
 
 バスは右折して大工場前に停車した。
 小さな電機メーカーは1部上場企業によって買収されている。
 目の前の工場は当時の痕跡を何一つ残していないだろうし、
 ここで当時の情報を得ようとしても、まず無理な話しであろう。
 メモに見入った、この先にはかつて母が会社を去るまで住んでいた寮があった。

 

 次のバス停で降りてみた。
 通りから敷地に入り、駐車場でエスクードの運転席から降りてきた、

 会社の作業服姿の同年代の男性に声を掛けた。

 

「こんにちは、こちらの会社の方ですか?」
「はい、そうです」
「少し、お伺いしたのですか、お時間よろしいでしょうか?」
「何でしょうか? 
 これから社内の行事に出ますので、手短に願います」

「わたしの母が30年ほど前、吸収合併された会社に勤めていて、
 ここの女子寮に住んでいました。
 その当時をご存知な方、どなたか教えていただけないでしょうか?
 申し遅れました。
 わたしは、山中と申します」

 

「そうですね。
 それでしたら、現在女子寮で食事の世話をされている方が昔、
 その会社に勤めていたそうです。
 土曜日に、まだいますかね?
 この奥が女子寮になっています。そこの1階が食堂です」

「どうもご親切にありがとうございます」
 彼の目を見て頭を下げた。

 

 今の時代に会社の寮の存在が不思議な気がしないでもない。
 が、これも何かの縁と思いつつ、男子寮を抜けて足を進めた。  

 

 その寮の入口で、寮生と思われる若い女の人と目が合うと、
 むこうから声を掛けてきた。

「なんでしょうか?」
 怪訝にこちらの顔を覗き込んだのは、

 化粧気のない小柄な女性で冴えない紺のまるでスクール・ジャージのお揃いの上下を着込み髪をお下げにしていた。
 見かけない若い男の顔が他所者に見えるのは仕方ないとしても、 

 その訛ったイントネーションは人を変質者扱いしているか、
 ただの田舎者である。

 

「こんにちは、こちらの食堂で働いている女性のことでお聞きしたのです、まだ居られますか?」
「牧さんのことですか?」
 彼女は相変わらずのイントネーションで応えた。

「お名前は知らないのです。
 先ほど駐車場で男性社員の方に伺いました。
 女子寮で食事の世話をされている方が、前身の会社で働いておられたと。
 その方にわたしの母のことでお聞きしたいと思いまして。
 母は30年ほど前、その会社で働き、ここの寮に住んでいました。
 申し遅れました、わたしは山中と申します」

「そうですか、土曜のお昼が終わると、牧さんはすぐに帰られます。 

 わたしが食堂に見てきてあげましょう。
 あなたはここで待っていてください」

 独特のイントネーションの彼女はジャージを引きずるようにして、
 寮の中に入っていった。

 

 5分もすると、色黒で大柄な中年女性が寮から出てきた。
 彼女は、セルロイドの茶縁の眼鏡と履きこんだブルージーンズにグレーのジャンバーを着ていた。

 こちらから頭を下げて、

「はじめまして、山中と申します。
 母、美和子が30年ほど前、この寮でお世話になっていました。
 今日はお話しをお聞きしたく、伺いました」

「そう、あなたがみっちゃんの息子さん。
 わたしは牧と言います。
 今から家に帰りますので、駐車場まで歩きながら話しましょう」

 ジャージの彼女はそのまま寮の中に消えていた。

 俺と牧さんは寮の前から男子寮を抜けて、エスクードの脇を通って話しを続けた。

「みっちゃんとは、この寮で5年間共に暮らしました。
 会社が変わって10年前に寮が建て替えられ、
 わたしは工場勤務から女子寮の食事係になりました。
 わざわざここまで来られて、何か急用でもあるのかしら?」

「はい。母が亡くなりました」
「えっ! みっちゃんが亡くなった。

それは本当なの?」
「はい。もうすぐ二ヶ月になります。
 今朝、ここへ伺う前に母がお世話になった希望ヶ丘園に寄って来たところです」

「それはお気の毒に。
 彼女、わたしより一つ下だったから46?」
「ええ、46歳でした」

「ねえ息子さん、よかったら、今からわたしの家に寄っていかない。

 近くだし、あなたに話したいことがたくさんあるのよ」

 そう言われて、彼女の白いアルトの助手席に乗り込んだのである。
 キーを回し車を暖気する間、彼女はたばこに火をつけ、
 一本どうかと、勧めてくれた。
 ショートホープは少しきつくて、

 フロントスピーカーから流れる歌謡ロックとドア窓の隙間をにげだす煙が妙にマッチしていた。
 

 

 アルトは軽自動車がどうにか擦れ違えるような線路下のガードをかろうじて潜ると、

 点滅信号前で、

 彼女の黒い布製の左の靴は思い切りクラッチを踏み込み左手はシフトに触ってチェンジした。
 右折し、軽いショックが助手席まで伝わると、
 緩かな坂道が目の前に広がり、ゆっくりと上ってマンモス団地が連なる敷地に小さな車は入ってゆく。
 アスファルト・コンクリートの青空駐車場に愛車を駐めエンジンを切った。

 

「さあ、降りて」
 そう言うと彼女は、ウレタン製のショルダーバックを右肩に掛け駐車場から二棟目の建物にむかい、

 玄関ホールのエレベーターを使い4階の部屋に招いたのであった。

 

「それ履いてね」

 

太い指先が示したグリーンのスリッパは、
 茶のソックスを包み込んだ。
 彼女はダイニングテーブルの椅子にバッグを置き、
 ダッフルコートをさっと取って居間に吊るし、椅子を引いた。

「そこに座って」
 

そして、すばやくガスコンロの薬缶に火をつけていた。

「砂糖は一つでいい?」
 

コーヒーにミルクを入れ、グラニュー糖が加えられた。

「さあ、どうぞ」
 

そんな言葉のあとから、俺はソックスと同じ色のコーヒーを啜り、 

マルボロに火をつけ彼女にも1本勧めたのである。

 

「遠慮しなくてもいいわ、ここがわたしの家よ。
 旦那は単身赴任中だし、子供は大学の寮に入っている。
 売れ残りの公団住宅の物件をようやく2年前に買ったばかりなの。 

 ただ今のところ、寂しいかな、わたしはここで一人暮らし」

「そうなんですか?」
「そうよ。
 結婚して女子寮を抜けだせたと思ったら、
 次は20年近く旦那の会社の社宅暮らしが待っていた。
 先輩の奥さんに気を使うやら、主人が後輩に出世で抜かれるやら、 

 それはそれで気の抜けないところなのよ、社宅という所は。
 
 ようやく公団を買って移ってきたら、すぐに旦那の転勤よ。
 付いていこうかと迷ったけど、ローンの払いにわたしも働かないといけないし、

 息子の受験があったりしてこっちに残っていたら、 今度は一人息子が進学で出て行った。

 結局、三人で暮らしたのはほんの半年。
 そうして、わたしはこの部屋に一人取り残されて、
 週に6日、女子寮の食事の世話をしている。
 まったく世の中、うまくいかないわね。
 わたし、ストレスが少し溜まっているの。
 世間で言われるように一人暮らしでせいせいするかと思ったけど、 

 わたしはダメね、側に誰かいてくれないと。

 でも、わたしはまだいいほうかもしれないわね、
 みっちゃんと違って生きてるわけだし。
 愚痴ばかりこぼして御免なさいね。
 あなたこそ、お母さんを亡くしたばかりで寂しいでしょう。
 気が利かなくて御免なさい」

 

「気になさらなくて結構です」

「そう言ってもらえると、有難いわ。
 それはそうと、あなた、お昼は食べたの?」
「はい、もう済ませました。
 寮へ伺う前に施設の園長先生に散らし寿司をご馳走になりました」
「たしか、みっちゃんも、散らし寿司が好きだったわね。
 わたし、彼女に何度かご馳走になったことがあるわ」  
 
 久しぶりの水分補給のコーヒーを飲み干した。

 

「さっきも言ったかしら、みっちゃんとわたしはね一つ違いでね、
 東北の田舎から集団就職して来たわたしと、この土地に慣れているとはいえ施設育ちの彼女は、

 同じ日陰者どうしてのようで気があったの。
 当時の寮は今の個室と違って、
 4畳半の部屋にどうにか入れた2段ベッドの下が年長の先輩、
 上が新人の組み合わせで、新人は付き人のように掃除から洗濯まで先輩の世話をするんだけど、
 付き人といっても、若いあなたにわからないわね?」

「相撲の付き人のようなものでしょうか?」

「そうよ、相撲の付き人のようなもの。
 それが嫌で、先輩のいじめに耐えられず会社を辞めていった人がどれだけいたことか。
 ただ運がよかったことに、わたしが新人の時の1年間、
 同郷の先輩に可愛がられその人が結婚して退社したすぐ後、
 みっちゃんが寮に入ってきた。
 それで、彼女が会社を辞めるまでの約5年間ずっと二人は同じ部屋で生活できたの。
 みっちゃんはね、あなたも知っているように、

 あの人、頭がよかったし、わたし言ってやったのよ。
 
 あなた仕事帰りに夜間の高校に通って卒業資格を取り、
 工場勤務から看護婦さんにでも事務員さんにでもなりなさいと、 

 何度も勧めけど、彼女はわたしの話しなんかちっとも聞いてくれなかった。

 

『わたしは、勉強なんて中学でもうたくさん。
 ここで働きお金を貯めて、なんか自分で商売がしたい。
 わたしはお金が欲しいの』
 いつもいつもそう言っていたわ。

 みっちゃんは、会社に入ってからずっと工場と寮の往復だけで、

 遊びに出なかったし、化粧や洋服にもお金はかけてなかった。
 それで自然とお金は貯めるわね。
 
 それが二十歳を目前に、みっちゃんはある人と街で知り合い恋におちた。
 それまでの彼女が一変したわ。
 同じ部屋で寝泊りしていたわたしには、すぐそれに気づいた。
 今日のように半ドンの土曜日の午後、
 彼女は着飾っていつもはしない化粧をすると、
 そのまま街にでて門限の9時きっかり寮に戻ってきた。
 
 何か用事でもあったの? と、わたしが聞くと、

『何でもないの』
 彼女はそう言って、次の日曜日の朝早くから浮き浮きした表情でまた部屋を出て行き、

 やはり9時ぎりぎりに戻ってくる。

 

 そんな月日が半年ほど続いた、
 ある土曜日の夜、夏の時期だった。
 わたしが同期の子と通りから寮に戻ろうとすると、
 車で送ってもらったみっちゃんと、
 車から降りて手を振る彼氏を見たことがある。
 それが後にも先にもたった一度だけのこと、
 みっちゃんの彼氏を見たのは」

 

「その人が僕の父です。どんな人でしたか?」

 

 その時ほど、父親の存在がリアルに感じられたことがなかったので、

 その場の空気をよく覚えている。
 それまでの北風から急に不思議な空気が流れだし暖かく俺を包み込もうとしていた。
 
 つい最近まで、父は俺にとっては無の存在だった。
 それが北田さんの手紙をきっかけに、ぼんやりとした輪郭が浮かびあがり、

 戸籍謄本の確認によって、自分と父親の繋がりを紙面の上だが確認することができた。
 今日ここに、実際の父親をほんの一瞬でも見た人が目の前にあらわれて、

 いつか感じた鼓動が襲ってくるようだった。

 木目模様のテーブルを挟む4つある椅子の一つを少し引いて背を伸ばすと、

 目の前の牧さんの話しはまだ続いていた。

 

「そう、あの時の子があなたなの。
 もう二十五、六年前のことだから、

 はっきりとした輪郭は覚えてないけど、笑顔が素敵な人だったように記憶しているわ。
 二人はわたしたちに気づいてないようだったし、
 部屋に戻っても、みっちゃんに問いたださなかったので、
 その人がどこの誰かは今日の今日まで知らないままだった。
 
 なぜなら、それから1週間後に、
 みっちゃんが会社を辞めて寮を出ていくことになったからよ。
 わたしは彼女の妊娠を知らなかった。気づかなかった。
 後から人に聞いて知ったけど、
 結婚の約束をしていた恋人が交通事故で亡くなったと言うじゃない。
 それがあの夜の人よ。
 
 まったく二人とも運がないわね。
 みっちゃんは、愛する人の子供を産みたかったのね。
 それで誰にも知られることなく、ここを出て行った。
 その赤ちゃんがあなたというわけ。
 残念ながら、それ以来、わたしはみっちゃんに会っていない。
 彼女の居場所すら知らなかった。
 みっちゃんの行方を知ったのは、
 今日あなたに会って、彼女の死を知らされた時よ」

 

「希望ヶ丘園の園長先生にも、同じようなことを言われました。
 あなたにお会いでき、
 今まで知らなかった貴重な話しが伺え嬉しくてたまりません。
 虚ろな心のまま、わたしは生きてきました。
 自分の人生を肯定的に受け止めることができず、流離って生きてきました。

 どうして自分がこの世に生を受け、生まれて来たかがまったく理解できなかったからです。
 
 わたしは物心ついた時から、
 ここから2時間ほど離れた所で、母と二人暮しでした。
 そこは、貧しい者たちが選りすぐられたような街でした。
 街は壁で外部から遮断され、蔑称、貧民窟と呼ばれていました。
 

 そうですね、10年ほど前にテレビご覧になった、
 ベルリンの壁をイメージしてもらえるといいでしょう。
 あのような壁の街が現代の日本にもあるのです。
 壁は高さ3メートルで狭い周囲を覆い尽くします。
 そこには言葉にだせない悪戯書きや下品極まりない数々の絵が描かれ、

 動物の死骸や粗大ゴミがより一層引き立てている有様です。

 何故、人々がその街を知らないかというと、

 どのマスコミであれ決して外部に情報を伝えようとしないからです。

 日本人に限らず、アメリカ人、ロシア人、

 一人として街の状況を知らせたジャーナリスト諸君はいないでしょう。
 そこには、憎しみと悲しみと飢えと貧しさ、愛と喜び以外のすべての人生が揃っていました。
 外部の人は我々壁の内部の者をまるで人間扱いせず、住民は猜疑心のかたまりで、

 外の豊かな者を妬み、内では貧しい者がより貧しい者を虐げ踏みつけていくのです。
 
 わたしはこんな環境を呪いました。
 すべてを恨みました。
 気が休まったことは一度だってありません。
 父のことは考えないようにしてきました。
 これ以上、思い詰める夢想すると、正気でいられなくなる気がしたからです。
 それは心から、本能からの叫びでした。

 

 中学を卒業するとわたしは、まるで母が育った施設をとびだしたように、

 この貧しい街から出て行きました。

 それ以来、街には一度も戻りませんでした。
 母にも会いませんでした。
 電話も数回したきりです。
 その後、母がどういう暮らしむきをしていたか、
 気にはなってもあえて連絡をしませんでした。
 そうすることで、無意識にも自分の感情をコントロールしてきたのです。

 わたしは母との距離を保ち続けました。
 そうです、母が倒れて病院に運ばれたと知らせを受けるまで。

 わたしは母の葬儀を済ませると一旦仕事に戻り、
 あることをきっかけに部屋の整理と後始末に1ヶ月の休みをもらい、

 あの街の長年住みなれた団地の一室に籠り続けました。
 そして、ある人から父に関する知らせを受けたのです。
 
 1ヶ月が過ぎ、部屋の処分を終えると、

 自分のアパートと仕事に戻り社会復帰を果たしたのが1週間前のことです。
 そして今日、母が中学卒業まで過ごした施設とあの寮を訪ね、
 あなたにお会いし、それまで知りえなかった母と父の話まで聞けて有意義な一日を送ることができました。
 本当にありがとうございました、心からのお礼を申しあげます」

 母の数少ない友人にエレベーターまでの見送りを受け、
 マンモス団地を後にした時は、もう夕闇が迫っていたのである。
 
 

 週末の郊外のマンモス団地から一人きりのバスに揺られて電車を乗り継ぎ、

 その間、心ここにあらずの状態がつづき、最寄り駅に着いた時、

 一瞬、自分がどこにいるのか理解できないありさまだった。
 
 アパートに戻って一日の疲れを癒そうと、バスタブに浸かり、
 半水浴が5分も経つと、胃が痙攣をはじめ、ユニットバスに備えられた便器の中に、

 園長先生の思い出の散らし寿司ごと戻してしまっていた。
 お昼に食べたものが消化されず、夜の9時過ぎに胃に残っていたなんて、

 ありえないような話しであっても、それは事実なのである。
 どこでどう間違ったのか知らない、時間が停止していたとしか、

 考えられない。
 

 それほど、希望ヶ丘園の情景と、

 寮から牧さんに連れられた公団住宅での彼女との会話がまだ耳元に留まっていたのであろうか。

 

 その夜は、ベッドの中で羊を何匹も数え、

 規則的に唸る電車の音と改造マフラーの癇に障るバイクのノイズに、

 どうしても寝付けなかった。
 明け方のテレビショッピングで死亡説が出たタレントの不気味な相槌が効いて、

 知らずのうちに眠っていたのであった。



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