ブログNO.125 6世紀、荊州の寺院に仏教求めて遣使 臼杵大仏群の真名の長者、1500キロ | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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ブログNO.125

6世紀、荊州の寺院に仏教求めて遣使

臼杵大仏群の真名の長者、1500キロ乗り越えて

 

◇臼杵市が国宝を改ざん?


 

 一昨年末、当ブログNO.103でお伝えした「九州・臼杵の摩崖仏群は6世紀後半に造られた」について、埼玉の角田彰男氏と共同してこの大発見をした愛知県瀬戸市の林伸禧氏が、解明に用いた各種の資料を送ってくれた。とても面白いものなので筆者の意見、見方も添えてそのエッセンスを紹介しよう。

 まず6世紀後半に造られた摩崖仏群が、なぜ平安時代の末とか鎌倉時代に造られた、と勘違いされたかである。

 その背景には、日本の中心は大昔から関西・大和であり、政権、王朝は大和政権しかなかったという『日本書紀』による大嘘の著述に、美術史家だけでなく日本人のほぼすべてが侵されていたことがある。

新年早々、麻生太郎財務大臣が「この2000年、わが国では一つの民族、一つの言語、一つの王朝が続いている。こんな国は日本しかない」と演説して問題になった。

問題にしたのはとてもいいことだ。事実とはかけ離れた演説だったから。しかし、マスコミはアイヌ民族の存在だけを持ち出して非難するしかなかった。

だが、この件も不勉強なうえ事実を伝えようと努力しないマスコミや、麻生大臣だけが悪いわけではなかろう。そういういかがわしい歴史認識を教えてきた文部科学省、不都合な事実にほっかむりし、通説に不都合な遺跡にはコンクリートで蓋をし、遺跡の本当の年代が市民に知られないように理化学的な年代測定をしないよう働きかけてきた大学の国史や考古学の研究者、自ら検証することもなく、言われた知識を垂れ流すだけだった小中高の社会科教員らが一番の元凶だ。

日本の王朝に関して言えばこの2000年、天(海人)族政権あり、紀氏政権あり、熊曾於族政権あり、幕府を入れれば世界の国々と同様、変遷この上ない歴史をたどっている。このブログをお読みになっている方々はよくお分かりと思う。

日本は神風が吹く「特別な国」では決してない。ユーラシア大陸の北方、南方、中央部から来た多くの渡来人たちが切磋琢磨して「日本人」となり、政権を奪い合ったり、連合したりして作り上げた国である。

「臼杵摩崖仏群平安鎌倉期造仏説」も国史学者や政治が作り出した妄説の延長上にあるのだ。「九州などという田舎にそんな優れた仏教文化があるはずがない。日本に仏教が伝わったのはまず大和だ。『日本書紀』にそう書いてあるだろう」というわけだ。

臼杵の摩崖仏群のなかに「正和」という年号が刻まれていた(写真=臼杵13仏。この壁面にも九州年号「正和」が刻まれていたという)。この年号は九州倭(いぃ)政権の年号だ。

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九州年号とか筑紫年号、西国年号とも言っていた。だが、後の大和政権の年号にもあった。九州年号のは熊曾於(熊襲)族の政権であった継体天皇の526531年、大和政権のは鎌倉時代の13121317年だ。

ブログNO.103の角田氏の報告にもあるように、佛教大学教授(当時)小野玄妙氏は「鎌倉時代に制作年代を刻した臼杵のような仏龕(がん)の様式はない」と断じた。だが氏は九州年号の存在は知らされていなかったのだ。

国史学者は、『続日本紀』など数十冊の史書と青森から鹿児島まで全国に400個以上もの使用例があるのにほっかむりをし続け、「そんなものは想像の産物で、架空の年号だ。政権としては大和朝廷しかなかったのだ」と市民を騙し続けていた。

資料によるとこの年月日は、摩崖仏群の二か所に製作年を示すものとして「正和4年卯月5日」と刻まれた。「卯月」は4月の事だ。そのうち満月寺の五重石塔の刻文には後に「卯月」の前に「乙卯」という刻字が施された。これだと年月日を表す「乙卯年」という解釈もできることになり、「乙卯年」、すなわち1315年の鎌倉時代の年号「正和」でいい事になる。

 

125-2 しかしこの「乙卯」字は昭和511976)年まではなかったことが石仏群を調査していた太田重澄や菊池徹らの著書ではっきりしているところが平成4年の「臼杵市史 下巻」では「正和四季乙卯卯月五日・・・」となっていた。昭和51年から平成4年までの数年の間に、「平安鎌倉期の造仏」という卑屈な説を唱える高名な美術史家や考古学者の「顔」を立てるべく、何者かが刻字したとみられる。

まったくでたらめもいいところだ。市が市民の負託を裏切る行為に走ったのだろうか。全くとんでもない事だ。(左写真 満月寺五重塔銘文。「乙卯」の刻字の位置が左右に大きくはみ出している=林伸禧氏提供)

地元に伝わる『真名長者実記』によれば、「正和4529)年」は石仏群を造った炭焼小五郎の父又五郎が、81歳で亡くなった年である。この時その供養として五重塔と十三仏の一群を造ったことを表しているとみられる。

 

◇波濤を乗り越え、中国へ

 ところでこれほどすごい石仏群を造りあげた「炭焼小五郎」とはいったい何者なのか。もちろんそのヒントは地元に伝わる「真名長者実記」とか、小五郎が臼杵市に建てた紫雲山満月寺、大分県豊後大野市三重町の有智(うち)山蓮城寺、さらに山口県熊毛郡平生町の神峰山用明院般若寺、愛媛県松山市の瀧雲山護持院太山寺など関係する寺院の言い伝えだ。

「真名長者」は「真名野長者」とか「満野長者」と伝えられるケースがある。なかの「野」は「姫氏・松野連」などと同じく「~の」という接続詞が名前の一部のように誤って伝えられるようになったのだろう。

こんなすごい事をした人が何でただの「炭焼き人」なのか。これは7世紀末、大和政権が列島の支配権を九州倭政権から奪取した後、九州政権の中枢部にいた人やすごい事をした人、敵方だった人を貶(おとし)めて伝えさせた名前だ。

こんな例はかなりある。例えば和歌山県粉河町の大寺・粉河寺を創建した人として知られる大伴孔子古(くしこ)は、単に「猟師」とだけ伝えさせられているなどだ。ただ「長者」伝説がある土地のほとんどに2世紀後半から5世紀後半まで日本列島の王者として君臨した「姫(紀)氏一族」の伝承がダブっている事実には注意しておきたい。

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「実記」によれば真名の長者(写真=満月寺境内にある長者と妻の玉津姫の石像)は、娘の般若姫が19歳の若さで亡くなった事に耐えられず、娘の菩提を弔うためもあって摩崖仏を彫らせたという。そのために「欽明天皇の11550)年、船頭龍伯に頼み、黄金3万両を唐土南岳山に渡したもうた」。そして「衡山の沙門(僧)蓮城法師が(香木である)赤栴檀(センダン製の)千手観音と瑠璃石(青玉石製の)医王如来の尊像計二体を持って豊後に来た」。

さらに「一院を建立して名を浮(憂)世に残そう」と考え、黄金5万両を蓮城法師のいた(衡山の)寺に送り、仏具や経典を送ってくれるよう頼んだ。

寺の対応も早くすばらしかった。「敏達天皇の2年(573年)6月上旬、隠悦大師、隠円大師の二人の僧に加え、四十四人の随従者と赤栴檀製の薬師観音、弥勒菩薩、寅頭慮尊者の計3尊、経典として大般若経、法華経。さらに仏敵退治の剣5本、独鈷、三鈷のほか法器、楽器もそろえて贈ってくれた」という。

『日本書紀』は、九州倭(いぃ)政権の天皇である欽明の13年(552年)、百済から金銅製の釈迦佛や経典、幡などを贈られ、欽明天皇は「歓喜して踊り走った」と書く。この年次も正しいものかどうかは分からないが、「真名の長者」が中国・南岳の寺から招来した仏教は比較にならないほど豪華で本格的だ。「欽明も真っ青」、という感じ。

欽明は、現在の福岡県朝倉市に都していた継体天皇の子供で(当ブログ1315参照)、「師木島の大宮」に都した天皇だという(『古事記』)。この「大宮」がどこにあったのか、まだよくわからない。が、異母兄弟の安閑天皇が継体の都に近い香春(かわら)町の勾金(まがりかね)周辺に都し、欽明の娘という「春日の山田の皇女」を皇后として迎え入れている。

このことなどから、欽明の都も福岡県東部から大分県北部の豊前地域にあったことはまず間違いないと考えられる。「真名の長者・小五郎」とは生きていた年代もほぼ一緒で、すぐ近くにいて、お互いよく知っていた間柄だろう。

 

次回は「真名の長者・炭焼小五郎」が仏教を求めた「中国の南岳・衡山(こうざん)のお寺」とはどこを指しているのかなどを探ってみる。