ブログNO.51 九州年号と磐井と豊の国(その1) | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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ブログNO.51

九州年号と磐井と豊の国(その1) 

―北部九州を旅しての三題話―


2月の末に久留米大学の公開講座で、九州政権を形作った熊曾於(熊襲)族や紀氏一族、そして天(海人)族の故郷にも近い中国南部・呉越について話をさせてもらった。時間的にも限られていたこともあって十分な話はできなかったが、ついでに依頼をうけて豊前・川崎町と熊本県菊池市でも同じ話をした。

 その間、真実の歴史・古代史を求めて熱い思いで研究を進めている地元の人々の案内で、いくつかの遺跡や説話の舞台を回ることができた。意外なことややはりそうだったか、などさまざまな成果があった。地元の方々に厚い感謝を述べるとともにその報告をする。

まず第一は福岡県小郡市の神社に刻まれた「九州年号」の話。


 小郡市大字八坂(旧三井郡鰺坂)の若宮八幡神社写真)に「貴楽」という九州年号が刻ま
51-1 れた円柱が
建てられていることは当ブログNO.6「九州年号」でも紹介した。神社は応神天皇を主祭神に、武内宿祢(たけし・うちのすくね)と、博多の住吉の神、表・中・底の三「筒男(つつお)」を祀る。

味坂小学校の東側に隣接している。神社の言い伝えに基づいて創建の日時を記したものだ。「欽明天皇の貴楽弐(二)年創立」という。だが、写真が不出来で読者には全然判然としなかっただろう。

 そこで写真を見てちゃんと分かるように撮り直したいと思っていた。幸い、「九州古代史の会」の木村寧海会長と「歩かんね太宰府」の市川舜一会員が同行してくれた。その助けでライトを当て、何とかわかるような写真が撮れた。これなら読者も納得できるだろう(下写真)。

 問題は円柱を撮影したあと、神社の長田雅彦宮司が作った解説版(写真)の内容だ。看板を見
51-2 ていた木村会長が「貴楽二年は我々の理解では
553年のことだけど、看板には507年と書いてありますね。何ででしょう」という。

 鋭い指摘だった。筆者は、ここに九州年号があるということだけで満足し、紀年の違いなどまったく気にしていなかった。我々の理解が間違っているのか、神社の言い伝えに間違いがあるかのどちらかだろう。が、ひょっとするとこの底には大きな問題、例えば九州内の二朝対立とか、違う何種類かの伝承がひそんでいるかもしれない。

 疑問を持つということは事実の解明へのカギである。木村会長から大きな宿題をもらったと感じた。

 看板は「このあたりは蚊田(賀沙)郷といわれ応神天皇由緒の地であり、北部九州豪族盟約の地であった」と述べて
51-3
いる。いかがわしい「史書」『日本書紀』の記述を叩き込まれている人々には「応神天皇というのは関西にいた天皇のはずだがなぜ由緒の地」といぶかしさを感じる記述であろう。が、「事実は小説より奇なり」である。

 「応神天皇」は母親の「神功皇后」とともに北部九州に多くの伝承を残している。「生まれたところは福岡県宇美町である」とか、「応神天皇が即位儀礼を上げた場所がここである」(福岡県川崎町式部・帝階八幡神社)とか、『記紀』に記す応神の墳墓の所在地と同じ「百舌鳥(もず)」や「耳(味見)原」も同県香春(かわら)町にある。

もちろん北部九州に限らず全国の八幡神社の祭神にはほとんどが「神功皇后」と「応神天皇」が対になって祀っている。『日本書紀』では応神天皇は武内(たけし・うち)の宿祢に伴われて関西に移動し、そこで「反神功皇后」勢力の香坂(かごさか)王、忍熊(おしくま)王を討ったということになっている。

だが、『古事記』ではどうやら九州内の事件と考えざるを得ない内容になっている。『書紀』では忍熊王は滋賀の宇治川で死んだことになっているが、『記』では海で死んだ、とある。出てくる地名も「難波・淡海=博多湾とその周辺」「山代=豊前京都郡犀川付近」であると考えられるからである。この件は拙著『熊襲は列島を席巻していた』(ミネルヴァ書房 2013年)でも扱った。お読みいただきたい。

『古事記』は著述されて(712年)から鎌倉時代に発見されるまで4百年以上もの間がある。その間、なるべく『書紀』の記述に合うように記述の削除などが行われたふしがある。この件については神社の言い伝えの方が正しいと思われる。

これまでの小生の追究で『日本書紀』は、「継体天皇」「神武天皇」など北部九州に実在した天皇の諡号(贈り名)をパクって大和の王に差し替えていた疑いが生まれていた(ブログNO.1314及び31)。ひょっとすると「応神天皇」の諡号もそうなのかもしれない。『書紀』の歴史改ざんの深さ、罪深さは計り知れない。

看板に記された年中行事も興味深い。「7月第一日曜」に「夏越(なごし)の大祓(はらえ)」を行うという。「大祓」は1223日にも行われる。「大祓」は一年間のさまざまな「悪行」「災難」を吹き飛ばし、新たな年の幸いと無事を祈る行事である。

このブログ(NO.1315など)でも何回かふれたが、『魏志』倭人伝に引く『魏略』の記述「倭(ヰ)の人は正歳四節を知らず。ただ春耕、秋収をもって紀年となす」が実際に行われ、日本列島でも現在の一年を二年間とする「二倍年暦」が広く行われていたことを実証する行事である。古代史をひも解く重要な一視点である。若宮八幡神社の由緒深さと伝承の正しさを物語る行事でもある。

20173月)