ブログNO.47 九州政権実在のデータ 詐欺的手法で抹殺図る | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」
内っちゃん先生の「古代史はおもろいで」

ブログNO.47

九州政権実在のデータ

詐欺的手法で抹殺図る

 

 去年12月はブログの掲載を休んだ。年末で忙しいかったわけではない。が、ちょっと休みたかっただけである。怠け者の面目躍如だ。年頭に当たってこれまで当ブログで紹介した九州倭(ヰ)政権に関する様々なデータのうち主なものをまとめてみよう。題して「九州倭政権実在のデータ」。知り合いの考古学研究者や自治体、マスコミの編集局長らにお送りしたものである。

 

 その前に余談をひとつ。

いかがわしい古代史を書くように命令したのはまず間違いなく藤原不比等という男だ。7世紀末、女帝の持統〝天皇〟に取り入ってあやつり、新政府での自らの権力を高め、政権を牛耳るため、新政権がいかにすばらしい歴史を持ち、正当な権力者であるかを装うためにいかがわしい歴史書『日本書紀』を作らせた。

不比等はその為にまず、持統5(691)年に紀氏や阿部、蘇我など18の主要氏族が作っていた「墓記」を没収。さらに和銅元(708)年に「禁書令」を出して、それまで列島を支配していた九州倭(いぃ)政権の〝史書類〟を強奪した。それまでの歴史事実を消し去り、すべてが自らの政権が行ったことであるという虚偽の歴史を宣伝するためである。

 九州倭(ヰ)政権の天皇に送られた諡号(贈り名)を、あたかも奈良・大和の「地方政権」の権力者に送られたものと勘違いするように書かせ、宣伝に力を入れた。

 不比等が強引に進めたいかがわしい政策は息子や孫に引き継がれ、各時代の権力者は巧妙に「天皇」を利用した。さらに明治維新政府も自らの政権を世間に認めてもらうために天皇制を強化して思想規制を強力に推し進めたため、「いかがわしい歴史」は今日まで1300年もの間生き続けてきたのである。

 国史や考古学の研究者らは無知を装い、あるいはその能力のなさから『日本書紀』こそ真っ当な日本の古代史が記録されている、と市民に教えてきた。なかにはいかがわしい古代史を守ろうと、積極的に「物証」の隠ぺいに力をいれ、証拠の秘匿を図るものも現れる始末である。

 人をだまして金品を手に入れることを世間では「詐欺師」と呼ぶ。市民をだましながら市民の税金をむさぼる行為は、まさしく「詐欺師」と呼ぶのにふさわしい。

 だが天皇家は、まず間違いなく自分たちが何時から天皇の地位に就いたかを御存じだ。昭和天皇は「お言葉」のなかで「我が国は律令国家として始まった」と繰り返し述べられていた。「律令の開始」はまさしく701年の「大宝律令」、あるいは直前の「飛鳥浄御原令」から始まるとされている。

 宮内庁は今すぐにでも「いかがわしい古代史」の象徴とでもいえる7世紀以前の「陵墓」や「陵墓参考地」の指定を解除すべきである。それが「象徴天皇」としての役割を懸命にお勤めになっている現天皇家に報いる方策だ。現天皇家の歴史は天皇家としては奈良時代に始まったとはいえ、世界に冠たる長い歴史と伝統を持つ。現世の首相より上に立つ存在があるということは悪いことではないかもしれない。ただ、戦前のように天皇家が利用されないよう、厳しく見守る必要はあるが・・・。
 

【九州倭政権 実在の証拠とデータ】

1) 大和政権が初めて建てた年号は701年の「大宝」である、と『続日本紀』は明言している。それ以前に九州倭(いぃ)政権が522年から建てた「九州年号」があり、「古事記」「日本書紀」以外の数多くの史書に明記されている(「奈良時代の日本の正史・続日本紀」、「二中歴」、「奈良・興福寺年代記」、「長野・善光寺縁起」「鹿児島・入来院家文書・日本帝皇年代記」「宣教師・イアン・ロドリゲス・日本大文典」、「朝鮮の史書・海東諸国紀」など)。さらに神社の縁起など青森から鹿児島まで全国で約400件の実際の使用例が見つかっている。最近でも江戸時代にこの年号を記した文書が発見されている。この年号の存在が当時でも一般の人の常識であったことがわかる。

年号を制定し、時の指標とさせることができるのは「政権」や「天皇」だけである。701年以前、列島で年号を建てる権限をもっていた、すなわち列島を支配していた「天皇」は九州倭(ヰ←いぃ)政権の天皇であったと考えるほかない。

『日本書紀』に「大和政権」には「大化」「白雉」「朱鳥」などの年号があったとされるが、これらの年号はいずれも「九州年号」のなかにある年号である。「大化」は教科書などで「大化の改新」として知られる。しかし、これについては初めて現れる年号であるのに「改元」(孝徳天皇紀)などと記し、九州年号のそれより50年さかのぼらせて「大和政権」に存在したかのように偽っている。「白雉」「朱鳥」も同様で、九州政権の史書(雄略天皇紀などに記される「日本旧記」)からそっくり盗用したものと考えられている。最後の「大長」は721年の熊曾於族(熊襲)殲滅直前まで続いていたという記録もある。

 この年号について「年号学者」という久保常晴や所功は「鎌倉時代にどこかの僧侶がでっちあげた年号だ」と結論し、古代史学会はそれに追随し、頬かむりを続けている。奈良時代の724年(神亀元年)の聖武天皇の詔勅の中に出てくるのに何で「鎌倉時代にでっちあげられた年号」なのか。「九州年号などなかった」というのなら、全国の史書に記されているこれらの年号や実際の使用例約400件のすべてが「うそや偽作である」という証拠を提出すべきである。この年号の存在について古代史学界はほっかむりを続け、市民を愚弄し続けている(当ブログNO.6参照)。

 

2) 日本独自の古墳の形とされる「前方後円墳」について考古学研究者の多くが「大和政権が採用した古墳の形である」とし、これが全国にあることで「大和政権」が3,4世紀ごろから全国を支配していた証拠だと解説している。

 

ところが発掘された近畿の主要な前方後円墳(大王墓とされる)などの多くに九州・熊本で造られた石棺が納められていることがわかってきた。考古学研究者の多くがこのことに頬かむりをしている。死者の尊厳を保つため、伝統の方法で葬むったことは明らかであり、死者は「大和の人」ではないと解釈すべきだ。

そして、全国の「前方後円墳」について放射性炭素(C14)による年代測定など確実な年代測定をしないままホケノ山古墳や箸墓など大和の一部の古墳だけについて年代測定をし、「大和の前方後円墳が一番古い」などと誰が聞いてもおかしいと思われるいかがわしい見解を出している。

これは「日本では大昔から政権と言えるのは大和にあった政権だけである」と解釈される「日本書紀」の記述を鵜呑みにした説であり、それ以外の根拠は全くない。

「九州製石棺」問題は、近畿の前方後円墳などに葬られているのは九州倭政権(熊曾於や紀氏族主体)から派遣された官人が葬られている、と解釈すべきであろう。

「前方後円墳」の副葬品の中に貝製品を模したお守り(魔除け=石釧、鍬形石など)が数多く存在するのも、被葬者が九州の鹿児島、宮崎、熊本、大分などに渡来し、日本人化した東アジアの南方出身者である証拠であると考えるほかない(ブログNO.5、7,8参照

   宮内庁が定めている「陵墓」や「陵墓参考地」も「日本書紀」の記述に沿った後の時代の指定であり、誤りであることは言うまでもない。

3) 考古学界は、古墳時代以後(2世紀以後)の全国の遺跡についてその年代を推定するのに多くの場合「土器編年方式」を用い、その質や形状で年代を決め、公表している。この方式は「全国の土器(須恵器や土師器)は大阪・陶邑(すえむら)で一元的に作られた土器が配布されている」とし、九州も東北も土器は同じ年代であるとしているという見解だ。

ところが、少数ながら実施された放射性炭素(C14)による年代測定ではそのような事実はないことがはっきりしている。特に7世紀以前の九州ではその差が大きく、同じような形の土器でも近畿より150年~300年古いという結果がでている(ブログNO.5参照)。放射性炭素による年代測定は最も正確な年代測定法とされ、世界中の考古学界がこの方法によって年代を決めている。

   福岡県教委などが「7世紀後半に建設された大和政権の出張所である」と公表している「太宰府」の遺跡では、同じ時代に建設されたという防衛施設「水城(みずき)」の下部に敷設された「敷きソダ」をC14測定したところ、最下層は240年±、中層で430年±、修理をした際の最上部で660年±であった。「水城」に用いられた木樋や外交施設「鴻臚館(こうろかん)」のトイレなどでも430年±の測定値が出ている。

   九州の考古学界は違う結果が出てきたためもあって、その後C14など理化学的な年代測定を意図的に忌避している。遺跡の年代、解釈が誤っていることは明らかであり、この問題をこのまま放置することは古代史の事実を求め、付託している市民への重大な裏切り行為である。

)  太宰府の朝堂院地区には天皇がいたことを示す「ダイリ(内裏)」「シシンデン(紫宸殿)」などの小字名が残っており、付近一帯は今も列島で唯一「都府楼」(都督の役所の建物)と呼ばれている。5世紀に中国・宋などから「倭の五王」に贈られた「都督」の位を受けた王がいた(「宋書」「南斉書」)ことを立証している。

)  「太宰府」は「大野城」「金田城」「鹿毛馬城」「唐原城」など30基近い山城で、周辺を厳重に守られている。が、大和・奈良にはこうした防御施設はまったくない。全世界を通じてこのような「支配者がいた都城」例はない。首都ではない証拠である。唯一築いたという「高安城」は土塁や倉庫跡など確かなものはなく、時期もはっきりしない。おそらく九州倭(いぃ)政権が反乱を恐れて作らせなかったのだろう。

いわゆる「畿内」で、奈良国立文化財研究所や奈良県立橿原考古学研究所の発掘調査で、7世紀以前の「都」を示す遺構はまったく発見されていない。古墳時代まで大和に都があったという証拠はなく、この時期の「大和政権」はまったく「絵空事」「虚構」としか言えない。

 「667年に造った」と「日本書紀」に記載のある対馬の「金田城」についても、長崎県教委の発掘調査、C14測定で、土塁は二重になっていて、当初の土塁は450年±に築かれたことが分かっている。「大和政権が築いた」というのは虚偽であることがわかる(拙著『太宰府は日本の首都だった』参照)。

6) 客観的に日本のことを記録した中国の史書のなかで『隋書』は「国のなかに阿蘇山がある国」の倭(ヰ)国の男王「タリシヒコ(帯彦、あるいは足彦)」600年、隋の煬帝に「日出るところの天子」と称して使いを送った、と記す。「日本書紀」によると当時の天皇は女帝の推古天皇であると記されており、全く違う。「日本書紀」は隋からタリシヒコの都を訪れた使節団(608年)を「唐から来た」と偽って載せ、使節団長「裴清」の名も「裴世清」と違う名前にして、あたかも使節団が大和にあった都を訪れた如くごまかしている。タリシヒコの都は豊前・京都(みやこ)郡にあったと考えられる。(ブログNO.1617参照

7) 「隋書」の次の中国の正史「(旧)唐書」は「倭国」と「日本」を別立てにして記録し、「倭は古(いにしえ)の倭奴(いと=伊都、怡土)国である」とし、「日本(大和政権)は倭の別種である」と明記している。

唐はいわゆる「白村江の戦い」(663年)を戦った相手であり、当然ながら戦いの相手がどの政権(九州倭政権)であったかは熟知している。唐の占領軍が太宰府、あるいは吉野ヶ里東側の遺跡に進駐しているようだ。この戦いの敗戦をきっかけに九州倭政権は力を失い、大和の勢力に支配権を奪われることになったと考えられる。「日本書紀」はこの辺りの事情や戦争の実際、政権交代の事実を全く記述していない。

8) 「倭の五王」(讃、珍、斉、興、武)は紀氏と熊曾於(熊襲)族が合体した氏族の末裔であるという。このことを記した系図(松の連・姫氏系図)が国会図書館の蔵書の中と静嘉堂文庫(東京・世田谷)にある。(ブログNO.2参照

9) 『日本書紀』は(大)和政権が列島の支配権を九州政権から奪った後、自ら編纂した(720)全く客観性のない〝史書〟であり、真実の歴史を語るものではないことがわかる。国史学界はこのことに頬かむりしている。自供のみで罪を問い、冤罪が多発するのと同じ構図である。

10『常陸国風土記』では「記紀」に記されない「倭武(ヰブ)天皇」が大活躍している。東北、海北(朝鮮)を平らげた、と記され、「宋書」に記された「倭の五王」の一人で「都督に任ぜられた武王」の「上申書」の内容と合致する。国史学者らはこの「天皇」を「ヤマトタケル」のことだ、とごまかしている。が、彼が天皇になったことは一度もない。明らかに太宰府にいた「武王」がすでに支配下に置いていた東北を巡視したことを記録していると考えられる。これは関東、東北に虎塚古墳など、九州で発生した彩色壁画古墳と同じものが多数築かれていることでも証明されよう。「常陸(日立)の国」は列島の中で前方後円墳がもっとも集中して築かれている地域であり。元来は「行方郡は紀の国」と言ったと同「風土記」は伝える。

11) 「万葉集」などでも太宰府を「遠の朝廷」と詠んでいる(巻3-304 柿本人麻呂 「筑紫に下しり歌」など)。

大王(おおきみ)の遠の朝廷(みかど)と蟻通ふ 島戸を見れば神代し思ほゆ

 (島戸→福岡県の博多湾、或いは遠賀郡) 

12 古代天皇の一人「継体天皇」の都は福岡県朝倉市にあったことは確実と考えられる。息子の「安閑」「欽明」なども田川、飯塚、京都郡など「豊の国」に都していたと考えられる。「継体天皇」は初めて「九州年号」を制定した天皇として記録され、「日本書紀」は大和の王と思われる別人を「継体天皇である」と偽っている。(ブログNO.1315参照

また「景行天皇」は福岡県久留米市、あるいは鳥栖市周辺に、「崇神天皇」は遠賀川河口付近に都していたと考えられる。(ブログNO.34参照)

13中国の史書に登場する「倭」を「わ」と発音するのは明らかな間違いである。中国の正史は中原北方の「漢音地域」で著述され、読まれたものあり、「ヰ(→い)」の読みしかない。「わ」の読みは南方の「呉音」地域の読みである。後漢時代の字典「説文解字」を見ればはっきりとわかる。同様に「奴」も「な」でなく、「ド」あるいは「ト」としか読めない字である。小、中、高の教科書は誤ったルビをふり続けており、このこときちんとしないと、日本列島の古代は解明できないし、市民に誤った歴史観を教え続けることになる。(ブログNO.11参照)など。


≪拙著「謎の巨大氏族・紀氏」(三一書房)「太宰府は日本の首都だった」「卑弥呼と神武が明かす古代」「熊襲は列島を席巻していた」(いずれもミネルヴァ書房)。インターネットブログ「うっちゃん先生の 古代史はおもろいで」などから≫                                                         (内倉武久記)