ブログNO.39 秦の工芸品に巴紋が!!   日本の巴紋との関係は? | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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ブログNO.39

秦の工芸品に巴紋が!!

 日本の巴紋との関係は?


先日、大阪の国立国際美術館で催されている「始皇帝と大兵馬俑」展を見に行った。この展示会は去年10月の東京に始まって福岡、大阪とロングランの展覧会だ。102日で終わるらしいので、そろそろ見に行こうと腰を上げた。

 「兵馬俑」展は以前からいろんな団体が何回か催していて、別に珍しいものではない。が、何回行っても新しい発見がある。今回は国立博物館などが主催するもので、より多くのものが展示され、見応えも格段にある。

特に「始皇帝」を生んだ秦についてその来歴や文化の紹介などにも力を入れていたのが目新しい。日本列島で渡来人として多くの足跡を残している「秦氏」は、「自分らは秦の始皇帝の子孫である」と自称している(『新撰姓氏録』)。福岡県の東部、豊前に最初の根拠地があり、関西の京都周辺に進出して大きな集団を作ったらしい。権力を動かすほど大きな力を持っていた。

「秦の始皇帝の子孫」かどうかについては、本当かどうかはわからない。が、いずれにせよ元来、中国の奥地である青海省や甘粛省に住んでいた人々で、「姜(きょう)族」とか「西戎」と呼ばれていた人々らであろう。「秦国」を支えていた人々であった可能性は高い。

「西戎」は、日本の熊曾於(熊襲)族のご先祖と思われる「犬戎」と協力して周の国を滅ぼしたこと(司馬遷の『史記』=紀元前771年)でも知られる。強力な武力を誇った氏族である。

豊前・京都郡に都していたと考えられる「タリシヒコの倭(い)国」とその周辺は『隋書』にいう「秦王国」であろう。多くの「秦さん」が住んでいたことが奈良時代の戸籍に残っている。「竹斯(筑紫)国の東にある」という位置もぴったりだ。隋の使節団は「そこの人々は華夏(の人々=中国の古代国家「夏」)と同じである」と報告している。

39-1 それはそうと、秦の陶芸品「陶胎漆鼎(とうたいしつてい=写真。同展の図録から)や同じ作りの壺に日本でよく見かける「巴(ともえ)紋」が見事に描かれているのを見てびっくりした。この工芸品は陶器製の鼎(かなえ=てい)に漆(うるし)を塗り、図柄を描いたものである。写真ではよくわからないが、ふたの中心部分に描かれている。


「巴紋」は、日本では弓を引くときひじに巻く「鞆(とも)」をもとに発生した紋であるとされる。が、中国では元来「地虫」や「蛇」をイメージし、巴や渦巻として表現されたものであるという(『家紋大図鑑』丹羽基二著。秋田書店)。ほかに中華どんぶりのふちに描かれている「雷紋」や「流水」、「ワラビ手」から発生したのではないかという説もある。

同図鑑によれば、中国では周代から「三つ巴」でなく「一つ巴」や「二
39-2 つ巴」の紋様があり、南部ロシヤやシベリアのスキタイ族、スペインのバスク族なども用いていたという。各地で自然発生的にできた紋様なのか、東アジアの紋様が汎世界的なものになったのかはわからない。

豊前宇佐神宮、京都の石清水八幡、八坂神社、下総の香取神宮、常陸の鹿島神宮、紀伊の熊野神社、大阪の生国魂神社、奥羽の月山神社など多くの神社がこの紋を使っているという。

神社やお寺の瓦の先端に使う「瓦当(がとう)などによく使われるのは、水を表す渦巻から流水の形になり、防火のまじないとして用いられているという。

豊前・宇佐神宮に行ったとき見たのは「一つ巴」と「三つ巴」、その上に「渦巻文」らしきものが合わさった紋であった。宇佐神宮と氏子の集落をつなぐ「呉(くれ)橋」に使われていた(写真)。

このほか、高野山金剛峰寺の来迎図の中の太鼓の模様として、また藤原道長の吉野金剛山・経筒、宇治平等院壁画の中の太鼓の模様などに描かれ、このあと鎌倉時代以降、戦国大名ら各氏が用いるようになったという。


『大図鑑』の著者・丹羽氏は日本の「巴紋」は日本独自の紋様ではなかろうか、と考えているようだが、筆者はそうとは思えない。「紋様」や「家紋」はそれを用いる人々の来歴、誇りなどを強調して皆に伝えようとするものであるから、そこには何らかの深い意味がある。

「秦氏」は「巴紋」を掲げた宇佐神宮を含む豊前の大豪族であったし、「巴紋」を使った神社のほとんどが中国からの渡来人「紀氏」や「熊曾於族」「天族」と関係の深い神社だ。

たとえば京都の石清水(いわしみず)八幡は「紀氏」が建立した神社であり、宇治平等院の地は「熊曾於族」の一支族「内氏」が進出して住み着いた地である。「宇治」は「和名抄」に「宇知」とルビを振っているように、元来「うじ」でなく「うち」と発音すべき地名で、旧宇治(内)郡だ。ここには横穴墓や、横穴墓と勘違いされている熊曾於族の「地下式横穴墓」が数多く存在する地域である。

紀伊や熊野、常陸、房総、奥羽なども同様なことが指摘される(拙著『熊襲は列島を席巻していた』参照)。


展 示物とは関係な いが、「紋」というと「五三の桐」「五七の桐」紋も興味深い。九州政権に関係する神社、例えば久留米の高良(こおら)大社など九州の多くの神社に掲げられ ているのがこの紋である。神社の伝承によるとこの紋はもともと福岡市博多区の住吉神社の紋であったという。

「七枝刀(しちしとう)」を掲げる使者や王(天皇)の人形を飾る福岡県山門(やまと)郡瀬高町太神(現みやま市)の「こうやの宮(磯上物部神社)」の天皇の胸にもこの文様が描かれている(拙著『太宰府は日本の首都だった』P.176頁参照)。

この件で興味深いのは今、総理大臣が演説を行う台の正面にこの「五三の桐」が描かれていることだ。この紋のいわれを知っていて使っているのかどうかはわからないが・・・。福岡・志賀海神社などで古代から唱えられている九州王朝の王をたたえる歌「君が代」が日本の国歌となっていることとともに見逃せない。

木下藤吉郎こと「関白」豊臣秀吉も「豊臣」を称するに際してこの紋を使った。「豊臣(とよとみ)」、すなわち「豊の国の臣下」だとしたからこの紋を使ったのだ。

また、種子島の広田遺跡でも数多く発見されている貝附(貝札)の原形とも考えられる「玉佩(ぎょくはい=写真左。図録から)も目を引いた。秦の南にあった楚国の製
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との説明がある。玉石に彫られた文様が何を主体にしているのか判然としないが、首からぶら下げる飾りの一種らしい。真ん中付近にひもを通す穴が横向きに貫通している。広田遺跡の貝附(写真右」にも両肩に紐をつける穴があけられていて、使い方も共通しているらし。(
20169月)