ブログNO・15「安閑天皇の都」も北部九州にあった | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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「安閑天皇の都」も北部九州にあった

 

  国史学者らが「鎌倉時代にどこかの僧侶がでっちあげた私年号だ」として無視を決め込もうとしている「九州年号」は、実は奈良 時代の大和政権の史書『続日本紀』にも記録され、さらに鹿児島から青森までの全国各地で約400件もの使用例が発見されていた。国史学者らはその実在について言い訳が通らない事態に追い込まれているといえる。

 この「九州年号」の追求からこの年号の創始者であった五~世紀前半の「継体(けいたい)天皇」の 御陵や都が福岡県朝倉市にあったことが判明した(ブログNO・13、14参照)。さらに追求を深めたところ継体の次の天皇「安閑(あんかん)天皇」の都も 同様に福岡県田川郡香春町一帯にあったらしいことが判明した。「継体の都」から北へ山一つ越したところである。報告したい。

小、中、高校、さらに大学の日本史教科書がいう「大和政権」は、実は全くの虚構であることがはっきりとした。国民のすべてが文部科学省の役人らによってのウソ八百の歴史を習わされていたわけである。とんでもないことだ。

 

「安閑天皇」の都「勾金」に官庁街遺構

 

『記紀』による と、「安閑」の都の名は「勾金の橋(箸)の宮」という。「『記紀』に記す天皇はすべて大和にいた」と勘違いしている国史学者らは「まがりのかなはしの宮」 と読んで、奈良県橿原市曲川(まがりかわ)がその遺称地だと主張している。岩波書店の権威ある史料として名高い日本古典文学大系『日本書紀』や『古事記』 もそう解説している。


15-1 しかし、都の名は「勾金(まがりかね、あるいは、まがりのかねのはし)の宮」であって決して「曲川」ではない。奈良県立橿原考古学研究所がこの周辺を発掘調査したが、それらしい遺構はまったく発見できなかった。当然の結果であろう。

宮内庁は安閑天皇の御陵を大阪府羽曳野市古市にある前方後円墳(写真)であるとする。しかし、ここには「安閑天皇」と古墳を結び付ける伝説など全くない。平安時代に作られた「延喜・諸陵式」の記載に基づいた指定である。「安閑」は大和にはいなかったのだからこれまた当然だ。

今、 福岡県の東 端、田川郡香春(かわら)町に「勾金(まがりかね)」の地名が残っている。『書紀』によれば、田川郡一帯は古くは「高羽」とか「鷹羽」という誇らしく雄大 な名の場所で、「豊(前)の国」に属する。熊曾於族の夏礎(なつそ)姫が君臨していたといい、「夏吉」という地名も残っている。

 

香春町一帯は銅な どの鉱物や石灰の一大産地として知られる。この地域のシンボル的山は香春岳である。郡内のあちこちから眺められる。三つの山塊が南北に並び、現在は上質紙 の製造やセメントに使う石灰の産地である。一の岳(たけ)は山の頂上付近から順に採掘が進み、山塊は半分ほどに削られて今は見る影もない。「採銅所」の地 名もある。古来、宇佐八幡に奉納される鏡もここで造られてきた。

 

香春町の隣は田川市、大任(おおとう)町、赤村、川崎町で、北側は北九州市小倉南区である。大任、川崎町一帯は往古「桑原」と呼ばれた地域である。「安閑」がいた場所を探すには、『書紀』に記録された「屯倉(みやけ)」の所在地を探れば手っ取り早い。

それによると「安閑」は、この勾金のすぐ南側に「桑原の屯倉」を設置、赤村にも「我鹿(あか)の屯倉」、大任村に「喜原の屯倉」(『太宰府管内志』)を置いた。15-2
 

さらに周辺の「穂波」「嘉麻」「滕崎(しつさき?)」「肝等(かとの?)」「大抜(貫)」にも置いたという。「大抜(貫)」は京都郡苅田町境いの小倉南区にある。

「みやけ」は「官家」とも書く。これは天皇家の直轄地とされる。「屯倉」は軍事的な施設で米などの食料や武器の貯蔵施設である。

『日本書紀』によれば、「安閑」はこのほか「火の国」「播磨」「紀国」「尾張国」「駿河国」などにそれぞれ一、二か所屯倉を置いたという。が、なぜか田川郡とその周辺に七か所もの屯倉が集中して置かれたという。

 それは「安閑天皇」の都がここにあったからである、と考えざるを得ない。本拠地周辺に軍事的な防衛施設を設けたり、緊急用の備蓄米などを置くのは古今の常識だ。大和にあったという都を守るのに、とんでもない遠地の九州に備蓄物資を置いてどうするのか。

 ただ『書紀』には奈良や大阪の小墾田(おはりだ)、桜井、茅渟(ちぬ)山にも屯倉を設けたと記される。国史学者らはこれら三か所の屯倉は、「大和政権の安閑」が身近に置いたものだろうと考えている。

「小 墾田の屯倉」 についてはよくわからないが、「桜井の屯倉」が奈良の桜井市のどこかに置かれたとすると、話は違ってくる。この周辺の古墳からは九州製の石棺が数多く発見 されている。たとえば慶雲寺古墳、ミクロ谷古墳、兜塚古墳などがそうだ。発掘調査が進めばもっと増えるだろう。しかも、当地には朝倉、三輪、海石榴市(つ ばきいち)など北部九州と同じ地名がたくさんある。要するにここにいたのは九州政権の人々であり、関西における拠点の一つであったと考えてよさそうな地域 なのだ。

「茅渟山の屯倉」が置かれたのが大阪府和泉市周辺であるとすると、ここにいたのは九州政権の主要メンバーであった紀氏と大伴氏、熊曾於族の内氏らであったらしい(『書紀』雄略紀・紀小弓の項など)。いずれも九州政権の中枢部にいた氏族の分派である。

要するに「大和政権」とは関係のない「屯倉」であると断ぜざるを得ないのである。あるいは同じ地名がある九州内に置かれた「屯倉」かもしれない。国名を記していないからだ。

  『書紀』は同じ地名が各地にあるのを利用して、たくみに古来から列島の中心は大和・畿内にあったかのように記載している。わ ざと国名を記さず、国史学者らが北部九州の地名を奈良や大阪の地名であると勘違いするように仕向けている。歴代の国史学者らの「思い込み」による対応は実 にずさんきわまりないといえよう。

 

注目される「浦松遺跡」の官庁街遺構

 「勾金」では整備された官庁街の遺構も発見されている。遠賀川水系金辺(きべ)川の支流のひとつ「御祓川(みはらいがわ)」の東側で発見された。浦松遺跡(写真 矢印。後方は香春岳一ノ岳。福岡県教委発掘調査報告書から)である。方向をそろえた大型建物の跡が少なくとも八棟分発見されている。貴人が住まったり、大極殿にも使われた庇(ひさし)付の建物跡もある。


15-3 出土した土器から、奈良時代の遺跡、とされている。しかし奈良時代にこのあたりに「官庁街」が建設されたというデータはなにもないし、その必然性もない。九州の土器は近畿の同じ形の土器より百五十年ないし三百年ほど古いことが放射性炭素(C14) の年代判定でわかっている(「太宰府は日本の首都だった」ミネルヴァ書房、ある いはインターネットブログ「うっちゃん先生の古代史はおもろいで」NO・5「九州の土器は古い」参照)。九州歴史資料館など九州の考古学研究者のなかには このことにことさら目をそらし、相変わらず土器による年代判定のみにこだわり、結果的に日々いかがわしい古代史像づくりに励んでいる人が多い。もちろんこ こ浦松遺跡でも理化学的な年代測定はいっさいされていない。

現在採用されている「土器による年代判定」は、古来九州は辺地であり近畿より文化度が低かった、という思い込みによる「年代判定」である。とんでもないことだ。放射性炭素の年代測定は全世界の物理化学界、考古学界が支持しているもっとも確実な年代測定法である。

浦松遺跡は安閑の都の一部である可能性が高い。周辺の地下からは時折「巨木」が発見される。都への導水施設か建物の用材、あるいは何らかの防御施設の跡であろうと思われる。柱の残痕や木材を放射性炭素によって年代測定をすればすぐに時代が判明しよう。

 

お后の出身地も田川郡周辺に

 

  大任町にある桑原神社の祭神のトップは「安閑天皇」だという。昭和三十一年、榊原宮司の覚え書きにはっきりと記載されてい る。安閑と神社を結び付ける伝説が今は伝えられているかどうかわからない。しかし、安閑がこのあたりに都を置き、かつ「桑原の屯倉」も置いていたという 『書紀』の記述からすれば、神社は安閑と深い関係にあったことが偲ばれる。

『書紀』によると 安閑は、三十五歳前後で若死にし、在位年数も二年ほどしかなかったらしい(注1)。九州から関東、東北までの支配権を「筑紫の君・磐井(いわい)」から 奪った偉大な父親「継体」の跡を継いだものの、自らの勢力を構築する間もなく、この世を去ったらしい。継体が死ぬ直前に譲位されたとも書く。対外的な業績 はほとんどなかったようだ。

父親の「継体」の後ろ盾は熊曾於族の「三島の宿祢(すくね)」で、「継体」自身も熊曾於族ではなかったかと推察した(同ブログ)。『書紀』安閑紀にそれを裏付ける記述があった。国々に「犬養部(いぬかいべ)を置く」ように命令したという。なぜ「犬を養育する施設」を国ごとに置くよう命令したのか。おそらく熊曾於族がもっていた「犬祖伝説」を具体化し、犬を尊重する施策であろうと考えられる。ただ単に「犬好きの天皇」という理解では考えられない施策である。息子が熊曾於族なら、父親も当然熊曾於族であろう。

また、「安閑」の后(きさき)は春日山田皇女(はるひのやまだのひめみこ)という。国史学者らは「春日」を「かすが」と読んで、安閑が大和の奈良の春日と関係があるかのごとく考えている。

だが地図で見る通 り、勾金の西南、田川市に「春日町」「春日橋」「春日神社」、嘉麻(かま)市に「山田」の地名が残る。「山田」は朝倉郡や京都郡などにもあり、かなり広い 地域をそう呼んでいたと思われる。「春日」の西南には「口春(くちはる)」という地名もある。「春日」への入り口、という意味である。であるから、ここの 「春日」は「はるひ」と読むべきではなかろうか。

『記紀』によればお后(きさき)は又の名を「山田の赤見の皇女」というという。「勾金」の南側、「赤村」との関係もありそうだ。ここには現在も「我鹿(あか)神社」が鎮座し、「我鹿の屯倉」が置かれたところでもある。

「春日」の東側一帯は古来「奈良(なら)」と呼ばれていた。「勾金」の東側も古来「大坂」と呼ばれ、「大坂山」(飯岳山)がある。その東側は「京都(みやこ)」と呼ばれる。

  関西の地名の多くは九州からもたらされたものであろう。中国、朝鮮に近く、権力の発生地でもあった九州から人々の移動にとも なって、地名も関西、関東、東北へと広がっていったのである。この地域一帯に住んでいた人々が関西に進出し、そこに故郷の名前をつけたと考えられる。

后は代前の「仁賢天皇」の娘であるという。事実であるとすれば当然、「仁賢天皇」もこの近くにいたことになろう。

 

「倭国」の所在地は田川、京都郡

 

 

周辺の地名「位登(いと)」は「伊都」、「糸田」は「伊都田」、「猪国」は「伊国」の書き換えであろうと思われる。八世紀になって大和政権が権力を掌握したために、報復を恐れて、あるいは正体を隠すために文字の書き換えが行われた。そう考えたい。

中 国の史書『旧唐 書』には「倭(い)はいにしえ(古)の倭奴(いど=伊都)国である」と記録されている。神武〝天皇〟が福岡県糸島市にあった「伊都国」を追われ、大和へ逃 亡した(注2)。そのあと、伊都の住民は高羽(田川)に移動したのだろうか。『魏略』と『魏志』の記述から、伊都国の人口は「倭(い)国の大乱」の結果、 「一万戸」から「一千戸」にと十分の一に激減したことがわかっている。

そして残存勢力と卑弥呼勢力らは新しく「倭国(伊国?)」を作った。その結果、この地域に糸島の地名がつけられた。新しい国家「倭国」が従来の宗主国「伊都国」の正当な権威を引き継いだ国家であるということを主張したいがためでもある。そうも考えたい。田川、京都(みやこ)郡地域、「豊の国」は中国の史書に言う「倭国」の中心地のひとつであった可能性も考えなければならない。

 

 注1 二倍年暦の使用。ブログNO、1「神武天皇」の項参照

注2 拙著「卑弥呼と神武が明かす古代」(ミネルヴァ書房)二〇〇七年 参照

      (20157月)