『蘇我氏三代』① | 古代史ブラブラ

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古墳・飛鳥時代を中心に古代史について綴ります。

奈良国立文化財研究所(奈文研)飛鳥資料館で購入した『蘇我三代』における興味深い内容を以下のとおり記す。

 

・蘇我氏が歴史の舞台に登場してくるのはずいぶん時代がくだってからで、同じ飛鳥の大貴族といっても、物部氏や大伴氏などのように、神話・伝説の時代から様々な場面にエピソードを残し、連綿とした系譜を誇る諸豪族とは異なる。

 

・蘇我氏の起源について、①それまで目立たなかった日本在来の一族が次第に力を蓄え、飛鳥時代の直前になって政治の表舞台に躍り出たという見方と、②朝鮮半島から日本にやってきた渡来人が、新しい知識と技術を武器として、経済的な基盤を固め、権力の中枢に座を占めるようになったという見方があるが、どちらも決定的な証拠はない。起源の問題はどうあれ、蘇我氏の力が渡来系の人々に支えられたものだったこと、権力への道が外来の技術と知識によって開かれたものだったことは確かである。

 

・5世紀の末ごろ、蘇我氏の先祖は、現在の橿原市曽我町のあたりに本拠を置く。現在、宗我坐宗我都比古(そがにいますそがつひこ)神社、入鹿神社がある。6世紀に入ると、曽我川に沿って、南に勢力を広げ、畝傍山の南をまわりこんで桧隈・身狭(むさ)・飛鳥といった地域を支配するようになる。この地域には古くから、多くの渡来人が住み着いていた。

 

・渡来系の一族、坂上氏や、日本書紀によれば、倭漢(やまとあや)氏の先祖となる阿知使主(あちおみ)は、応神天皇の時代に多くの人民を連れて渡来し、桧隈に住んだ。雄略期にも、新しく渡来した技術者、陶工、馬具職人、画工、綿綾の職工を桃原・真神原に移住させたという記事や、呉から連れかえった技術者たちを呉原に住まわせたとする記事がある。

 

・飛鳥地域に進出した蘇我氏は、根をおろしていた渡来人の集団を自分の勢力下におさめていく。蘇我氏は、東西漢氏とよばれる大和・河内に住み着いていた渡来系氏族全部の統領とでもいった地位を占めるようになる。

 

・日本書紀では、536年、「蘇我稲目宿禰を以て大臣とする」とあり、新旧の渡来人の知識と経済力を土台として、政治の表舞台に蘇我氏が登場してくる。宣化天皇は、桧隈廬入野(いおりの)を宮殿とした。渡来人の拠点である桧隈という土地柄を考えれば、天皇の擁立、宮地の選定に蘇我氏が深く関わっていたことは想像にかたくない。稲目の時代に、蘇我氏は天皇家と関係を強め、その諸分家もそれぞれの勢力を確立していく。馬子・蝦夷・入鹿と続く、蘇我氏の権力と繁栄の基礎は、このときに用意されることになる。