橿考研付属博物館⑬:『大和の考古学』⑫ | 古代史ブラブラ

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古墳・飛鳥時代を中心に古代史について綴ります。

橿考研付属博物館の常設展示に関する説明を続ける。

 

・7世紀後半になると、大きな墳丘の古墳はほとんど造られなくなり、石室の規模もとても小さくなっていく。中国や朝鮮半島から伝わった新たな統治・社会制度の導入とその浸透によって、古墳の規模や構造で示していた身分秩序や関係性は意味を失っていき、薄葬化が進んだ。8世紀になると、持統天皇が火葬されたことを川切りに、貴族や上級官人らを中心として火葬が流行していく。

 

・飛鳥時代の石室は、古墳時代のゴツゴツした大きな石の印象とはまったく違う。表面を平らに整形した切り石を積み上げ、漆喰を塗って仕上げた石室内は真っ白で、なかには高松塚古墳やキトラ古墳のように、極彩色の壁画を描くものさえ登場した。石室には漆塗りの棺が納められ、船来の銅鏡や三彩なども副葬された。墳丘では八角形のものが登場し、天皇陵として採用された。

 

・遺体を焼くという行為自体は縄文時代にまで遡るが、文武4年(700)の僧道昭の火葬が、我が国での仏教的儀礼としての火葬の始まりである。天皇の火葬は、大宝3年(703)の持統天皇が初めてで、続く文武・元明・元正が火葬されている。これに追従するように、藤原不比等や武智麻呂といった貴族や上級官人らが積極的に火葬を行った。豪華な副葬品はないが、太安萬呂のように墓誌が納められていた。群集墳においても8世紀に火葬墓が急増したが、流行は一時的なもので葬制として定着することはなかった。

 

・火葬された遺骨は、木製・須恵器や三彩の壺、金銅製容器、石製容器などに納められた。金属製容器は石製外容器に納められることもある。骨蔵器は、墓穴に敷き詰めた木炭で覆うように埋められた。骨蔵器には墓誌のある例もある。威奈大村骨蔵器の蓋には、威奈大村の出自、持統・文武朝に活躍した詳しい履歴、埋葬の日付などを記した銘文が刻まれている。そこには「大宝元年、律令初定」とあり、当時の人々にとって律令の完成が記念すべき事であったことがわかる。