樫考研付属博物館⑫:『大和の考古学』⑪ | 古代史ブラブラ

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古墳・飛鳥時代を中心に古代史について綴ります。

樫考研付属博物館の常設展示に関する説明を続ける。

 

・仏経伝来と飛鳥寺の造営は、新しい様々な技術や文化ももたらした。寺院建築は、これまでの日本の建造物であった掘建柱建物とは異なり、基壇を構築して礎石を据え、屋根には瓦を葺いた。百済からは金工に関わる技術者や画工の他、瓦技術者も派遣された。初期の軒丸瓦の文様や製作技術は、その伝来を示すように、百済に似通ったものであった。

 

・舒明11年(639)には、天皇によって百済大寺の造営が始められた。大和においても各地で寺院が営まれ、その多くは有力豪族の氏寺であった。7世紀後半の天武・持統朝には、国家仏教として制度の整備や儀礼が行われた。藤原京とその周辺では大官大寺・薬師寺・川原寺・飛鳥寺が官寺とされ、それらは平城京遷都によって川原寺を除いて大安寺・薬師寺・元興寺として移された。

 

・平城京では8世紀前半には興福寺が造営され、藤原氏の氏寺であえるが、官寺と同様に扱われた。8世紀後半には官寺として東大寺や西大寺が、さらに中国・唐から来日した鑑真によって唐招提寺が造営された。飛鳥・奈良時代には、山中にも寺院が営まれた。岡寺や加守廃寺、毛原廃寺などであり、山林修行に関わったと推測されている。

 

・多くの古代寺院については、残された文献資料が少なく、そこから造営年代を知ることは難しい。この点を明らかにするために重要なのが、出土する考古資料である瓦、特に軒瓦である。軒丸瓦の文様は、仏教の教えの象徴ともされ蓮の花を表現した蓮華文である。6世紀末の飛鳥寺のものは花弁に装飾をもたない素弁であり、7世紀中頃の吉備池廃寺や山田寺では1枚の花弁の中に子葉をもつ単弁が用いられる。

 

・7世紀後半の川原寺や法隆寺(西院伽藍)では単弁を二つ合わせて一つの弁とした複弁になり、周縁にも三角形の鋸歯文など様々な文様を配するようになる。7世紀末の本薬師寺では周縁の内側に珠文を巡らせ、この文様は8世紀には主流になる。軒丸瓦は飛鳥寺では使用されず、山田寺や川原寺では重弧文、本薬師寺では偏行唐草文、大官大寺では均整唐草文が使用され、この文様が8世紀の主流となる。このような変遷に照らし合わせて各寺院の出土瓦から創建された年代を知ることができるのである。

 

・瓦は窯で焼成された。瓦窯は、供給先の寺院や宮殿に近接する場合と遠隔地に営まれた場合がある。構造としては、7世紀代は斜面の傾斜を利用した窯であり、須恵器窯と異なって内部に階段が設けられている。8世紀以降は床面が平坦で複数の畦が設けられた有畦式平窯が広く使われるようになる。

 

・「鎮護国家」の思想のもと、律令国家は全国に国分寺を設置した。総国分寺である金光明寺に聖武天皇が大仏を建立したものが東大寺である。大仏建立には疫病の流行や戦乱などで混迷する状況を打開するための国をあげての大事業であった。

 

・東大寺の建立では「知識」という仏教の考えのもとに全国から物資や人材の奉納・法師があった。東大寺境内で行われた発掘調査では、大仏を鋳造する際、銅を溶かした溶解炉の破片や、銅の付け札木簡など鋳造にかかわる多数の遺物が出土した。作業の具体的な様子が明らかになるとともに、科学的分析により山口県長登山から算出した銅が使われていたことも判明した。