「白村江戦と壬申の乱」筑紫都督府と日本国成立 | 古代史ブラブラ

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古墳・飛鳥時代を中心に古代史について綴ります。

服部氏が説明される「古田武彦氏の多元史観で古代史を語る」シリーズの「7.白村江戦と壬申の乱」の「筑紫都督府と日本国成立」に関する動画の「ポイント」と「所感」は以下のとおり。

 

「ポイント」

・7世紀後半、朝鮮半島を制した唐は、各国に都督府を設けて、間接支配をする。天智紀6年(667年)に、筑紫都督府が日本書紀に現れる。九州にも唐の都督府が置かれた。667年11月、(熊津都督府県令)司馬法聡が境部石積を筑紫都督府に送り届ける。

 

・都督・都督府とは。諸開府 儀同三司(開府は府を開くことができる地位。冷遇は三司と同じ)。倭王武は、密かに開府を名乗ったが(開府儀同三司)、南朝劉宋からは承認されなかった。南北朝時代(倭の五王)は、冊封関係の都督であり、都督府。つまり称号の位付け。ところが、唐の時代になると、唐が設置する都督と都督府。つまり、都督府とは地方の役所。唐は、百済に660年、5つの都督府を置く(熊津都督に扶余隆を任ず)。新羅には663年、鷄林州大都督を置く(鷄林大都督に新羅王法敏を任ず)。倭国には667年以前、筑紫都督府を置く。高句麗には668年、9つの都督府を置く。「皇子ながら、太刀を携え、大軍を率いて」半島に渡った倭国軍司令官を、『日本書紀』は隠していた。

 

・筑紫都督府が置かれた際の我が国。筑紫都督倭王として明日香皇子が帰国(筑紫都督府は大宰府にあった)。7世紀初頭の大宰府。7世紀中葉の難波宮。7世紀後半の近江京。本土に留まっていた倭国天子が存在する(難波宮あるいは近江京)。本来の倭国天子と、唐に任命された筑紫都督倭王、この時、2つの権力が列島に生まれた。

 

・2011年に中国・西安で発見された「百済れい軍墓誌(678年)」に「日本」の文字がある。678年には、既に日本国号が唐側に伝わっていた。新唐書の言う670年に日本国号が誕生したとみるべき。

 

・665~667年の間に唐に任命された倭王(筑紫都督倭王。筑紫都督府)。倭国天子が、670年、倭国→日本国として、日本国王を名乗る(難波宮あるいは近江京)。倭国天子=日本国王と、唐に任命された筑紫都督倭王、この時、2つの権力が日本に生まれた。文献で初めて「日本」が現れるのは『日本書紀』、神代紀で初めて「日本」が出てくる。「日本これをヤマトと云う。以下皆これにならえ」。倭も日本も読みはヤマトだった。

 

「所感」

・白村江敗戦後、唐に任命された筑紫都督倭王は、唐の影響を強く受けていたと推察。当時、我が国は、唐の強い影響を受ける筑紫都督倭王(九州)と、(九州王朝出身の)日本(ヤマト)国王(畿内)の2つの権力が存在するとともに、それ以外に大和に近畿天皇家が存在していたと理解。