「白村江戦と壬申の乱」白村江戦と泰山封禅 | 古代史ブラブラ

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古墳・飛鳥時代を中心に古代史について綴ります。

服部氏が説明される「古田武彦氏の多元史観で古代史を語る」シリーズの「7.白村江戦と壬申の乱」の「白村江戦と泰山封禅」に関する動画の「ポイント」と「所感」は以下のとおり。

 

「ポイント」

・7世紀、律令政治を始めた倭国(九州王朝)は、難波宮に遷都し、絶頂期を迎えたが、その直後、白村江戦で滅亡への道を歩む。660年百済滅亡、その後の復興支援で、倭国は、朝鮮半島に大軍を派兵したが、663年、白村江で唐・新羅連合軍に敗れる。

 

・九州王朝の難波宮遷都。652年9月、其の宮殿の様は言葉で説明できない。百済滅亡。高句麗征討のため、まず百済を滅ぼすべしとの、新羅(金春秋=武烈王)の献策を受け、660年3月、唐の蘇定方将軍が山東半島から海を渡って百済侵攻(水陸13万の兵)。7月、百済義慈王が降伏し、百済が滅ぶ。百済再興へ。661年3月、熊津都督の王文度が死去すると、百済の鬼室福信が残兵を集め、周留城で叛旗し、倭国に使いを遣り、王子余豊を迎えて擁立する(旧唐書)。

 

・661年、唐の劉仁願は熊津城を占拠していたが、百済の勢力に包囲される。3月、唐は劉仁軌に仁願救援を命じる(旧唐書)。劉仁軌の進軍で百済軍は万余人の戦死があるも、新羅軍が百済軍に敗れて、双方一進一退(資治通鑑)。『日本書紀』の倭国の動きは、661年8月、前将軍阿曇比羅夫等、後将軍安倍引田比羅夫等を遣わして百済を救援させた。9月、百済王子豊璋を狭井連・秦田来津に軍兵五千余を率いさせて本国へまもり送らせた。12月、「高麗は極寒で大通江が凍結し、唐軍が進撃してきたが、高麗軍は勇猛に戦い、敵要塞2か所を攻略し、なお2か所を残すところだった」と高麗から報告があった。又、高麗を救済する日本の軍将等が、百済の加巴利浜で火を燃したところ、灰が孔となってかすかな音が鳴った。

 

・662年2月、蘇定方は(661年に平壌城を包囲したが苦戦して)大雪のために帰国する(資治通鑑)。662年7月、仁願と仁軌は熊津城を占拠していたが、百済軍に包囲されていた。ここで高宗は帰国指示を出す。『日本書紀』では、662年3月、唐人・新羅人が高麗を伐ち、高麗が倭国に救いを求めた。そこで軍将を遣わした。このため唐人は南堺を略奪できなかった。新羅もその西塁を落とすことができなかった。

 

・『日本書紀』では、662年1月27日、百済の鬼室福信に矢十万隻などを与えた。5月、大将軍曇比羅夫等が船軍170艘を率いて豊璋を百済へ送り届いた。12月、豊璋・福信等と狭井連・朴市田来津が都を州柔か避城に置くか軍議をし、避城に都を遷した。是歳、百済を救うため兵器を修繕し、船舶を準備して兵糧を用意した。

 

・663年9月、劉仁願・孫仁師と新羅王法敏が陸路周留城へ進軍し、劉仁軌と扶余隆は水軍を率いて熊津から白江へ入り、陸軍と共に周留城へ向かう。この時、倭兵と仁軌軍が、白江口にて遭遇する。仁軌軍は、四戦して全勝し、その舟四百艘を焼き、煙炎は天を焦がして海水は朱に染まった(白村江の戦い)。この戦闘で、倭国軍は、数万人の兵士が命を落とした(資治通鑑)。

 

・『日本書紀』では、663年3月、前将軍上毛野君稚子、中将軍巨勢神前臣・後将軍安倍引田臣比羅夫が2万7千人を率いて新羅を討たせた。6月、前将軍上毛野君稚子等が新羅の沙鼻・岐奴江の2城を攻略した。8月13日、倭国援軍蘆原君臣が1万余の兵を率いて海を越えて来ると聞く。8月17日、唐軍将は船170艘を率いて、白村江に船軍を配置した。8月27日、倭船軍の最初に到達したものと、唐船軍が交戦した。日本が負けて退いた。8月28日、倭国中軍が進撃したが、唐軍が左右から挟み撃ちにして、あっという間に大敗した。入水し溺死する者が多かった。朴市田来津はここで戦死した。9月7日、百済の州柔城も唐に降伏した。9月24日、倭船軍と百済の難民が弓禮城に着き、25日日本に出航した。白村江戦での大敗戦、ほぼ全滅。我が国から派遣した軍兵はほぼ5万人。

 

・複数の将軍の派兵、これを誰が指揮したのか? 万葉集に現れる、白村江戦までの倭国司令官。万葉集 巻2/199:柿本朝臣人麻呂作歌。壬申の乱の活躍を歌ったとされるが、内容は全く異なる。朝鮮半島での白村江戦に至る戦いを歌っている。「皇子ながら、太刀を携え、大軍を率いて」半島に渡った倭国軍司令官を、『日本書紀』は隠していた。

 

・665年8月、劉仁願が新羅文武王と百済の扶余隆を熊津城で同盟させた。劉仁軌は、そこに耽羅と倭国の使者を加えて、海を渡って、西還せしめ、泰山に会祠せしむ。高麗もまた太子福男を遣わし来たり待祠す(資治通鑑)。「泰山封禅」とは、『史記正義』には、泰山の頂に土を築いて、檀を作り、天を祭り、天の功に報いるのが封で、その泰山の下にある小山の地を平らにして、地の功に報いるのが禅だ、とある。天命を受けた天子の中でも、功と徳がある者のみが執り行う資格を持つとされる。倭国からの参加者は皇太子級の人物だろう。天智天皇・大海人皇子が海を渡った記録はない。「皇子ながら大軍を率いて半島に渡った」人物か。

 

「所感」

・九州王朝が652年に難波宮に遷都した理由を確認したい。

 

・百済・高麗救援のため、九州王朝が派遣した5万の兵がほぼ全滅し、白村江の敗戦(663年)後、九州王朝の危機感は強く、665年の長安での泰山封禅に参加できた事は大きかったと推察。